武澤大雅 4
「ここっす」
頭部にタンコブを抱えたサブが言う。
檜の引き戸に筆文字で描かれた暖簾。如何にも和食と言った雰囲気で、周囲には街の雰囲気とはアンバランスが提灯が並んでいる。
レンガの橋を渡って、一つ角を曲がっただけでソレだ。全体の見てくれは変わっていても、本質はさして変わっていないのだろうと、大雅は改めて思い知らされる。
「っつーか、さっきから後ろは何を騒いでんだ? 若い女みてーだけど」
「ごめんくださいっすー!」
「聞けよ」
大雅の質問に答えることなくサブは暖簾を潜る。余程腹が減っているのだろうか? 後方から響く『キリシマ』という謎の単語を意にも解していない。
(ったく……)
心の中で悪態を付きながら、大雅も後に続く。後ろ手に戸をピシャリと閉じて、その後は関心を向けなかった。
「え……?」
それよりも眼前に意識を奪われてしまったからだ。
カウンター席のみで、少人数で行っているであろうこじんまりとした店構え。それ自体は不思議ではない。大雅とて一人で飲みに行く時はそういう場所を選び、慣れてるつもりだった。
「…………っ」
それでも抵抗を感じてしまったのは、割烹着姿の女から向けられる視線である。
ぎょっと目を見開いたのは一瞬。次の瞬間には射殺さんばかり目つきで大雅を睨みつけていた。
「女将さん! どて焼きと枝豆と、あと瓶ビールをお願いっす」
そんなことにも気づかず、サブは注文を並べ立てる。ランチと言っておきながら、すっかり飲む姿勢を匂わせて。
「…………ビール」
同じように席に着いた大雅は飲み物だけ注文する。とても喉が通る気分ではなかった。
「どうしたんすかアニキ? 顔色悪いっすけど」
「なんでもねぇよ」
「ここの女将さん、ずっとこの街に住んでるとかで、前に世話になったことがあるんす」
「そうか」
「それに……結構な別嬪さんだと思いません?」
と、サブは耳打ちをする。そこに大雅は相槌を打たず、むしろぞっとしない気分だった。
「はーいっ、佐武吉ちゃんの突き出し」
そして――そんなヨイショはしっかり聞こえていたのだろう。
媚びたような女将のトーンに、大雅は一層背筋が冷たくなるのを感じた。
「わっ、こんなにもいいんすか?」
「佐武吉ちゃんはよく来てくれるからねー。おばさんからのサービスってやつ」
とても突き出しとは思えぬ海産の盛り合わせ。白身赤身では飽き足らず、アワビやウニまで添えられている。
「ほれクソ虎」
対して大雅には――見るもカラフルな輪ゴムの盛り合わせ、
食べ物ですらない。差別ここに極まりである。
「…………」
大雅は無言で脇によける。そもそも食欲などない。何を出されたってどうでもいいと思いながら。
「はいっ、瓶ビール! コップはこっちね」
「あざーっす!」
続いて大瓶がサブの下へ。
頼んでもいないのに酌まで買って出る。
「おら生ゴミ」
続いて真水が大雅の下へ。
氷すら入っていない常温で、ついでに言うと蛇口から汲んでいた。
「おっと、すっかり忘れちゃってた。おしぼりをどーぞ」
「おぉ! あったけえや!」
サブにおしぼりが差し出される。竹を切り取ったであろう容器に乗せられており、ほのかに湯気が立っている。
「くたばれ不能」
大雅には雑巾。ガンコな油汚れと格闘したであろう歴戦のボロ切れである。おまけに手渡すという動作すら省略して、顔面にベチャリと投げつけられた。
「ざけんな!」
流石に大雅とて、これにはぶち切れる。
雑巾を投げ捨て、輪ゴムの束をひっくり返し、カウンター越しに詰め寄っては、
「おい千佳子! てめえどういうつもりだ!?」
つんとした女将――大川千佳子に吠え散らした。
「……あんたは客じゃないからね」
千佳子は大雅の強面に一歩も怯まず、むしろ睨み返して見せる、
「かといってこの街の人間でもない。それ相応の挨拶ってもんでしょう?」
「……ちっ!」
伸ばした手は胸倉を掴むことなく、自らの下へと引き返す。大雅はどかっと椅子に座りながら「くそが」と吐き捨てる。
「っつーか……てめえ一人かよ?」
「今日はね。夜は何人かいるけど」
「立花子はどうした?」
「知らない。最後に会ったのは親の葬式の時。大方またどっかでバックパッカーの真似事でもしてんじゃないの?」
脳を過ぎったのは千佳子の三つ下の妹。
剽軽な彼女がいてくれれば自分の味方をしてくれただろうと――そんな甘い考えはあっさり切り捨てられる。
「どいつもこいつも……出ていくことがカッコイイって思ってんのかねぇ?」
そしてその話題は千佳子にとっては火に油だったのだろう。口調こそ嘲るようでありながら、目元の刺々しさを隠そうともしていない。
対立の始まりは十五の夜。
大雅は自らの出立を巡って、千佳子とこっぴどく喧嘩したのだ。
『ふざけんじゃないよタイガ! あんたまで出て行ったらミサトさんは――』
『ミサ姉!? 知るかあんなアバズレなんざ――』
それは断片的なフラッシュバック。
思ってもないことを口にしたことを、大雅はハッキリと覚えている。
『…………』
それを陰から聞いて、悲しそうにしていたヒトの顔さえも。
「あ、あのお……」
ピリピリした雰囲気に割りこむ遠慮がちな声。
肩を小さくまとめながらも、サブが小さく手を挙げていた。
「女将さんとアニキって、お知り合い?」
「腐れ縁だ」
「腐れ野郎よ」
「おいコラ。腐れ野郎って何だ? 誰を指差して言ってんだ行き遅れ」
「行き遅れぇ!? 行き遅れっつったかコラ! そういうあんたが逝き遅れでしょ!! ドンパチすることしか能がないくせして、あの世からも拒否されてるってんだからとことん――」
「すとっぷ! すとぉぉぉぉっぷ!!」
あわや掴み合いになりそうな二人をサブが食い止める。
睨み合いを先にやめたのは千佳子の方で、苛立たしげに帯の内側を弄る。
「ふー……」
取り出した百円ライターが火を放ち、チリチリと紙を焼く。馴染んだ和装姿も相まって、酷く絵になっているような気がした。
「料理人が煙草かよ?」
「親が死んだ時に始めたのよ」
「んだそれ?」
「ま、半分当てつけみたいも――っふ! こほっけほっ!」
「吸えてねーじゃねーか」
明らかに慣れていない様子だった。それでも千佳子は煙草から指を放さず、涙目のまま大雅を睨みつける。
「で? 今更何の用なのよ? ようやく墓参りでもしようって気になったの?」
「馬鹿言え。んなことする筋合いなんざねーだろ」
「あれだけ世話になっておいて? 呆れた。あんた本当にガキの頃から変わってないわね」
「何とでも言え。今は……組が俺にとっての家族だ」
それは売り言葉に買い言葉であった。大雅は口にして、自ら胡散臭さに気づく、
結局は都合よく使われていただけで、今は切り捨てられそうになっているのだから。
「何が家族よ。笑わせんじゃないよ」
そんな思いを肯定するかのように千佳子も悪態をつく。
「失恋して、全部捨てただけのクセして」
「……ミサトさんはそんなんじゃねぇ」
「じゃあ何なのよ?」
「ミサトさんは…………俺にとって…………」
大雅は答えられなかった。恋慕だと言えばそうであり、親愛だと言えばそうでもあった。
ただ大雅にとっての現実は、あの男が全てを奪ったということ。そしてミサトが自分を必要としなくなったということである。
「アニキ」
と、そこで黙って聞いていたサブが口を開く。
「事情はよくわかんねっすけど……」
神妙な顔つきだった。空になったグラスをそっと置いて、考え込むかのように顎へ手を添える。
「気づいたことがありやす」
「んだよ?」
「アニキって――寝取られ物の主人公みたいっすぶぁあ!!」
鉄拳制裁(四度目)。
サブは木目のカウンターテーブルとキスを交わし、夢の世界へと旅立った。
「ちょっとタイガ! 何してんのよ!!」
「見ての通りだ。サブが潰れた」
「あんたが潰したんでしょうが」
「ってなわけで話は終わりだ。釣りはいらねえ」
昏睡患者(物理)を肩に担ぎ上げ、クシャクシャの一万円札を差し出そうとして――突き返される。千佳子の表情は非難を通り過ぎ、疲れたような色を見せていた。
「はぁ……」
それも物憂げな溜息までセットにされては、大雅の気分まで沈んでいく。垣間見せた小皺が時の流れを示しているかのようだ。
「こんな男に好かれてたってなれば、ミサトさんも悲しむわね」
「……今更だろ、んなもん」
「じゃあミミちゃんが憐れむわ。家族がこんな男に付きまとわれてたって聞いたら、結構なトラウマもんよ」
「それも今更……ん?」
それは引き戸の取っ手に手をかけようとした時。
聞き覚えのない名前に、大雅はピタリと立ち止まる。
「…………誰だ、それ?」
「あんた知らないの? ミミちゃんはミサトさんの――」
「ア、アニキ……ちょっと急用を思い出しまして!」
そう言って、サブは何処かへと走り去った。
それは千佳子の店を出て、すぐのことであった。むくりと立ち上がったかと思えば――まるでとっくに目覚めていたかのように――顔を真っ青に染めていた。
「んだアイツ?」
泡を食って駆ける背中を見送りながら、大雅はぼんやりと吐き捨てる。
しかし都合も良かった。今は軽口に付き合う気分でもない。さきほど千佳子から押しられた事実に、大雅は得も言えぬ気持ちに包まれていたのだから。
「ミサトさんの娘、か」
呟いてみても上手く呑み込めない。愛憎と郷愁がミキサーにかけられて、ドロドロの液体と化したかのよう。
「緑谷……ミミ……」
この世で尤も憎たらしい男との結晶が今も形として残り続けている。それは大雅からすれば悪夢以外の何物でもない。
「…………やめだ」
だからと言って考えることすら今更で、詮のないことである。
顔を上げると短くなった日が暮れ始めていることに気づく。ぽつりぽつりと人の流れに学生服が混じりつつあり、差し込む紅色が一日の終わりを告げている。
酒でも買って帰ろう、と大雅は踵を返す。起床二時間程度でありながら酷く疲れてしまった。昨日も一昨日もそれ以前もそうであったように、アルコールの力で全てを陽気に墜としてしまおうと考えながら――
「じー……」
変な娘と目が合ってしまう。
「あ?」
「じー……」
見た目の話ではない。むしろ見た目は整っていると言える。長い髪はしなやかで、輪郭は愛らしい丸みを描き、桜のような肌が健やかさを発している。変化に乏しい眉が玉に疵ではあったが、きっと将来は美人になるだろうと――そんなことを思えるくらいに。
「じぃぃぃー……」
しかしこの娘、口で直接言っている。
おまけに背丈も小さく、大雅の胸にも及ばぬくらいである。明らかに自分の背丈以上のコートを小脇に抱え、通学用と思しきハンドバッグを両肩左右に二つ吊るしている。
「…………なんだお前?」
と、しばしの放心を挟んだ後に大雅が問いかける。
「JKです」
と、娘が答える。
しかしながら大雅にはどうみても小学生にしか見えない。
「はて? 呼ばれたような気がしたのですが……気のせいでしたか」
かと思えば、当てが外れたと言わんばかりに目を逸らす。キョロキョロと周りを窺う姿が何処となく危なっかしい。
「お前、なんだ? その……変な喋り方しやがって」
だからだろうか? 気づけば大雅は引き止めてしまっていた。
まるで若いチンピラのような語り口調で、無理くり話題を引きずり出して。
「教育の賜物です。標準語と敬語はちゃんと身に着けないと後々苦労すると、しっかり叩き込まれましたから。えへん」
娘は振り返って、器用にも口元だけでドヤって見せる。
そんな仕草も初めて見る筈なのに、大雅はこめかみに鋭い刺激を感じてしまう。まるで何処かで目にしたかのような、そんな既知感が付いて離れず――
「すみませんが、これから用事があるのです。トイレから自宅にダイナミック直帰した小娘の荷物を届ける役割が」
だが伸ばした手は空を切った。言いながら娘は一歩遠ざかり、掴めそうになった感覚も四散する。
「何故別のクラスの私に任せるのか、度し難い限りです。本当に友達いないんでしょうか?」
「…………知るか」
弱々しい返答と、弱々しく閉じる指先。そこには『さよなら』も『またね』もない。ただの通りすがりと通りすがりが、偶然相まみえただけの一瞬。痛いくらいの動悸とは裏腹に、淡泊とも呼べる距離感が二人を分かつ。
(なんだ……なんだ、これ?)
故にそれは恐らく一方的な物。娘は気にも留めず、大雅は何度も振り返る。
結局姿が見えなくなるまで凝視し続け、やがて部屋に帰ろうとも拭えはしなかった。
その日は眠れず、次の日も眠りは浅く、その次の日も夢に出て来る。
よもや一生続く呪いなのかと、一層アルコールの量が増えてしまったのは言わずもがな。