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珈琲を飲めば桶屋が儲かる  作者: 弱男三世
15/29

狐坂彩夏 6


 ごうごうと燃える火の手の傍。

 慰めはいらない。誰でもいいから声を聞きたい。

 そんな思いで彩夏は携帯電話を取り出して――


『ふわぁ……なによ、こんな真夜中にぃ……』


 スピーカーは何時もの相手へと繋がった。


「リカお姉ちゃん」


『んー……彩夏ちゃん? あのねぇ……非行娘ごっこすんのはいいけどさー……ワタシだって都合ってもんがさぁ』


「ごめん。迷惑だとは思ったけど、話がしたかったから」


『…………ん、ならいいわ』


 暗い様子に気づいたのか、気だるげな不満が一瞬で鳴りを潜める。

 彩夏はそんな察しの良いところが嫌いで――大好きだった。そうやってずっと甘えてきたことを今一度思い知らさせる。


『それで、今日はどうしたの?』


「いや、大したことじゃないけどさ……思い出しちゃったの」


 キリシマのことは終わった。

 だからリカに伝えるべきは、手渡されたままの宿題である。


「イソップ寓話――狐と葡萄の話でしょう?」


『…………』


「ママが話してくれたことがあったから」


『そう』


 ふーっと長い吐息が残響する。小気味の良い金属音と、チリチリ焼ける燃焼音をセットに。


「煙草吸うんだ? 知らなかったな」


『月に一本だけよ。親が死んだ時に決めたの』


「いいの? まだクリスマスも大晦日も残ってるっていうのに、そんな貴重な一本を使っちゃって」


『ワタシからすればどっちも普通の日だっての。ああいうのは祝う相手がいて、初めて意味を成すんだから』

 

 そう言って、しばしの沈黙。

 受話器の右耳は煙草が燃える音で、空いた左耳はサイレンの音。微妙なリンクが彩夏の感覚を狂わせ、リカがすぐそこにいるような錯覚を覚えてしまう。


『…………彩夏ちゃんはまだ若いんだからさ。目の前にある物がちょっとツラいからって、酸っぱいって決めつけるのはやめときなさい』


 やがて吸い終えたのか、神妙な声が耳をくすぐる。


『色々あったんだろうけど……わざわざ遠くを探す必要なんかないわよ。そういうのは本当に詰んじゃった時にするもんだから』


「…………ん」

 

 うんと頷こうとして、上手く言葉にならなかった。

 酷く喉が震えていた。きっと煙を吸ってしまった所為だろうと彩夏は思う。


「じゃあ……遅くにごめん。またね?」


『いいや、もうかけてきなさんな』


「でも」


『そういうとこじゃないって、何度も言ってるでしょ?』


「…………わかった」


 すっかり乾いた瞳に、またしても水気が溢れる。

 きっと煙が目に入ってしまった所為だと彩夏は思う。


「じゃあ…………バイバイ」


『じゃあね。もう電話がないことを祈ってるわ……っと、その前に』


 リカはこほんと咳払いを挟み、改まって声色を変える。

 初めて電話した時がそうであったように。



『児童いのちの電話、スタッフの『おおかわ』がご案内しました……っと。それじゃあね――狐坂彩夏ちゃん』



 それだけを言い終えて、通話が途切れる。

 するとプープーという電子音が、けたたましいサイレンに上書きされる。いよいよ本格的に近づいている。彩夏はゆっくりと立ち上がり、夢遊病のような足取りで歩き出す。


(結局ひとりぼっちで、何処にもいけない)


 向かう先は彼女自身も分からなかった。長い長い現実逃避が終わってしまって――これまでもそうであったように――戻るべき立ち位置が分からない。

 思考の波はぐるぐるぐると螺旋階段のように。或いはティーカップに垂らしたミルクのように渦を描いて、そこにつられて視界が傾いてしまう。


(あ――)


 というより、本当に目を回していたのだろう。

 何せ昨晩は準備と緊張で一睡もしていなかった。そこに消耗する出来事が重なった上、おまけに転がるナニカに足を取られてしまった。


(なんでやねん)

 

 そして彩夏は心の中でツッコむ。

 踏んづけ、宙にバビュンと舞い上がるソレは――コンニャクであった。

 一個丸々剥き出しで、切り目の一つも入っていない。豆腐の角にぶつけて死ねとは言ったものだが、コンニャクに滑って死ぬ者は世の中にどれほどいることか?


(やばい)


 されどそれでも危機は危機だ。不幸にも転び方が後頭部コース。

 スローモーションになった時間間隔の中で、ぶわっと過去の光景がリバイバルされる。


 たとえば小学二年生の遠足――緊張とバス酔いでゲロを吐いた。

 たとえば山に泊まった林間学舎――班から逸れて遭難しかけた。

 たとえば中学の修学旅行――仮病を使って家で寝ていた。


(アタシの人生ロクなことないんだけど!?)


 今更である。

 というか一部は自業自得と言ってもいい。


(え、何これ!? もしかして走馬燈!? 折角助かったのにこんなのってアリ!?)


 しかし走馬燈とは本来生き残る為の検索行動であるらしい。

 そういう意味で言えば――彩夏の脳も確かに機能はしていた。


『猫、お好きなんですか?』

 

 何せ最後に思い出した光景がコレだ。

 高校に入って間もない頃の合同体育で、グランドに猫が迷い込んだことがあった。


『気が合いますね。私も好きなんです』


 猫をあやす彩夏に語り掛けたのは隣のクラスの少女。とても高校生と思えぬ見た目と、大人ぶった口調が印象的だった。

 ずっと彩夏が忘れていた……いや、忘れようとしていた記憶である。

 本当は友達になりたかった。そうできなかったのは一握りの勇気のなさと、反比例していた見栄と――悪魔の一言が関係している。


 そう。この後で現れたのだ。

 冬でも薄着で声がうるさい、二十代後半の健康的な悪魔が。


『はーい。じゃあクラス別に分かれて二人組作ってー!』


(くそがあああああああああああああああ!!)

 

 ああ無常。

何の為の合同体育か? 何故にクラス別なのか?

 当然彩夏は炙れた。ポツンと取り残されて、悪魔(教師)とダンスを踊る羽目になった。

 そんな彩夏にミミが残した言葉が、


『あ……そういう感じの方でしたか』


『ち、ちがわい! バーカーバーカ! このドチビー!』


『なんと!?』


 微妙に無神経な一言に、プライド優先の言い返し。

 売り言葉に買い言葉の始まりである。高校デビューは完全に失敗で、体操着のまま直帰して、そこからしばらく不登校になった。


(いや……こんなのいや! このままじゃ終われない!!)


 再上映が終わると同時に浮遊感が蘇る。そんな彩夏の胸に湧き上がるのは恐怖ではない。身を焦がさんばかりの激情である。


(次は! 今度は絶対に!)


 咄嗟に身体を捻って両手で頭を抱える。そうやってぶつけるのは腰か、手首か? またしても健を切るかもしれない。骨折で長期通院となるかもしれない。


(ひとりのままは――もういや!!)


 それでも関係ない。同じ場所で何度だってやり直してやるんだと、彩夏はホントの願いを抱えながら地面に吸い込まれていって――


「彩夏!!」


 刹那、誰かの手に支えられた。

 武澤よりもずっと細くて頼りない。少女一人分の体重さえも支えきれず、二人してべちゃりと尻持ちを付くような。


「っつー……つつつ」


 眼鏡のレンズは罅割れ、髪は汗でボサボサ。おまけに腰まで打ったらしく、皺を一杯に寄せた表情が情けなさを際立てる。


「さ、彩夏…………怪我は、なかったかい?」

 

 それでも娘を案じようと――狐坂夏樹は不格好な笑顔を作っていた。


「パパ……っじゃなくって!」


 彩夏は反射的に出てしまった単語を誤魔化すように叫ぶ。


「なんでここにいるのよ!? いつもは探しになんか来ないくせに!」


「それはこっちのセリフだろう? あんまり夜遅くに出歩くなって前から言ってたのに」


「質問してるのはこっち!! どうして!? どうして今日に限って探しに来たの!?」


 彩夏は烈火の勢いで捲し立てる。あらゆる感情がない交ぜになっていて、半ば混乱していると言ってもいい。


「そんなの……様子がおかしかったからに決まってるじゃないか」


 しかし夏樹は当然のように答える。当然のように迷いがなく、当然のように怒りを滲ませて。


「家に帰ったら玄関が開いてた。なのに部屋中の電気が消えてる」


「はぁ?」


「外出する時の約束。この街に泥棒なんて出ないだろうけど、それでも不用心だからそうしなさいって、ちゃんと守ってただろ?」


「あ……!」


「彩夏はよく外に鍵を忘れてきたから」


 それは『互いに締め出されない為』の取り決め。母が亡くなって以降、鍵を忘れた側が家に帰れるようにと、ずっと昔に決めたことだった。

 無論事実は違う。語る夏樹が鍵を忘れたことなど一度もない。彩夏がカバンも持たずに学校から逃げ帰ってくることが多かったからだ。


「おかしいと思って部屋を見てみると、洋服ダンスもクローゼットも開けっ放しだ。本当に何かあったのかと思って、いても経ってもいられなくってさぁ……!」


 それでも約束は約束だった。

母がいなくなった後の、父と二人で交わした約束である。

 そんな当たり前でさえ――彩夏は言われるまで思い出すことが出来なかった。


「…………ごめんね」


 いや、或いは無意識下で覚えていたのかもしれない。

 そんな風に考えてみると――なんと馬鹿らしいことなのか? これではまるで気づいてもらうこと前提だと思いながら、彩夏は肩の力が抜けるのを感じた。


「パパ。心配かけてごめん」


 だから素直に、嗚咽を零す男の髪を撫でる。


「俺、強く言い過ぎたのかと思って……! 彩夏の為って思ってたけど、何処かで間違ってたんじゃないかって……!」


「…………うん」


「絶対に寂しい思いさせないって……か、母さんに、約束したのに……! で、でも、無理に学校を行かせたことが、プレッシャーになってたんじゃないかって……!」


「うん」


 夏の懺悔に、彩夏は否定も肯定もしなかった。

 父は間違っていたと思う。でもそれはお互い様だ。愛情などないと一方的に突き放して、まともに向き合おうとしなかったのだから。


(ママ)


 夜空を見上げ、彩夏は遠くを想う。

 その目が母譲りなら、不器用なところは父譲り。そう思うと決して一人じゃなかったのだと――小さく鼻を啜った。




「パパ。アタシさ、やりたいことがあるの」


 夜明け前を歩きながら、彩夏は隣に語り掛ける。

 それはこれまでの分を埋めるように、目一杯語り合った末のお願いであった。


「…………そうか」

 

 そんな『お願い』に夏樹が短く頷く。


「反対しないの?」


「うん。今の彩夏を見てたら、きっと間違ってたのは僕だろうから」


 フレームの曲がった眼鏡を外して頬を緩める。その微笑みには罪悪感のような色を滲ませていた。


「正直、嫌だったろ?」


「うん。つまんない」


「仕事をしてればもっと嫌なことだってある。だから体験的な物に済ませて、出来る限り傷ついてほしくなかった……なんて、言い訳だよな?」


「うん。言い訳だね」


「バッサリだなぁ」


「でも許したげる」


 彩夏はニカッと笑って、夏樹の腕を取る。その行為は甘え半分、緊張半分によるものだ。

 何せ口にした『お願い』は自身の勇気にかかっている。他でもない彩夏自身が歩み寄らなければならない。たとえ拒絶されても、冷たくあしらわれようとも。


「大丈夫。ちゃんと学校は行くから」


「それと」


「勉強も、でしょ? こう見えても成績は結構いいんだから」


「……うん」


 だから強がりはやめない。父から出るであろう心配事の類を軽口で弾き飛ばす。

 どうか上手く行きますようにと――昇る朝日に願いながら。




 間延びしたチャイムを切っ掛けに、揺れるような騒音が響く。

 四十五分の昼休み休憩の始まりだ。椅子を引き、机を押して、ドタドタと足音を踏み鳴らす音が数十人分。待ってましたと言わんばかりの躍動感だった。


「…………」


 されど誰もが喜色に満たされているわけではない。独りで弁当をつついていたり、隅っこで机に突っ伏していたりと、コミュニティのはぐれ者は存在する。 

 彩夏もそんな中の一人だった。高校生活の半分以上が過ぎ去っているにも関わらず、共に談笑する相手はいない。


「緑谷」


 しかし――そこには『今日までは』という枕詞が必要だ。

 早鐘を打つ鼓動を抱えながら、彩夏は声を上げる。


「……狐坂さん?」


 向けられたのは、ほんの少し訝しむような表情。

 それも当然だろう。食堂で友人と談笑している最中に、それも別のクラスの割り込まれたとあっては穏やかではない。ましてやこれまで悪態ばかり付いていた人間だとすれば、彩夏だってお断りだと思う。


「あの、あのさ……」


「…………」


 ミミは答えない。向かいの友人二人は不思議そうに顔を見合わせている。そんな反応に彩夏は食堂中の誰からも注目されているような錯覚を覚える。


「アンタの店って、その……」


 頭がかーっと熱くなって、鼻の奥につんとした刺激を感じる。

 それはこれまでの人生で幾度となく味わった緊張。その度に白旗を上げて、逃げ帰ってきた。


「さ、さいきん、景気いいでしょ? ねご……ねこの手もかりたいって……えぇと…………ああ…………」


 続けようにも声が震え、噛みそうになって――遂には黙り込んでしまう。

 事前の台本はもう真っ白。続けようとしない彩夏に、友人二人が立ち上がろうとしているのが見える。


『今日は調子が悪かったから仕方ない。また明日出直そう』


 彩夏自身の心も、そんな退却命令を訴え始めて――


(ふん!!)


 パチーンと引っ叩いた。

 両手が頬を、食堂中に響き渡らんばかりの強さで挟み撃ち。今度は本当に誰もが目を丸くしていた。


「緑谷」


 じんじんと痛む頬を堪えつつ、彩夏はもう一度名前を呼ぶ。

 仕切り直しのつもりで、真っ直ぐにミミの目を見据えて。


「バイトって、募集してない?」


 たとえぶっきらぼうでも、今度こそ歩もうとしていた。


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