武澤大雅 3
古い夢を見ていた。
暖かくて、懐かしい。彼が『武澤大雅』ではなかった時の朧げな記憶である。
『タイちゃん』
目の前で小柄な少女が笑っていた。
外は雪だと言うのに長袖を捲って、健康的な腕を露出させている。長い髪は団子状にまとまっており、毛先が尻尾のように揺れ動いている。
『今日は上手くできたけん。ちょいと味見しよって』
そう言って、少女は鍋掴み越しに大雅の手を取る。古い木造屋敷の中は二人っきりで、彼らを保護すべき存在は滅多に姿を見えない。
それでも大雅は寂しいと感じたことは一度もなかった。むしろこの時が一番落ち着いていられたと思っている。
キッチンに漂う煙が視界を覆うと同時に――カシャリと映像が切り替わる。
フィルムのカットのように時間が進んで、広い居間が映し出される。
『うーん……ちょいと光がたりんかったかねえ?』
女性らしい膨らみが増した少女が、植木を前に首を傾げている。しかし思うように背は伸びず、既に視点の高さは逆転している。「どう思う?」と上目遣いを向けられる度に、大雅は胸が高鳴りを覚えていた。
『あははっ。そんなおっこうなこと考えとらんって! そりゃあそういうのもええなぁって思っとーけど、今は生活にらんきやけん』
喜怒哀楽がハッキリしていて、とりわけ笑顔が眩しかった。そこから紡がれていた訛りのルーツは知らない。幼少期に色んな地方を点々とさせられたが故のミックス方便だと、彼女自身は言っていた。
『それよかタイちゃんばなじょったい? ごんだぐれなんはええけど、あんまりどぅしをかしろうたり、けんがばっかすんのは感心せんとよ?』
たまに何を言ってるのか分からないこともご愛敬。むしろ何もかもを受け入れるという――そんな彼女の広い心を象徴しているかのようだった。
『タイちゃーん! こっちこっちー!』
場面と時間は次々に切り替わる。小学生から中学生へ、中学生から高校生へと女らしさが磨かれていく。
大雅は一緒にいられるだけで良かった。
『なんか最近、街がせからしくなっとうね……』
やがて街に重機の束が押し寄せようとも、さしたる関心も湧かなかった。
それでもずっと一緒だと思っていたから。
『タイちゃん! この人ばごぉぎぃ熱! 水とタオル持ってきて!!』
しかしそうではなかった。
『しばらくうちで面倒見ることにしたけん。ばりええ人やさかい……タイちゃんも仲ようしてあげてね?』
その男が家に来て、二人っきりの生活が終わり、全てが目まぐるしく変わっていく。
そして――
『タイちゃん。三カ月やって』
気づけば少女は女になり、大きなお腹を抱えていて――
「おんどりゃああああああああああああ!! ぶっころしたらぁあああああああああああああああ!!」
「うわあああああああああああああああ!?」
怒声と悲鳴が交差する。
激情のまま拳を振り上げる大雅であったが、そこはかつての古屋敷ではない。畳と障子の狭い一室であり、掴んだ胸倉は殺しても飽き足らぬ男のものではない。
「ア、アニキ……も、もう昼過ぎっす」
苦しそうにサブが時計を指差す。短針は二を指していて、足元には空っぽの一升瓶が転がっている。
ズキズキと頭が痛むのを感じて大雅は思い出す。そういえば昨晩も飲み明かしていたのだと。
「おふっ!」
パッと手を放し、サブが畳に頭を打ち付ける。ゴロゴロと悶えてはいたが、それよりも大雅はペットボトルに貯めた水道水を喉に流し込む。
「…………ふぅ」
喉の渇きが癒えると同時に意識が現実へと追いつく。
シンクに並んだ一升瓶が、ここ一週の自堕落っぷりを証明していた。仕事は未だ達成出来ておらず、電池切れの携帯電話は隅に打ち捨てられている。少ないポケットマネーが底を見せているのは言うまでもない。
「ア、アニキ」
頭を擦りながらサブがむくりと立ち上がる。寝ぼけていたとは言え振るわれた暴力も、そもそも勝手に上がり込んだことへの謝罪も必要とはしていない。しゅんとした目で外の光を一瞥しながら「たまには外に出ないっすか?」と言った。
「あん? 外?」
「うまい店を知ってるんす。それにずっと引きこもってたらカビが生えちまいますし」
「てめえがそれを言うか? 普段は部屋でペラペラの漫画ばっか見てるくせによ」
「いや、アニキに言われたくないんですけど」
遠慮ない言い回しに舌打ちしながらも、大雅はスーツのジャケットに袖を通す。夢見の悪さも相まって、部屋に籠るのは御免だと思っていた。
「でも金はねーぞ」
「ランチは案外安いっすから……っと、そこ気いつけてくださいね」
部屋を出てすぐにサブは警告する。二階廊下の地面は太い亀裂が走っており、隅に置かれた室外機は『修理中』のテープが張られたままになっている。バッテリーによって通電はしているそうだが、暖房をつけようとすると火花を散らしたとのことだ。
「こんな仕事でも焼死はごめんっす」
「ケツに火はついてるだろ?」
「違いねっす」
と、皮肉に苦笑しながらサブが先導する。たまに酒を調達することを除けば、三日ぶりの外出だった。 さりとて大雅に感慨深いものはなく、やはり周囲の目が気になってしまう。今更自分のことを覚えている人間がいるとは思えなくとも、道すがらに既視を感じてしまう。
『ンナァーオ……』
『フニャア……』
言ってしまえば街そのものの記憶を突き付けられているかのよう。通りすがりの猫などが顕著だ。それぞれが違う種類であるにも関わらず――それでも昔からずっといるからのような――無数の眼差しが監視の目を思わせる。
故に大雅はこの街の猫が苦手だった。街そのものを縄張りと捉えているのか、決して人間に心を許さず、量に反して首輪付きが一匹もいない。
「それはそうと、どうなんだ?」
そんな気分を誤魔化そうと、大雅は口火を切る。
「お前のシノギ。上手く絞り取れそうなのか?」
「それは……」
サブは目を逸らし、大きくため息を吐く。仕事が嫌で出不精になっていたのは彼とて同じだった。
「やってらんねっす。あんな小さいガキを追い出してまで、土地を奪うだなんて」
「土地?」
「あれ? アニキは知らなかったっすんか? 上は取り立てなんかどうでもいいってこと」
「は……?」
「え、マジで言ってます? ってかアニキの殺しもそれ関係だって、俺は踏んでたんすけど……?」
言って、互いにぽかんとした顔を見合わせる。片や度肝を抜かれたようで、片や自らの無知を証明していた。
「えーと……地上げの話、聞かされてませんでした? ここいら物件の相場、最近すげえ勢いで上がってるんすけど」
「…………」
大雅は無言で肯定する。
それすなわち自分だけが仲間外れにされていたということ。加えて、察するだけのお頭が備わっていなかったことを示しており――
「あぁ――アニキ、馬鹿ですもんね?」
鉄拳制裁(三度目)。
その一撃には上への恨みや、貶められた境遇への不満もこもっていたとか、いないとか。




