東雲悠真 1
そこは喧騒から一線を引いていた。
レンガの敷き詰められた道路と、その隙間を縫うように流れる川。壁面を彩るアーチや、屋根に塗られたカラフルな色使いが、ヨーロッパの町に迷いこんでしまったのかと思わせる。
まばらな人並みもそんな感覚に拍車を掛け、早朝に行き交う人々は背広姿と学生服ばかりだ。飽く間で住宅街であり、観光地ではないのだと豪語しているかのようである。
それこそが『水苗町ニュータウン』の一画であった。
よく言えばありのまま。逆に捉えれば計画都市の失敗。されどそこに暮らす住民は、そんな評価を気にすることなく、いつもどおり営みを繰り広げている。
「うわぁ……まるで海外に来たみたい」
故に。故にそんな評価を口にする者がいるとすれば、それはまごうことなき余所者である。
実際にその通りだった。そこでぽかんとアホ面を晒している『東雲悠真』は、本日この町に越してきたばかりである。
悠真は今年十九歳になる。高校を卒業してから何をすることもなく、一昨日までは実家でぬくぬくと暮らしていた。
今時珍しくもない放蕩息子。しかし幸か不幸か、親はそれを許さなかった。「働くもの食うべからず」と埃の被った慣用句を口にしながら、悠真をこの町へと送り込んだのだ。
「確かこの辺りなんだけど……」
そんな彼が頼る先は遠い血縁。最後に会ってから数年は経とうとしている。
おまけに悠真から訪ねたことは皆無で、何度も何度もメモに目を落としながら町の奥へと潜っていく。
「ドルミーレ……うん、ここかな?」
ドルミーレ・イン・ディエム。
ラテン語をもじったであろう店名は、この近隣に一つしかない。ようやく辿り着いた目的地を前に、悠真は額の汗を拭う。
雑草に塗れた花壇を通り抜け、曇ったガラス窓の目立つドアを押すと、ちりんちりんとベルが鳴り響く。そんな音色に導かれるかのように、広がる店内もレトロなものであった。
外の石造りとは一転して、木目に支配された世界だ。長いカウンターが一つと、長方形のテーブルが四つ。何処もかしこも年期が入っていて、それでいて何処なく落ち着きがある。窓際の席を照らす朝焼けが白と黒のコントラストを描いており、ドラマか映画のワンシーンを連想させる。
「趣のある店だ」と悠真は素直に思った。「こんな店で朝を迎えられたら」なんてことも。
「いらっしゃいませー……って」
そして店の奥からパタパタと足音。
すかさず姿を見せるマスターに貫録はない。小中学生と見間違わんばかりの少女だ。長い髪を団子状に括って、猫を描いたエプロンを身に着けている。
「ユーマくん?」
「うん。久しぶりだね――ミミ叔母さん」
声もまた相応に幼い。そんな少女に悠真は微笑む。
「おぉう……おっきくなりましたねぇ」
「ミミ叔母さんは、あんまり変わらないかな?」
「私はこれからが成長期なのです。今に追い越して見せますから、覚えといてください」
背伸びして、目一杯に伸ばしても届かぬ指先。それを引っ込めた少女が眉を挑戦的に曲げる。
彼女は緑谷海々。海々だからミミおばさん。そのまんまである。
しかし『おばさん』と呼ぶには、その背丈はあまりに小さく、そして幼い。実際に年齢も悠真の二つ下にあたる。十七にしたって幼く見えるが、それでも血縁上は叔母であった。
「三年ぶりくらいだったっけ? あの頃は叔母さんも中学生で」
「五年ぶりですよ、ユーマ君。政孝さんの三回忌以来です」
「あぁ……そうだったね」
ミミの指摘を、悠真は躊躇いがちに頷く。五十代の頃の祖父の不義理を思い出したくないからだ。
当時のことを東雲家では『きっと役職を得て、気が大きくなっていたんだろう』と認識している。ミミと悠真の親戚関係はそういう類である。
「てっきりもう大学生か社会人になってると思ったんですが、ユーマ君はいつまで経っても子供ですね。そんなんじゃ叔母さんはいつまで経っても安心出来ません」
しかしミミはそんな事実を気にする様子もなく『叔母』を自称している。
一人っ子で見た目もおぼこいことから、年上ぶることに憧れているのだろう。
「そんなユーマ君も今日からバイト君です。しっかり大人としての作法を教えてあげますから、一言一句聞き逃さないように」
故のドヤ顔。実際は年下にも関わらず、悠真の体たらくを嬉しそうにしている。
そういうところが一層幼さを演出しているのだが――今ではすっかり慣れ切ってしまっていた。
「ですが……! 長旅でお疲れでしょうし、今日のところはゆっくりしてください。すぐに用意をしますから、適当な席にでも座って待つのです」
そう言ってミミは奥へと引っ込む。お茶でも出してくれるのだろう。カウンターの裏側で、コンロが点火する音を耳にする。
「叔母さんのコーヒーかぁ」
悠真は目を付けていた窓際のテーブル席に腰を下ろす。実際に座ってみても心地が良く、深夜バスの疲れも相まって眠気を誘う。
だらっと頬杖をついて、洋風な街を見渡し、のどかな町だと思った。スローライフという奴だろう。道行く女子高生はゆっくりと歩を進め、野良猫達は塀の上で船を漕ぎ、強面の大男までもがぼっーと空を眺めている。
店内に流れているオールドジャズも、そんな雰囲気に拍車をかけている。伸びるようなウォーキングと、波のようなハイハット。その合間を埋めるスタッカートピアノの音が嫌味なく馴染んでいる。
それだけでもう悠真は好きになれそうだった。ここでゆっくりと、まどろみのような生活を過ごせればどんなにいいことかと思いながら――
「お待ちっ!!」
弾けんばかりの声に遮られる。
ドンと勢いよくテーブルに置かれたのは一枚の大皿。隣には盆を手にしたミミ。湯気立つ香りは香ばしく、甲高い銅鑼の幻聴が聞こえたような気がした。
「さ、どうぞ。冷めない内に」
「…………」
それと共にBGMも白熱の一途を辿る。ホワイトノイズ交じりのトリオ演奏はブツブツとカットアップされ、それと入れ替わりにデジタルなバスドラムがズンズンと鳴り響く。
どうやらオールドジャズではなく、エレクトロスウィングであったようだ。ノリノリの重低音がこれまでの雰囲気を軒並み吹っ飛ばす。
「うるさい」
そしてミミの趣味でもなかったらしい。無慈悲なリモコンによって強制的に打ち切られる。「じゃあ何で流してたんだよ?」と悠真は思った。
「どうしました? 今回は結構自信作ですよ?」
「…………いや」
しかし音楽がなくなったとは言え、香りまでは誤魔化せない。未だ『レトロな喫茶店』という格は行方不明だ。
何せミミが実食を促す一品――すごく出汁の香りがするのだ。
空腹時なら思わず涎が零れそうなくらいに、見た目からしてもパラパラとしていることが良く分かる。きっと高熱で一気に仕上げたのだろう。
「…………ん」
やがて悠真はそれを一口、レンゲですくった。
見た目、香りにそぐわぬ味わいだった。鳥ガラの味が良くしみているし、米の舌触りも程よい加減である。玉ねぎ、ベーコン、卵、それぞれの具材も調和しきっていて、激戦区の中華料理にも対抗出来るであろう。
「チャーハン」
「はい?」
「チャーハンじゃん」
そして突っ込んだ。
モグモグと中華味を飲み込んで、雰囲気とあまりにそぐわぬソレを指さして。
「それが何か?」
「ここ喫茶店だよね?」
「はい。母から受け継いだ大事なお店です」
クエスチョン。アンサー。
それらを挟んでもさっぱり分からない。ヨーロッパ風なカフェと中華風な油っ気は反発し合ったままである。
「えーと……ミミ叔母さんは、朝ごはんをくれたのかな? だからメニューにはない料理を僕に」
「いいえ? これがメニューですけど」
「…………」
「モーニングセットです」
悠真は唇を噛み締める。「モーニングにしたって重すぎるわ」と思いながら、震える手でレンゲを握りしめて。
「ミミ叔母さん。喫茶店って知ってる? コーヒーと軽食を提供するアレ」
「知ってますよ。もしかして私のことを馬鹿にしてます?」
「普通の喫茶店はチャーハンなんか出さねぇよ!」
「わっ」
叫んで、突っ込んだ。叩いたレンゲがキンキンとした音を残響させる。
ミミは息を呑み、弓なりの眉を曇らせながら「もしかして」と声を震わせた。
「きらい、でしたか?」
「大好きだよ! 色々と間違ってるけど味は好きだよ畜生!!」
悠真は転がるレンゲを拾って、一気にかっ食らった。バクバクバクバクと吸い込むように、見る見るうちに減っていく。
「ごちそうさまっ!」
「おそまつさまです」
ふーっと一息。最初から最後まで飽きの来ない味わいだった。
だがそれはそうとして――満足感と突っ込みどころは必ずしも相殺しない。
「お茶です」
そうして出されたものも緑茶である。ズズズと啜ってみても緑茶。睨みつけても裏返してみても緑茶。豆の香りは一つとしていなかった。




