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珈琲を飲めば桶屋が儲かる  作者: 弱男三世
11/29

狐坂彩夏 2

 

 間延びしたチャイムを切っ掛けに、揺れるような騒音が響く。

 四十五分の昼休み休憩の始まりだ。椅子を引き、机を押して、ドタドタと足音を踏み鳴らす音が数十人分。待ってましたと言わんばかりの躍動感だった。


「…………」


 されど誰もが喜色に満たされているわけではない。独り弁当をつついていたり、隅っこで机に突っ伏していたりと、コミュニティのはぐれ者は存在する。

 彩夏もそんな中の一人だった。共に談笑する相手はいない。かと言ってどっしりと構える余裕もない。

 故に足早に教室を抜け出すのが日課だった。第一希望は空き教室で、第二希望は裏庭。そのいずれもが人気のない場所であり、気兼ねなく昼食を過ごせる場所である。


「くっ……こんなのって」


 しかしその日は両者閉店であった。空き教室は軽音部がランチミーティングとして使っており、裏庭も園芸部が陣取っている。歯噛みして呪うことは出来ても、堂々と乗り込む勇気はない。

 だから残ったのは第三希望……というより最後の手段と言ってもいい。

 そこは決して誰も踏み入れない一人分の個室で、ある意味では聖域。彩夏御用達のインターネットカフェとほぼほぼ変わらないスペースで、おまけに腰掛ける場所まで用意されてるときた。ぼっちにとっては喉から手が伸びる居場所であろう。


「…………いただきます」


 しかし少々臭い立つのが玉に傷か? むしろ深手か? いや確実に致命傷である。

 人はそれを――便所飯と呼ぶのだから。


「…………くさ」


 白米をそそくさと運びながら、彼女は独り呟く。

 実際の臭いはそこまでだ。清掃は十分に行き届いており、鼻に突きさす大半は芳香剤に寄るものである。

 しかしながら視覚というものは、それ以上に訴えかける。見下ろすタイルはトイレ以外の何者でもなく、座っている便座を椅子とは誤魔化せない。飽くまで排泄物を処理する場所なのだと脳が認識してしまえば、味覚がまともに働こう筈もない。


「キリシマさん……キリシマさん……」


 だから彩夏は楽しいことを考えようとした。実際に口にも出したし、胸だってトキめいた。

 されど記憶は記憶であって動くものではない。すぐさま目の前の現実に上書きされてしまい、迷った末に携帯電話を取り出す。

 ダイヤルはすっかり覚えている。弁当片手にしていようと、スムーズに番号を入力出来た。


『…………もしもし?』


 十数回のコールを経て、落ち着いた女性の声がスピーカーを通す。彩夏はそれまでの不安を裏返すかのように、ニンマリと頬を緩める。


「リカお姉ちゃん」


『うぇ……彩夏ちゃんか』


 だというのに、相手はこの反応である。

 電話をかけたのが彩夏だと知った瞬間、明らかに声を曇らせている。


「うぇって何よ、うぇって。折角勇気を出して掛けたってのに」


『いや今更でしょ? それに用もないのにかけないでって言ってるのに』


「相談ならあるわよ」


 言いながら、彩夏は目を閉じる。瞼の奥であの日の光景を巡らせながら、是非とも聞いてほしいことを湧き上がせる。


「この前ね……キリシマさんっぽい人を見かけたの」


 そしてまたしてもループする。

 恋は盲目とは良く言ったものだ。実際に彼女は当人かどうかも分からぬ通りすがりを見かける度に、同じ相談を口にしているのだから。


 

恋の始まりは一週間程前のこと。

 それは彩夏が目にかけている――といっても本人は否定するが――ある喫茶店を訪ねた帰り道のことであった。

 何時ものような冷やかしで憎まれ口を叩いて、それから少しばかり近くのコンビニで立ち読みを済ませた後。歩きたくもない帰路をとぼとぼと進んでいる最中である。


『マ ズ イ!!』


 そんな悲鳴と共に――何処からともなく物が飛んできたのである。


『おあっ!!』


 それは固く、熱のあるナニカだった。

 見事に頭部を捉えたそれは彩夏のバランスを崩し、前のめりに倒れそうになって、堪えようとして咄嗟に手を伸ばした。

 結果的に倒れはしなかった。転んで靱帯を痛めるのはもう懲り懲りだと、防衛本能がしっかり働いたと言える。


『っ……んだゴラァ!!』


 しかしその代償は重かった。堪えようとしてぶつかったのは強面。パンチパーマに咥え煙草をした、如何にもソレっぽい人物だ。


『あぁん? なんのつもりだてめえ!!』


『あ……あぁ……!』

 

 恫喝する男を前に、彩夏は言い訳の言葉が出なかった。「違う」と言いたいのに喉が震えて、涙目でおろおろと、歯をカチカチと鳴らすことしか出来ない。


『ちょ、ちょっと……落ち着きましょうや! 相手はガキっすよ!?』


『うるせぇ! 桜曉会のクズが口挟むんじゃねえ!!』


 男は二人組であり、片割れが仲裁に入ろうとするが、聞く耳を持たなかった。

 毛深い手が胸倉に伸び、彩夏は恐怖の余りに目を閉じてしまう。


『おい』


 そんな時、誰かの声が聞こえた。

 声色の低さは恫喝者と同様。されどそこには強い意思が垣間見え、大樹にもたれかかるような安心感を感じる。


『そんなガキに喚くんじゃねーよ。大人気ないって知ってんのかぁ?』


 おずおずおと薄っすら開いた瞳には、灰色のスーツが映りこんでいた。頭髪は短く、背丈は見上げるほどに高い。


『アァン!? いきなり出てきて何を言ってやがんだ、この!』


 パンチパーマの男は激高し、拳を振り上げる。人差し指から小指に至るまで指輪を嵌めていて、まるでメリケンサックのような凶器だった。


『ふんっ』


 それでもスーツの男は狼狽えない。軽く顔を逸らしただけで殴打をやり過ごし、お返しと言わんばかりに右拳を握りしめて。


『おらぁ!!』


『あ……がぁ……!』


 たった一発。ボディーブローが突き刺さって、パンチパーマがくの字に曲がる。

 唾液と共に咥えていた煙草がポロリと落ちて、風に吹かれては遠くに運ばれていく。


『お嬢ちゃん』

 

 ずるずると地面に崩れる相手に一瞥もしないまま、彼は彩夏に語り掛ける。左手に吊り下げたビニール袋には、一升瓶を覗かせていた。


『わざとかどうかは分かんねーけど、易々と喧嘩を売るなんざやめるこった。こんなチンケな相手には勿体ねー、そんな良い目をしてるんだからよぉ』


 そう言って彼は瓶を抜き出し、パンチパーマに振り降ろす。

 まるで大人と赤子のようだった。ぐるりと白目を向いたことを認めると、何事もなかったかのように去っていく。


『ちょ、おま……いや!』


 そんな背中を残った片割れが追う。しかし仇討ちをする様子はなく、彼の隣に並んで何かを訴え続けている。


『あ…………』


 やがて見えなくなった後も、彩夏は見守り続けた。すっかり抜けてしまった腰をペタリと降ろし、ポケットの携帯で通報する発想も頭にないまま、ドクドクと暴れる鼓動に心が満たされる。


――か、かっこいい……!


 白馬の王子様とは違う。されど絵本のような存在であったという意味では同じだ。

 そんな男に彩夏は魅入られ、そして思い知った。

 自分はこの人に出会う為に、これまで生きてきたのだろうと。惚けに惚けきった結論を、割と本気で。



「ってなわけなの! ほんっとかっこよくてぇ……!」


『はぁ』


 その後の彼女の頭はそれ一色だ。ふとしたことで思い出し、口に出す話題を占領している。

 都合何度目になるかも分からぬ『出会い』を語り終えた後に、電話口の女性は食傷気味な溜息を吐き散らす。


「キリシマさん……」


『いや、だからそれ名前じゃないんでしょう? 勝手に仇名をつけられちゃあ、相手もたまったもんじゃないっていうか』


「キリシマさん……貴方はどうしてキリシマさんなの?」


『駄目だこりゃ』


 ちなみに『キリシマ』とは男が手にしていた一升瓶から来ている。名乗ったわけじゃないのだから、彩夏は当然本名を知らない。


『それで? 似ている人とやらはどうだったの?』


「違った。後姿は似てると思ったんだけど……」


『あのねぇ』


 と、リカの溜息。灰色スーツの男など何処にでもいる。その中の一つと間違えたことは察されていた。


『ワタシも暇じゃないの。毎日毎日忙しくって、目が回りそうだってのに』


「後ろでテレビの音が聞こえてる」


『そりゃあ、お昼休みなんだからテレビくらい』


「スポーツ中継。昨日の試合……プレミアシップの再放送かな? トライが決まった時間は後半二十分だから、お姉ちゃんは一時間以上前からそこで」


『オーケー、わかった。だからスマホで逆算するのはやめましょう』


 彩夏はインターネットブラウザを閉じ、ふふんと勝ち誇る。気分はすっかり上向きで、さっきよりかは芳香剤の臭いが気にならない。


『まぁ……キリシマさんだか何だか知らないけど、そんなことよりさ』

 

 しかし相手の場所を察しているのは彩夏だけではないのだろう。リカはごにょごにょと詰まったように囁く。


『いい加減、お友達くらい作りましょうね?』


「……………………はぁ?」


 たっぷり沈黙を置いた末に、彩夏は声を上擦らせる。どれだけ不機嫌を装うと、動揺は隠しきれていなかった。


「……いるわよ。友達くらい」


『あらそう。じゃあ一緒に食べないの?』


「今日は相談だから! だからたまたま……たまたまよ」


『ふーん』


「っ!」


 直接的な指摘はなく、されど見越している。そんな言い回しを前にして、彩夏は携帯を強く握りしめ、咥えていた箸をギッと歪ませる。


「そんなことどうでもいいでしょ!? アタシは恋をしてるの! 真剣な相談なんだから、真剣に向き合うのがお姉ちゃんの仕事じゃ――」


『恋、ねぇ』


 カッと捲し立てようとして、出鼻が挫かれた。


『それって恋なのかしら?』


「は?」


『ワタシが見る限り、何時もの堂々巡りに思えるけど?』


 彩夏はリカの言っている意味を理解出来ない。分からないからこそ火に油だ。顔を真っ赤に染め、大きく声を張り上げようとして――


「うー……もれるもれる」


 ここが何処であったのかを思い出す。

 誰かが入ってきた。隣の個室だ。薄い壁を隔てて、他人の気配を感じる。


「もう! 急に走り出しちゃって」


「チーさん、間に合いましたか?」

 

 おまけに一人ではない。聞き覚えのある声が更に二つ、個室の外側にいる。

 すかさず彩夏はスマホの電源をオフにし、自らの呼吸さえも静める。金縛りにあったかのように全身が酷く強張っていた。


「ごめんごめん。今日は寒いから、ミルクティーばっか飲んじゃっててさぁ」


 水が流れ、隣の扉が開く。その軽い口調にも覚えがある。三人共に別のクラスの人間だった。


「ってか隣ってば何してんだろ? 何か変な臭いしたんだけど」


だからこそ、嫌な予感はしていた。

 木下亜希はギャルである。時代錯誤な焼け肌を晒していて、見た目相応に頭も軽い。故に空気を読むなどもっての他で、無遠慮な指摘を口にする。


「いや、変な臭いって」


「うんこですか?」


「ミミちゃんはもうちょっとオブラートに包もうよ……」


  残る二人は安西佳代と緑谷海々。前者は幾分常識的だが、後者はこの街屈指の変人である。

 小学生のような見た目のクセに無鉄砲で、おかしなことばかりに拘っていて、最近は見知らぬ男まで家に連れ込んでいる。

 

 以上が彩夏にとっての三人組の評価。

ただでさえ見られたくない状況下で、特に見られたくはない相手であった。


「おーい? そこで何してんのー? 辛いことあった系ー?」


「便秘ですか? それともアレがキツイ感じですか? よければ滅茶苦茶利く薬がありますよ?」


「もうっ! 亜希ちゃんもミミちゃんも!」


 ガンガンガンガンとドアがノックされ、言われたい放題である。彩夏は両耳を塞ぎ、目をギュっと閉じ、『帰って!』と心の中で連呼する。


「出てこないねー? 先生呼んでくるー?」


「うーん? 倒れてたりしたらマズイですけど、とりあえずは……よっと」


 しかしずっと黙っている内に、とんでもないことを話し始める。いらぬお節介の極致だ。そんなことをされては晒し首に等しい。


(いっそのこと、こっちから姿を晒すべき?)


 彩夏は思った。弁当箱を隅に隠してしまえば、単に用を足していたと誤魔化せるかもしれない。開口一番「うるさい」と逆上することだって出来るだろう。


(そうだそうだ。それがいいわ)


 強気な姿勢が気持ちを軽くさせる。自慢ではないが、彩夏はヒステリックに叫ぶことを苦手としていない。故に大きく息を吸い込み、鍵を外そうと手を伸ばす。


「…………うわ」


 が、少しばかり遅かった。

彩夏の頭上から声が聞こえてきた。見上げた先にはミミの童顔。感情っ気の薄い眉がくしゃりと歪んで、『ドン引き』の色に染まりきっているではないか。


「…………」


「…………」


 扉の上と便座の上。互いがヘビに睨まれたカエルのようでいて、実際に固まっているのは彩夏だけであった。

「はぁ」と短い溜息が聞こえたかと思えば、ミミはあっさりと身体を下ろす。


「寝てますね」


「寝落ち?」


「はい。ですから放っておきましょう。授業には遅れるかもしれませんけど、まぁいずれ起きるでしょうし」


 そう言って、すたすたと気配が遠ざかるのを感じた。誰一人振り返る様子も、待ち伏せるなどということもない。

 その間も彩夏の手は鍵に伸びたままで――やがて予冷の音が響くのを境に、錠を外すことを思い出す。


「…………しにたい」


 彩夏は自分の教室に戻らなかった。廊下の隅を俯きがちに歩き、鼻を啜りながら昇降口の方へと一直線。

 それは今更珍しくもない。彼女にとってはよくある――無断早退サボリであった。


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