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珈琲を飲めば桶屋が儲かる  作者: 弱男三世
14/29

狐坂彩夏 5


 「…………こんなものかな?」


 パンパンに詰まったリュックを見下ろし、彩夏は足りない物を考える。旅立ちというには少な過ぎるような気も、多過ぎるような気もした。


「まっ、いっか」

 それでも彼女は軽い気持ちでリュックを担ぐ。「世の中にはバックパッカーという人種もいるから」と、楽観的な結論を下にして。

 時刻は午前一時。今日も帰らぬ家長を待って、真っ暗な自宅は静まり返っている。

 すなわち――家出にはうってつけの日だった。


「じゃあね」


 書置きは残さない。自室の方向に向かって小さく手を振るだけで、彩夏は玄関のドアを開け放つ。

 本日の最低気温は一桁前半。透き通った風は氷のようで、剥き出しの耳が痛みを訴える。今にも振り出しそうな空は星を映さず、自らの吐息ばかりが宙を舞っていた。

 ホットカーペットと暖かいアールグレイが思い浮かんだのは一瞬。彩夏はそれらの誘惑を振り切るように夜道を突き進む。


 こうした行為に出るのは他でもない。

 彼女は遂にキリシマ(仮)の居場所を特定出来たのだ。

 切っ掛けは先日のバイト帰り。沈んだ気分に誘われるまま、街を彷徨っていた折である。水苗町と隣町の境で、再開発の手が届かなかった旧市街方面で彼を見かけた。


 声をかけようとする決心もつかず、ぐずぐずコソコソと後を付け回した結果、とても人が住んでいるとは思えぬ古びたアパートに入っていくのを目撃。しばらく待っていても出ていく様子はなく、すなわちそこに寝泊まりしているのだと確信したのだ。


「キリシマさん……今から行くから」


 故の行動で、故の出立であった。

 したくもないアルバイトを続けて、それなりのお金は溜まった。これまでとは違う。二度と帰るつもりのない家出なのだと、彩夏は寝静まった街を置き去りにしていく。


「ん……」

 

 されどそんな彼女も、ドルミーレ・イン・ディエムの傍を通る時には立ち止まる。『改装中』の札は既に剥がされ、『CLOSE』がドアノブに吊るされていた。

 どういうトリックを使ったのか、最近では繁盛しているらしい。満席になってあたふたとしている二人を見たこともあった。


しかしそこまでだ。彩夏にもう興味はない。

 ぼうっと見上げていたのも数瞬のことで、やがては振り返ることなく後方に追いやる。


(アタシが行くべきは場所は)


 念仏のように同じ思いを繰り返しながら、一心不乱に足を動かす。

 何の思い出もない学校。何もさせてくれなかった喫茶店。子猫が暮らしていたスペース。サッカーボールを蹴っていたグランド。それらが視界の端から消えて、遠ざかっていく。


 次第にヨーロッパチックな石畳が無骨なアスファルトへと変わっていく。それも罅割れていて、砂利となった破片があちこちに拡散している。

 目当てはもうすぐそこだ。彩夏は錆びついたアパートの階段を駆け上がり、暴れる鼓動を押さえつけながら、部屋のドアへと手を伸ばし――


「おい」


 ドスの利いた声に遮られる。

 キリシマのものとは明らかに違う。振り返ると何時ぞやのパンチパーマが、射殺さんばかりの目で彩夏を捉えていた。


「てめえ……武澤の女か?」


 幸いにも彩夏のことは覚えていない。が、別の逆鱗に触れているらしい。両肩を押えられ、力づくで引き寄せられてしまう。


「ひっ!」


「答えろよ。なぁ? 武澤が何処にいるか知ってんだよなぁ……なぁって!!」


「ひぃぃぃぃ! し、しり、しりま……!」


 聞いたことのない名前だった。当然答えようもない。

 だが彩夏の喉はぶるぶると笑っていて、舌は思うように動かない。小刻みに上下する頭を肯定と捉えたのか、男の様相は一層凶悪に染まっていく。


「言えやオラ! 武澤は何処だ!! 何処に隠れていやがる!!」


「だ、だから、しら……」


「チンタラしてねぇで答えろ! さっさと言わねぇと指を順番にへし折って、その目ん玉を引っこ抜いてやっぞ!!」


「きゃっ!」


 髪を掴まれ、引き倒される。そこに覆いかぶさられ、半身を押さえつけられる。

 乱暴されるのだと思った。抵抗する力なんてない。彩夏はポロポロと涙を流し、出ることのない悲鳴の代わりに心の中で叫ぶ。


(たすけて)


 あの日もこんな光景だった。何かを求めていて、何かに彷徨っていた。


(たすけて!)


 理不尽な飛来物に背中を押されて、理不尽な暴力に相対して。


「たすけて……キリシマさぁあああああああん!!」


 そして奇しくも――結末は重なった。

 ざっと地面を擦る音。見上げる程に高い背丈は灰色のスーツの包まれている。


「おい」


「アァン!? んだよ……」


 振り返ってドスを利かせようとしていたのも一瞬のこと。

 パンチの男は両目を一杯に見広げて、自分へと振り降ろされる右拳を捉えていて――


「がっ!」


 そうして彩夏の目の前から消え失せる。まるで車に跳ねられたかのように、大の大人が軽くすっ飛んだ。


「ふぁ……ったく。ただでさえ寝不足でイライラしてるってのに、人が留守の間につまんねぇことしやがって」


 むくりと反らした先で――キリシマは不機嫌面を晒していた。

 ポキポキと両拳の骨を鳴らし、ぐるぐると肩を回している。その姿はあの日と瓜二つだ。またしても危機を救ってくれたのだと思い知る。


「武澤ァ……てめえ……!」


 口元の血を拭って、パンチは立ち上がる。腫れた頬など気にも留めていない。両目をギラギラとした殺意で漲らせていた。


「てめえは轟道会を裏切った! よくも親父を!」


「あ? 何の話だよ? 叔父貴がどうしたってんだ」


「とぼけんじゃねぇ! ここでぶっ殺してやらぁ!! てめえをぶっ殺せば――」


 言いながらパンチは腰に手を当て、すらりと小刀を抜く。

 それを両手で握りしめ、懐目掛けて飛び掛かって――


「なめんじゃねぇよ――三下がぁ!!」


 キリシマが叫び、パンチの顎に膝蹴りが突き刺さる。

 刺されるというのに身構えもせず、そうでなければ叶わぬカウンターだった。輪郭がひしゃげて、身体が宙へ浮き、漫画を見ているかのような縦回転を見せる。


「ぐふっ!」

 

 ガツンと叩きつけられた四肢が、コンクリートの破片が舞い上がらせる。鮮やかな一発ノックアウトであった。


「あ、やば」


「え?」

 

 だというのに、この発言。

 呟くキリシマに彩夏は目を丸くする。

 勝敗としては上等でも、着地点が少々不味かったのだ。投げ出された身体は古びた室外機に激突しており、ひしゃげた電線がパチパチと火花を散らしていて――


「アバーーーーーーッッッ!!」


 パンチは爆破四散した。ショッギョ・ムッジョ。

 いや本当にバラバラになったわけではなく、単に物凄い勢いで吹っ飛んだだけなのだが――ともかく。ぼうぼうと火の手が上がって、アパートが焼け落ちていく。


「あ――」


 そして考える間もなく彩夏は浮遊感を覚えた。床材も相応に摩耗していたのだろう。元々走っていた亀裂が爆発によって限界を迎え、あっけなく崩れ落ちる。


「嬢ちゃん!」


 投げ出された彩夏を太い両腕が抱き止める。

 それでも引き上げるには至らず、二人して地面に転がり落ちる。


「キ、キリシマさ……あぁいや! 武澤さん!!」


 彩夏は無傷だった。三メートルもない高さということはさておき、下敷きになってくれたからだ。

 そんな相手の様態を確かめようと、慌てて詰め寄ろうとして――


「あん? キリシマ?」


 何事もなく立ち上がった。怪我はおろか痛みすら感じていないかのようで、すぐさま「はて」と考え込む仕草を見せる。


「それにしても……轟道会の連中が何だってこんなことを……地上げ目的じゃねえのか……? それに浅間の叔父貴がどうとか言ってたが……」

 

 おまけにキリシマ――もとい、武澤は彩夏を見ていない。

 ぶつぶつと何かを呟いては歩き出し、何処かへ去ろうとしている。


(まって)


 故にこれが最後のチャンスだった。

 腰は抜けているし、頭の中は真っ白だ。それでも今度こそ願いを叶えるのだと――彩夏は誓ってきたのだから。


「……………………さい」


 伸ばした指が、力なくスラックスを掴んでいた。

 そこに気づいた武澤がピタリと止まる。


「…………って……さい」


「あ? どうした?」


「つ……てって……ださい」


「怪我でもしたのか? 悪いが俺は医者じゃねえからよ、そういうこたあ――」


 彩夏は頭を上げて、大きく息を吸った。


「アタシを――連れてってください」


 それはほんとのほんと。


「ここじゃない……ここ以外の何処かへ……!」


 取り繕いや強がりを取っ払った彩夏の、心からの叫びだった。


(あぁ――)

 

 そして実感する。

 本当は最初から分かっていたのだと。


 彼は普通の人間ではない。極道者であって、小心者の彩夏では面と顔を合わせることも難しい。

だからこそ惹かれたのだ。自分では辿り着けない『外側の住人』だと分かっていたから。


「…………やめとけ」


 その結果が拒絶であろうことさえ、予想は出来ていた。膨らませた空想通りの人物であるならば、そんな世界に彩夏を関わらせようとする筈がない。


「嬢ちゃんよお」


 武澤は彩夏の指を引き剥がす。それから一歩距離が離れてしまえば、詰め寄る気力は完全に失われてしまう。


「何があったが分かんねーが……一時の気の迷いで全部投げ出すのは、馬鹿のやることだ」


「…………」


「投げ出そうとしてるもんの中には、きっと大事なもんだって残ってんだから」

 

 そう言って、武澤は踵を返した。

 もう振り返りはしない。大きな歩幅で背中が遠ざかっていき、やがて見えなくなってしまう。


「ははっ……」


 一人取り残された彩夏は無理やり笑った。

 ポロポロと頬に流れる大粒を認めたくなかったから。


「はは……っく……あぁ……フラれちゃった、なぁ」


 ボヤ騒ぎに気づいたのか、遠くで誰かが叫んでいた。

 近くにいたら面倒だと分かってはいても、その場に蹲ってしまう。


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