狐坂彩夏 4
コートすら持って帰らなかったことを後悔するには、あまりに遅すぎた。
十二月初旬の夕暮れはそれだけ暗く、冷たいものであった。道行く誰もが厚手の外套に袖を通し、白い息を吐き散らしている。
「さっむ……」
そんな寒さの中で、彩夏はブルブルと両肩を震わせている。上着と呼べるものは薄手のカーディガン一枚のみ。中に着込んだブラウスは校指定の物であり――つまりは一度家に帰りながら、何ら着替えることなく出て行ったということだ。
「ふんっ……さいっあく……」
無論、彼女がそんなことも図れぬ程に腕白ということではない。カチカチと歯を叩きながらも、悪態を零し続けているのがその証拠だ。収まりきらぬ苛立ちが、身体の悲鳴を僅かに上回っている。
「アイツの店……確かまだ開いてたわよね」
故に帰るという選択肢などない。かと言って散歩に洒落込むには厳しすぎる。
そこで一番に思いついたのは冷やかしであった。「こうなってしまったのも元はと言えば早退した所為。昼の件も含めて目一杯嫌味をぶつけてやる」と、かなり身勝手理屈を並べ立てては、同級生が経営する喫茶店へと足を向ける。
「は……?」
しかし空振り。入口の扉が閉まっていて、中の電気も消えている。
営業時間は確かに間違っていない。『ドルミーレ・イン・ディエム』に掲げられていたボードは、閉店の二文字ではなかったのだから。
「改装って……アイツ本気なの?」
とても信じられない。何せチャーハンと牛乳くらいしか常備していない店だ。そんな彩夏の疑問に応えるかのように、遠くから朗らかな声が響き渡る。
「おねがいしまーす!」
それは寒さすら感じていないかのような、満点の営業スマイルであった。とても彩夏に真似出来るものではない。ああいう人間が誰からも好かれるのだろうと、そんなことを考えてしまう。
「リニューアルオープンしますので是非とも!」
東雲悠真。
特に興味があったわけではない。ただ珍しい苗字だったから覚えていた。加えて古い記憶の何処かに引っかかったような気もしたが――彩夏は考えることをやめる。
その隣にはミミがいて、同じようにビラを配っている。若干むくれている辺りが本意ではないのだろう。時折交わす言葉に遠慮はなく、距離も相応に近い。
そんな二人の姿に何を羨ましく思えるのか?
彩夏には分からなかった。
「精々頑張ることね……どうせ無駄だろうけど」
言いようのない空虚さを感じながら、負け惜しみのように踵を返す。
それから当てもなく街を歩き、指先の感覚が薄れて来た頃に手近なチェーン店を選ぶ。敷居が低く、同級生が立ち寄らず、自身のバイト先からも離れた場所である。
閉店時間が迫っているのか、中の客も疎らであった。彩夏は隅っこのテーブル席に座って、注文を取りに来た店員に「レモンティー」と告げる。
壁一面を占める大きなガラス窓には霜が張っていた。そこを指で綴っては猫を描き始める最中、ふとポケットの中が震えていることに気づく。
(またあいつかな?)
内心ゲンナリしながら彩夏は液晶を睨みつけ、当てが外れていたことに気づく。
「もしもし?」
『あぁ彩夏ちゃん? さっきの……って言っても三時間以上前か。あれ何だったの?』
「別に、なんでもないわよ」
『お……? んん?』
電話口のリカが声を上擦らせる。それから少しばかり考えこむかのように沈黙して、はっと息を呑んだかと思えば――
『まーたお父さんと喧嘩しちゃったかぁ』
と、確信めいたことを口にした。
普段マトモに取り合わない癖に妙なところで鋭い。彩夏はリカのそんなところが嫌いだった。
「…………別に」
『ほらやっぱり。反抗期もいいけど、あんまり親と喧嘩するもんじゃないわよ? 親は何時までもいないし、喧嘩出来る内が華っていうか……あ、これじゃあ喧嘩を勧めちゃってるわね』
「反抗期とか、そんなの関係ないわよ。アレがおかしいからアタシが指摘してあげてるの」
『いやアレって。よりにもよって父親をアレ扱いってアナタ……』
なんと言われようと曲げるつもりはない。そもそも反抗期でもなければ傷ついてもいない。とうの昔に見放しているだけだと、彩夏は自分に言い聞かす。
「どーせ狐坂家の遺産が欲しかっただけよ。ママは人がいいから、きっと騙されてたのよ」
『…………』
「ロクに家に帰らないクセして説教よ? まったくどんな神経してるってんだか」
衝動のままに悪態を並べる彩夏に、リカが黙り込む。
説教でもされるのだろうか? ならばむしろ言い返してやるつもりだった。
『彩夏ちゃんさ、イソップ寓話って知ってる?』
しかし次に出た言葉は問いかけであった。叱咤叱責と程遠い、まるで話を逸らされているかのような話題。
「はぁ? イソップ寓話くらい知ってるわよ」
『なら良かった。じゃあワタシが今思い出した話って分かる?』
「んなもん分かるわけないでしょ!」
当然そんなものは当てようがない。イソップ寓話のエピソードは軽く百を超している。彩夏が知っている話に当てはまるのかどうかさえ分からない。
『それが次までの宿題よ。提出期限は決まってないけど、まぁ遅過ぎないようにね』
「あっ、ちょっ!」
おまけにヒントもないと来た。プープーと無慈悲な電子音を前にして、釈然としない気持ちばかりが湧き上がる。
「もうっ……なんなのよ……!」
彩夏は知らぬ内に運ばれたきたレモンティーに口をつけ、そのぬるさに顔をしかめる。
というか味そのものも大したものじゃないと、紅茶にうるさい舌が訴えかけている。かつて母が紅茶を好きだった影響である。身体が弱くなければ店を開きたかった。そう口にしていたことを、不意に思い出してしまう。
「ママ……」
呟きながら、透けたテーブルにべちゃりと頬をつける。
結局は歩き出さないといけない。外側にこそ幸せはあるのだと、そんなことを思いながら夜が更けていく。
その後、彩夏が帰宅したのは午前七時。
ファーストフード店やインターネットカフェをハシゴし、父が出ていったあろうことを見越しての朝帰りである。
家の鍵すら持って出なかったことに気づいたのは直前であったが――幸いにも玄関の鍵はかかっておらず、それどころか電灯もつけっぱなしだった。
家の中には誰もおらず、自室の扉には書置きが残されている。彩夏の行動パターンなどお見通しだと言わんばかりで、否が応にも目を通さずにいられない。
『あまり遅くに出歩かないこと。それとお友達は大事になさい』
そんなメッセージの下に、学校へ置いてきた筈の私物が添えられていた。
その日は学校を出て、即捜索というわけにはいかなかった。
週二日で計六時間。小遣いの延長でしかないアルバイトが入っていた。
それが彩夏には乗り気でない。『キリシマさん』を探したいことは元より、そもそも行きたくないのだ。
もっとも仕事自体にやる気はある。接客も苦手ではあるが、やれと言われたら精一杯のスマイルを作るつもりだ。
ならば何が問題なのかというと――何もさせてくれないところにある。
「…………」
コーヒーチェーン『カプレーオ』は平日と思えぬ混雑っぷりを見せている。
流行りに便乗にした新メニュー効果だ。至る所から注文が飛び交い、ウェイトレスは息つく間もなく駆け回っている。
「…………」
そんな中で彩夏は独り鎮座している。注文を取ることもドリンクを作ることもせず、隅の方でぼうっと立っているだけ。あまりに動かないので客も店員と認識していないのか、一瞥すら寄越さない。
「…………ねぇ」
とは言え、そこに胡坐をかいていられるほど彩夏は図太くない。空になった皿の山を両手に、フラフラとしている同僚へと話しかける。
「半分持つわよ」
「あ、ありがとうござ……って狐坂さん!?」
言葉に甘えようとしたのは束の間。
彩夏の顔を見るやいなや、ぎょっと肩を強張らせる。
「い、いいですいいです! 私は全然平気ですから!!」
「平気って、フラついてるじゃない」
「こ、これはその、武者震い! 武者震いなんです!!」
「いや武者震いって」
「あっ、オーダーが入った! 私は行きますんでその、失礼します!」
そして逃げるようにキッチンへと走り去る。閉まるドアの向こう側で、パリンと皿の割れる音が響いた。
「…………このオーダー、まだ捌けてないんじゃない?」
次に彩夏はコールドテーブルに並べられた注文の紙を拾い上げる。チェックが入っていないドリンクに気づき、ケトルへ手を伸ばそうとして――
「す、すいませんでしたぁ!!」
横から伸びた別の手に掻っ攫われる。
ホールリーダーの女性だった。見るからに青ざめていて、震えた手でポットにお湯を注ぎ込む。
「新田さん、アタシがやりますから。案内でずっと忙しそうでしたし、休憩も取れてないんですよね?」
「とんでもないです! こう見えても今は手が空いてて、何かないかなって思ってたところでしてはい!」
「汗だらだっらなんですけど?」
「だ、ダダダージリン! おま、お待たせしましたぁ!!」
「ちょっと」
静止も厭わず、彼女は客のテーブルへと向かう。茶葉の入れ過ぎた『ダダダージリン』とやらは真っ赤な色をしていて、見るからに苦そうだった。
「えぇと、えぇと……?」
それから間もなく、オロオロとしている少女を見かける。
先週入ったばかりの新人である。コーヒーマシンの使い方が分からないのか、ボタンを前に指を回している。
「電源スイッチはこっち。それと注水タンクが空になってるから、そこのカップのやつを注いで」
彩夏がそこに歩み寄ると、少女の目がぱあっと輝く。
「あ、ありがとうございます。その……」
「狐坂彩夏。アタシもバイトだからタメでいいわよ……って、それよりファンネルの中が山になってるみたい。一旦取り出して、こうして平らにして……」
「う、うん!」
テキパキと進める彩夏を、少女は手帳片手に見守る。
やがてマシンのランプが点灯し、湯気立つコーヒーがサーバーに注がれ始めた。
「後はウォーマースイッチを入れて、これで終わりよ。何回かやってればすぐに覚えるから」
「狐坂さん……」
「だからタメでいいってば」
じーんとした眼差しが照れ臭くて、彩夏は目を逸らす。
「うん! ありがとう彩夏ちゃ――」
「バッキャロウ!」
そこに――パシーンと平手が飛び交う。
この店の店長であった。
「おいコラ新人! 何させてんだコラ! よりによって次期社ちょ……じゃなくて! 狐坂様に何てことを!!」
(次期社長。次期社長っつったかコイツ?)
しかも誤魔化そうとして、とんでもない敬称をつけている、
「え、え? 彩夏ちゃんって、もしかして……?」
「新人ゥ! 狐坂様だろぉ!?」
(いやそれも違うけど!?)
そう思う彩夏からすればただの苗字。
されどこの店においては、何よりも重い意味を持っていた。
「す、すいませんでした! 狐坂さん!」
「っ……!」
そんな改まった謝罪を最後に、少女は店長に連れていかれる。
次に会う時はもう同じようには接してくれない。萎縮し、道を開け、ありとあらゆる仕事を彩夏から奪い去る。
「…………」
そうして今日も置物と化す。隅っこに用意された椅子が定位置であり、彩夏の玉座だった。
父の目が届き、父の威光が影響し、父が唯一同意書にサインをした城である。この街にいる限り、ここ以外で働くことは叶わない。
「よーし! 今日は存分にタピるぞー!」
と、がやがやした店内に一層朗らかな声が響き渡る。見覚えのある三人組で、揃って新メニューのテイクアウトだった。
「…………最悪」
ぼやきながら彩夏はそっと立ち上がる。認められたシフトの少なさから、今まで顔を合わすことはなかった。それに学校の帰り道とも逆方向であり、敢えて来ることはないだろうと踏んでいた。
だからこその売り言葉で、散々嫌味をぶつけていられたのだ。こちらは名店でもそちらは閑古鳥。泣いて教えを乞うのであれば手を貸してやるのもやぶさかではないと――そんなことを考えながら、彩夏はミミの店に通っていた。
「…………見ないでよ」
しかし実態はこの通りだ。この店における彩夏はカカシでしかなく、そんな姿を無感情な瞳が捉えている。
「そんな目で、見るな」
言って、彩夏は早足になった。キッチンへと繋がる扉を開き、湿気の充満する洗い場を通り抜け、慌ただしいスタッフと何度も身体をぶつけそうになる。
「そんな目で……アタシを……!」
裏口から外へ出て、奥歯を噛み締める。頭は沸騰しそうなくらいに熱い。
それは怒りでもなければ羞恥でもない。
彩夏は唯々惨めな気分だった。