狐坂彩夏 3
「いない……かぁ」
キョロキョロと周囲を見回すが、今日も彩夏の待ち人は見つからない。
見飽きた風景と見慣れた生き物が風を切るばかりだ。
午前二時。水苗町ニュータウンは呑気なものであった。
元々計画都市としては無理がある話だったのだろう。幾ら都心部のアクセスに使えるとは言え、その前進は辺鄙な衛星都市である。
当時の政権が半ば強引に進めた計画であったとのことだが、その辺りの事情に彩夏は詳しくない。知っていることと言えば矢面に立たされた責任者が心を病んだとか、関係者が軒並み化け猫に襲われただとか、その程度の与太話である。
「ま、もうちょっとぶらついてみようかしら」
彩夏にとっての生まれ育った街とはそんな場所だ。そこに愛着はなく、むしろ嫌いだと思っているくらいだが――道行く住人に関しては例外である。何ら手掛かりのない捜索を続けられるのも、一重にそこが関係しているのだろう。
「おはよっ、今日の調子はどう?」
通りすがりを見かける度に、彩夏はニッコリと挨拶を交わす。その笑顔は屈託のないもので、発する声も甘ったるい。同級生に対する物とは大違いだ。
「ンナァ」
「ふふっ……」
しかしそれも当然のこと。
彼女が相手にしているのは人間でない。塀の上や草むらの中。挙句は道路のど真ん中で寝そべる猫に話しかけているのだから。
「じゃあまたねっ!」
毛むくじゃらの顎。短い尻尾の付け根。ぺちゃりと伏せた耳。それぞれが違う、それぞれの個性を満喫しては、次から次へと向かう。
この街にはそれだけの数がいた。人間と猫の数を比べれば完敗だ。たとえこの街の人間が滅びたとしても、猫はきっと生き延びるだろう。
と言うのも――彼らは元々の先住民なのだ。ニュータウンよりも衛星都市よりも、それでこそ人が住み着くよりずっと前からいたと言われている。
だからこそ都市開発の時は、散々な祟りが降り注いだらしい。化け猫騒ぎもその内の一つである。『猫を蔑ろにすると不幸が訪れる』と、この街出身の母からそう教わったからこそ、今も彩夏は大事にし続けている。
「よーしよしよし……よーしよしよし……」
いや――むしろ大事にし過ぎていると言っても過言ではない。
まさしく猫可愛がりの範疇だ。普段ぼっちの反動が来てしまうのだろう。特に今日は心に傷を負ったということもあって、本来の目的を忘れかけていた。
「いっぱい食べてねー。まだまだあるからー……って?」
そこから正気に戻ったのは約三十分後。足にすり寄ってきたキジトラに、半分以上残った弁当をあげていた最中である。
不意に灰色のスーツが見えた。遠目からでも大きな肩幅をしていて、風を切って歩いている。
「えっ……えっ!?」
見間違いは何度もした。見知らぬ中年に飛びついて、フリーズしてしまったことも一度や二度ではない。
しかし今度という今度は確信していた。その横顔に刻まれている刃物傷を、見間違えよう筈もないのだから。
「キリシマさん!」
彩夏は慌てて駆け出す。空箱を放り出し、すらりとした足を全力で振る。
男は細い川を縦断する石橋を渡って、その先の角を曲がろうとしていた。
「キリシマさん……キリシマさん……!!」
生来の俊足が見る見る内に距離を詰める。レンガ仕立てのレトロな橋に行き着くもの時間は要さない。
声は十分に届く距離だった。だが相手は振り返らず、立ち止まることもない。
「キリシマさんってばぁ!!」
そりゃそうだ。
だって『キリシマ』じゃないんだもの。
「はぁ……! はぁ……!」
そして追いつく頃には時既に遅し。同じように角を曲がった彩夏が見たのは、明かりのない提灯が並んだ路地。そこは地元民を相手にした酒屋や飲み屋が密集していて、日中はほとんど閉まっている。
唯一暖簾を掲げているのは、檜の引き戸を構えた小料理屋。男の姿が見えない以上、そこに入ったのではないかと考えるのが自然だ。
「…………」
故に彩夏は戸を勢いよく開け放つ――のかと思えば、スカートのポケットをゴソゴソと漁りだす。
「あの、リカお姉ちゃん?」
そして通話。
プルルとコールを響かせ、繋げた先は何時もの相手である。
「懐石っぽいお店って、一言さんお断りされちゃう?」
『はぁ?』
あろうことかこの彩夏。
この期に及んでチキっていた。それも『入りにくそうな雰囲気』を前にしただけで。
「ほら? アタシ未成年だし、身長はそこそこあっても誤魔化せないっていうか」
『彩夏ちゃん何言ってんの? 酔っぱらってる?』
酔っぱらってるというよりか、むしろテンパっている。とりあえず知っている人間に助けを求める辺りも情けない。ぼっちここに極まりである。
『あ、ごめん。今いいとこだから切るわ』
しかし頼みの『お姉ちゃん』もそっけない。ジャラジャラと金属が落ちる音が聞こえたかと思うと、あっさり通話を打ち切れてしまう。
「ちょっとお姉ちゃん!?」
考える間もなくパチンコだ。彼女が仕事をサボる場所のトップスリーである。
憤慨しながら彩夏はすぐに再ダイヤルしようとして――
「…………何をしてるんだ?」
背後から声をかけられる。
「彩夏、学校はどうした?」
人のよさそうな男だった。丸い眼鏡の奥は下がり目じりで、頬こそやつれてはいるが、輪郭のラインに角は乏しい。短く揃えた髪も、浅い皺の刻まれた肌も清潔感を意識しており『道を尋ねられるにはうってつけの顔』をしているとも言える。
しかし彩夏はそうは思わない。如何にも冴えないツラをしていて、小奇麗なスーツは化けの皮だと思っている。
「…………なによ?」
彩夏はぷいと目を逸らし、不愛想に吐き捨てる。最悪のタイミングで最悪の奴と出会ってしまったと、苛立ちを募らせながら。
「学校から連絡があった。また抜け出したんだな?」
対する男も怯まない。
善人眉を無理くり潜めて、非難の声を上げる。
「はっ? ってことはアンタもサボり? 社長ってのはいい身分ねぇ」
「事業計画書の作成と稟議書の確認だ。自宅でも出来る。それより――ちょっと来なさい」
「ちょ、なにを!」
男は彩夏の襟を掴み、まるで猫の子を運ぶようにズルズルと引っ張る。暴れようと叫ぼうとどうしようもなく、そのまま近くに控えていた車に叩きこまれる。
「ゆうかい! ゆうかいー!!」
「人聞きの悪いことを言うのはやめなさい!」
涙目の少女が口を押さえつけられている光景は、知らぬ者からすれば確かに誘拐である。
しかし現実は逆だ。むしろ押さえている本人の方がほとほと困り果てた表情で、額の小皺が色濃く浮かび上がっている。
「むー! むぎぅぅぅぅぅ!」
「はぁ……はぁ……行ってくれ」
やがて彩夏は簀巻きにされ、たじろぐ運転手が車を発進させる。
唸り続ける娘を一瞥しながら――狐坂夏樹は深い溜息をついていた。