狐坂彩夏 2
間延びしたチャイムを切っ掛けに、揺れるような騒音が響く。
四十五分の昼休み休憩の始まりだ。椅子を引き、机を押して、ドタドタと足音を踏み鳴らす音が数十人分。待ってましたと言わんばかりの躍動感だった。
「…………」
されど誰もが喜色に満たされているわけではない。独り弁当をつついていたり、隅っこで机に突っ伏していたりと、コミュニティのはぐれ者は存在する。
彩夏もそんな中の一人だった。共に談笑する相手はいない。かと言ってどっしりと構える余裕もない。
故に足早に教室を抜け出すのが日課だった。第一希望は空き教室で、第二希望は裏庭。そのいずれもが人気のない場所であり、気兼ねなく昼食を過ごせる場所である。
「くっ……こんなのって」
しかしその日は両者閉店であった。空き教室は軽音部がランチミーティングとして使っており、裏庭も園芸部が陣取っている。歯噛みして呪うことは出来ても、堂々と乗り込む勇気はない。
だから残ったのは第三希望……というより最後の手段と言ってもいい。
そこは決して誰も踏み入れない一人分の個室で、ある意味では聖域。彩夏御用達のインターネットカフェとほぼほぼ変わらないスペースで、おまけに腰掛ける場所まで用意されてるときた。ぼっちにとっては喉から手が伸びる居場所であろう。
「…………いただきます」
しかし少々臭い立つのが玉に傷か? むしろ深手か? いや確実に致命傷である。
人はそれを――便所飯と呼ぶのだから。
「…………くさ」
白米をそそくさと運びながら、彼女は独り呟く。
実際の臭いはそこまでだ。清掃は十分に行き届いており、鼻に突きさす大半は芳香剤に寄るものである。
しかしながら視覚というものは、それ以上に訴えかける。見下ろすタイルはトイレ以外の何者でもなく、座っている便座を椅子とは誤魔化せない。飽くまで排泄物を処理する場所なのだと脳が認識してしまえば、味覚がまともに働こう筈もない。
「キリシマさん……キリシマさん……」
だから彩夏は楽しいことを考えようとした。実際に口にも出したし、胸だってトキめいた。
されど記憶は記憶であって動くものではない。すぐさま目の前の現実に上書きされてしまい、迷った末に携帯電話を取り出す。
ダイヤルはすっかり覚えている。弁当片手にしていようと、スムーズに番号を入力出来た。
『…………もしもし?』
十数回のコールを経て、落ち着いた女性の声がスピーカーを通す。彩夏はそれまでの不安を裏返すかのように、ニンマリと頬を緩める。
「リカお姉ちゃん」
『うぇ……彩夏ちゃんか』
だというのに、相手はこの反応である。
電話をかけたのが彩夏だと知った瞬間、明らかに声を曇らせている。
「うぇって何よ、うぇって。折角勇気を出して掛けたってのに」
『いや今更でしょ? それに用もないのにかけないでって言ってるのに』
「相談ならあるわよ」
言いながら、彩夏は目を閉じる。瞼の奥であの日の光景を巡らせながら、是非とも聞いてほしいことを湧き上がせる。
「この前ね……キリシマさんっぽい人を見かけたの」
そしてまたしてもループする。
恋は盲目とは良く言ったものだ。実際に彼女は当人かどうかも分からぬ通りすがりを見かける度に、同じ相談を口にしているのだから。
恋の始まりは一週間程前のこと。
それは彩夏が目にかけている――といっても本人は否定するが――ある喫茶店を訪ねた帰り道のことであった。
何時ものような冷やかしで憎まれ口を叩いて、それから少しばかり近くのコンビニで立ち読みを済ませた後。歩きたくもない帰路をとぼとぼと進んでいる最中である。
『マ ズ イ!!』
そんな悲鳴と共に――何処からともなく物が飛んできたのである。
『おあっ!!』
それは固く、熱のあるナニカだった。
見事に頭部を捉えたそれは彩夏のバランスを崩し、前のめりに倒れそうになって、堪えようとして咄嗟に手を伸ばした。
結果的に倒れはしなかった。転んで靱帯を痛めるのはもう懲り懲りだと、防衛本能がしっかり働いたと言える。
『っ……んだゴラァ!!』
しかしその代償は重かった。堪えようとしてぶつかったのは強面。パンチパーマに咥え煙草をした、如何にもソレっぽい人物だ。
『あぁん? なんのつもりだてめえ!!』
『あ……あぁ……!』
恫喝する男を前に、彩夏は言い訳の言葉が出なかった。「違う」と言いたいのに喉が震えて、涙目でおろおろと、歯をカチカチと鳴らすことしか出来ない。
『ちょ、ちょっと……落ち着きましょうや! 相手はガキっすよ!?』
『うるせぇ! 桜曉会のクズが口挟むんじゃねえ!!』
男は二人組であり、片割れが仲裁に入ろうとするが、聞く耳を持たなかった。
毛深い手が胸倉に伸び、彩夏は恐怖の余りに目を閉じてしまう。
『おい』
そんな時、誰かの声が聞こえた。
声色の低さは恫喝者と同様。されどそこには強い意思が垣間見え、大樹にもたれかかるような安心感を感じる。
『そんなガキに喚くんじゃねーよ。大人気ないって知ってんのかぁ?』
おずおずおと薄っすら開いた瞳には、灰色のスーツが映りこんでいた。頭髪は短く、背丈は見上げるほどに高い。
『アァン!? いきなり出てきて何を言ってやがんだ、この!』
パンチパーマの男は激高し、拳を振り上げる。人差し指から小指に至るまで指輪を嵌めていて、まるでメリケンサックのような凶器だった。
『ふんっ』
それでもスーツの男は狼狽えない。軽く顔を逸らしただけで殴打をやり過ごし、お返しと言わんばかりに右拳を握りしめて。
『おらぁ!!』
『あ……がぁ……!』
たった一発。ボディーブローが突き刺さって、パンチパーマがくの字に曲がる。
唾液と共に咥えていた煙草がポロリと落ちて、風に吹かれては遠くに運ばれていく。
『お嬢ちゃん』
ずるずると地面に崩れる相手に一瞥もしないまま、彼は彩夏に語り掛ける。左手に吊り下げたビニール袋には、一升瓶を覗かせていた。
『わざとかどうかは分かんねーけど、易々と喧嘩を売るなんざやめるこった。こんなチンケな相手には勿体ねー、そんな良い目をしてるんだからよぉ』
そう言って彼は瓶を抜き出し、パンチパーマに振り降ろす。
まるで大人と赤子のようだった。ぐるりと白目を向いたことを認めると、何事もなかったかのように去っていく。
『ちょ、おま……いや!』
そんな背中を残った片割れが追う。しかし仇討ちをする様子はなく、彼の隣に並んで何かを訴え続けている。
『あ…………』
やがて見えなくなった後も、彩夏は見守り続けた。すっかり抜けてしまった腰をペタリと降ろし、ポケットの携帯で通報する発想も頭にないまま、ドクドクと暴れる鼓動に心が満たされる。
――か、かっこいい……!
白馬の王子様とは違う。されど絵本のような存在であったという意味では同じだ。
そんな男に彩夏は魅入られ、そして思い知った。
自分はこの人に出会う為に、これまで生きてきたのだろうと。惚けに惚けきった結論を、割と本気で。
「ってなわけなの! ほんっとかっこよくてぇ……!」
『はぁ』
その後の彼女の頭はそれ一色だ。ふとしたことで思い出し、口に出す話題を占領している。
都合何度目になるかも分からぬ『出会い』を語り終えた後に、電話口の女性は食傷気味な溜息を吐き散らす。
「キリシマさん……」
『いや、だからそれ名前じゃないんでしょう? 勝手に仇名をつけられちゃあ、相手もたまったもんじゃないっていうか』
「キリシマさん……貴方はどうしてキリシマさんなの?」
『駄目だこりゃ』
ちなみに『キリシマ』とは男が手にしていた一升瓶から来ている。名乗ったわけじゃないのだから、彩夏は当然本名を知らない。
『それで? 似ている人とやらはどうだったの?』
「違った。後姿は似てると思ったんだけど……」
『あのねぇ』
と、リカの溜息。灰色スーツの男など何処にでもいる。その中の一つと間違えたことは察されていた。
『ワタシも暇じゃないの。毎日毎日忙しくって、目が回りそうだってのに』
「後ろでテレビの音が聞こえてる」
『そりゃあ、お昼休みなんだからテレビくらい』
「スポーツ中継。昨日の試合……プレミアシップの再放送かな? トライが決まった時間は後半二十分だから、お姉ちゃんは一時間以上前からそこで」
『オーケー、わかった。だからスマホで逆算するのはやめましょう』
彩夏はインターネットブラウザを閉じ、ふふんと勝ち誇る。気分はすっかり上向きで、さっきよりかは芳香剤の臭いが気にならない。
『まぁ……キリシマさんだか何だか知らないけど、そんなことよりさ』
しかし相手の場所を察しているのは彩夏だけではないのだろう。リカはごにょごにょと詰まったように囁く。
『いい加減、お友達くらい作りましょうね?』
「……………………はぁ?」
たっぷり沈黙を置いた末に、彩夏は声を上擦らせる。どれだけ不機嫌を装うと、動揺は隠しきれていなかった。
「……いるわよ。友達くらい」
『あらそう。じゃあ一緒に食べないの?』
「今日は相談だから! だからたまたま……たまたまよ」
『ふーん』
「っ!」
直接的な指摘はなく、されど見越している。そんな言い回しを前にして、彩夏は携帯を強く握りしめ、咥えていた箸をギッと歪ませる。
「そんなことどうでもいいでしょ!? アタシは恋をしてるの! 真剣な相談なんだから、真剣に向き合うのがお姉ちゃんの仕事じゃ――」
『恋、ねぇ』
カッと捲し立てようとして、出鼻が挫かれた。
『それって恋なのかしら?』
「は?」
『ワタシが見る限り、何時もの堂々巡りに思えるけど?』
彩夏はリカの言っている意味を理解出来ない。分からないからこそ火に油だ。顔を真っ赤に染め、大きく声を張り上げようとして――
「うー……もれるもれる」
ここが何処であったのかを思い出す。
誰かが入ってきた。隣の個室だ。薄い壁を隔てて、他人の気配を感じる。
「もう! 急に走り出しちゃって」
「チーさん、間に合いましたか?」
おまけに一人ではない。聞き覚えのある声が更に二つ、個室の外側にいる。
すかさず彩夏はスマホの電源をオフにし、自らの呼吸さえも静める。金縛りにあったかのように全身が酷く強張っていた。
「ごめんごめん。今日は寒いから、ミルクティーばっか飲んじゃっててさぁ」
水が流れ、隣の扉が開く。その軽い口調にも覚えがある。三人共に別のクラスの人間だった。
「ってか隣ってば何してんだろ? 何か変な臭いしたんだけど」
だからこそ、嫌な予感はしていた。
木下亜希はギャルである。時代錯誤な焼け肌を晒していて、見た目相応に頭も軽い。故に空気を読むなどもっての他で、無遠慮な指摘を口にする。
「いや、変な臭いって」
「うんこですか?」
「ミミちゃんはもうちょっとオブラートに包もうよ……」
残る二人は安西佳代と緑谷海々。前者は幾分常識的だが、後者はこの街屈指の変人である。
小学生のような見た目のクセに無鉄砲で、おかしなことばかりに拘っていて、最近は見知らぬ男まで家に連れ込んでいる。
以上が彩夏にとっての三人組の評価。
ただでさえ見られたくない状況下で、特に見られたくはない相手であった。
「おーい? そこで何してんのー? 辛いことあった系ー?」
「便秘ですか? それともアレがキツイ感じですか? よければ滅茶苦茶利く薬がありますよ?」
「もうっ! 亜希ちゃんもミミちゃんも!」
ガンガンガンガンとドアがノックされ、言われたい放題である。彩夏は両耳を塞ぎ、目をギュっと閉じ、『帰って!』と心の中で連呼する。
「出てこないねー? 先生呼んでくるー?」
「うーん? 倒れてたりしたらマズイですけど、とりあえずは……よっと」
しかしずっと黙っている内に、とんでもないことを話し始める。いらぬお節介の極致だ。そんなことをされては晒し首に等しい。
(いっそのこと、こっちから姿を晒すべき?)
彩夏は思った。弁当箱を隅に隠してしまえば、単に用を足していたと誤魔化せるかもしれない。開口一番「うるさい」と逆上することだって出来るだろう。
(そうだそうだ。それがいいわ)
強気な姿勢が気持ちを軽くさせる。自慢ではないが、彩夏はヒステリックに叫ぶことを苦手としていない。故に大きく息を吸い込み、鍵を外そうと手を伸ばす。
「…………うわ」
が、少しばかり遅かった。
彩夏の頭上から声が聞こえてきた。見上げた先にはミミの童顔。感情っ気の薄い眉がくしゃりと歪んで、『ドン引き』の色に染まりきっているではないか。
「…………」
「…………」
扉の上と便座の上。互いがヘビに睨まれたカエルのようでいて、実際に固まっているのは彩夏だけであった。
「はぁ」と短い溜息が聞こえたかと思えば、ミミはあっさりと身体を下ろす。
「寝てますね」
「寝落ち?」
「はい。ですから放っておきましょう。授業には遅れるかもしれませんけど、まぁいずれ起きるでしょうし」
そう言って、すたすたと気配が遠ざかるのを感じた。誰一人振り返る様子も、待ち伏せるなどということもない。
その間も彩夏の手は鍵に伸びたままで――やがて予冷の音が響くのを境に、錠を外すことを思い出す。
「…………しにたい」
彩夏は自分の教室に戻らなかった。廊下の隅を俯きがちに歩き、鼻を啜りながら昇降口の方へと一直線。
それは今更珍しくもない。彼女にとってはよくある――無断早退であった。