この指とまれ
かくれんぼする人、この指とまれ
葬儀を終えて喪服姿で実家に帰ってきた。
誰もいなかった家の中は夏の生ぬるい空気に満ちていて、ネクタイを緩めながら居間のクーラーをつける。
冷たいものでも飲もうと冷蔵庫の上の段を開けると、冷えた麦茶が入っているピッチャーが見えた。
手に取ってそれが誰が作ったものであるか気付いて、ひとつ溜め息を吐くと流しに捨てた。
排水口に流れていく茶色い液体。
これも形見に違いないが、さすがに残しておくことは出来ないと思った。
母の死は突然のことだった。
気付いたきっかけは誕生日プレゼントで。
ネットショップで適当に選んだ花束とメッセージカード。
自己満足で贈っていたそんなものでも母は毎年とても喜んでくれて、いつも荷物が到着するとすぐに弾んだ声でお礼の電話があった。
今年の誕生日。
荷物は着いているはずなのに母から何の電話もなかった。
おかしいなと思い、こちらから電話をしてみるが全然出てくれない。
嫌な予感がした。
そんな予感ははずれていてくれればいい。
そう思うが人生とは中々いじわるなもので、そういう予感に限って当たってしまう。
その夜、仕事が終わって実家を訪ねてみれば、母が居間の床に倒れていた。
散らばった色とりどりの花と花びら。パソコンの文字でただ「お誕生日おめでとう」とだけ書かれたメッセージカード。
俺のプレゼントに囲まれて母が床で死んでいた。
突然死。
それまで何事も無く動いていた母の心臓はあっさりと、あまりにあっさりと動くのを止めてしまったらしい。
祖父も祖母も、父も、そして母も。
みんな死んでしまった。
俺はひとりぼっちになってしまったわけだ。
麦茶の代わりにコップに水道水を注ぐ。
飲みながら母の倒れていた場所へと行くと机の上にあの時のメッセージカードが置かれていた。
散らばった花束は捨ててしまったが、これだけは何となく残しておいた。
ぼんやり見ているとふとその横に1枚のメモ用紙が置かれていることに気付いた。
不思議に思いながら手に取るとそこには母の文字でこんな言葉が書かれていた。
「かくれんぼする人、この指とまれ」
……こんなメモ、置いてあっただろうか。
母が亡くなってからの記憶を遡るが見た記憶が無い。
考えているとどこからか声がした。
『もういいよ』
「!」
振り返る。
幻聴?
耳を押さえる。
『もういいよ』
やはり聞こえる声。
「……母さん?」
それは確かに母の声だった。
戸惑いながら周りを見る。
誰もいない。
『もういいよ』
母の声は止まない。
待ち望むように急かすようにどこからか声が聞こえてくる。
手元のメモを見る。
これは、かくれんぼ?
俺がみつけるまで声はやまないのか。
葬儀は終わったはず。
それでもここにいるのは心残りがあるからか。
浮かぶ苦しげな死に顔。
俺はゴクリと唾を飲むと動き始める。
「もういいかい」
『もういいよ』
声はまだ遠い。
お風呂場。誰もいない。
トイレ。誰もいない。
洗面所。誰もいない。
「もういいかい」
『もういいよ』
かくれんぼのコツはどこから声がしているかきちんと聞くこと。そう教えてくれたのは誰だった?
ああ、そうだ。母だ。
幼い頃、学校から帰ってくると机の上に母からの書き置きがあった。
「かくれんぼする人、この指とまれ」
俺はワクワクしながら母を探しに行った。
「もういいかい」
そう言うとどこからか母の声がした。
「もういいよ」
母が教えてくれたのだ。
かくれんぼのコツはどこから声がしているかきちんと聞くことだよ。さあ、お母さんの声はどこから聞こえてきた?
二階に上がる。
祖父母の部屋だったところ。父の部屋だったところ。俺の部屋だったところ。
持ち主がいなくなってしまった部屋ばかり。それなのにどの部屋も持ち主がいた頃のままで。改めて母が保っていてくれたことを知る。
「もういいかい」
『もういいよ』
残る部屋はひとつ。
母の部屋。
おそるおそる扉を開ける。
ベッドと鏡台、タンスがひとつ。
質素な母の部屋。
誰もいない。
俺はひとつ息を吸うと言った。
「もういいかい」
『もういいよ』
声はタンスの中から聞こえてきた。
一番上の引き出しの中。
ここに?
心臓がうるさく鳴る。
ドクン
ドクン
心音と共に引き出しを開けると入っていたのは──たくさんの手紙だった。
「これ……」
母の日。誕生日。サンタさんへの手紙まで。
それは俺が贈った手紙だった。
文字にもなっていないような幼いものから、いくつもいくつも積み重なった手紙たち。後半はただ「いつもありがとう」と「お誕生日おめでとう」とだけ書かれたメッセージカードばかりで。
「こんなものなんで……」
驚いていると後ろから声がする。
『みつかっちゃった、お母さんの宝物』
振り返るとそこにはにこにこ笑う母がいた。
最後の苦しげな死に顔が上書きされる。
ああ、そうだ、母はこんな風に笑う人だった。
今年の誕生日も俺はこの笑顔が透けて見える嬉しそうな電話を待っていたのだ。
『今年の分もちゃんとしまっておいてね』
そう言う母に自然と言葉が出た。
「ごめん」
もっと、もっとちゃんとあなたに贈る言葉を考えればよかった。もっと、ちゃんと。
母は笑ったまま横に首を振る。
そうして、いつもの弾んだ声で言った。
『ありがとう、とても嬉しいわ』
そのまま、静かに消えた。
「母さん……!」
咄嗟に手を伸ばすがそこには何もなくて。
残ったのは明かされた宝物の隠し場所と手元に残ったメモばかり。
「かくれんぼする人、この指とまれ」
最後の母の言葉を見ながら乞うように言ってみる。
「もういいかい」
母の声はもう返ってこなかった。