ある駅前の立ち食いソバ屋で、天玉ソバを食べたら、体が温まる筈が冷えました。
念のために。
この小説世界では、新型コロナ禍は発生していません。
僕の最近の趣味は、月に1度か、2度、週末になると鈍行列車で少し気ままな一人旅をして、行った先での名物料理等を堪能することだ。
その際に僕が一つの約束事として決めていることのは、余り時刻表等を確認せずに、ふらりと行って、到着した後から帰りの時刻を確認することだ。
行く前から、何時の列車に乗って帰らない、ととか、気にしては、せわしない気分になるからだ。
また、名物料理と言っても、大して高い料理を食べるような余裕は僕には無い。
精々が1000円台だ。
鉄道の運賃、料金を合わせても1万円以下。
その限度で、行く先を考えて、ネット検索を掛けて、行く先を決めては出かけている。
そして。
この夏の一日は、僕としては、少しついていない日で終わる筈だった。
楽しみにして赴いた現地の名物ソバ屋が臨時休業していたのだ。
それらしい、といえば、それらしいが、今時、店主急病のため、本日休業、という貼り紙が店の扉に貼られているのを見られるのは、中々無い事態だ。
だから、仕方ない、と僕は割り切れて、代わりの食べ物屋を探そう、という気になった。
そして、行った先は、それなりの街ではあり、食べ物屋を小まめに探せば見つかる筈なのだが。
今日はソバを食べよう、と楽しみにしながら来ていたこともあって、ソバ屋を探すも中々無くて、結果的に到着した駅の構内にあった立ち食いソバ屋に、僕は飛び込んで食べることにした。
だが。
最初から僕が冷静になっていれば、色々とおかしいことに気付いていた筈だったのだが。
僕は、ソバ屋を探す内に腹が空いていたこともあって、立ち食いソバ屋の暖簾を潜るや否や、
「天玉ソバ1つ」
と注文していた。
何故に天玉ソバ、と言われそうだが。
僕なりの理由はある。
僕の心の中では、天玉ソバは小腹が空いたときの王道中の王道のソバだ。
そして、異論、反論を僕の心の中では認められない。
まず、かき揚げが入っているので、腹持ちがいい。
そして、生卵が入っているので、心身共に力が付く気がする。
更に熱いソバなので、汁を飲むことで身も心も満足できるのだ。
それに対して、
「いきなり、天玉ソバ1つ、とは通ですね」
と立ち食いソバ屋の主が返したことに僕は違和感を覚えずに、ソバが茹で上がり、天玉ソバが供されるのを何も思わず待ってしまった。
そして、主は天玉ソバを僕に供した。
僕は、何の気なしに、カウンター上にあった木箱入りの七味を取り、それに付いていた匙に七味を山盛りにしてすくい、ソバに掛けた。
夏の暑い盛りに、汗をより掻いてしまう七味を入れない人もいるどころか、むしろ、その方が多数派かもしれない、と僕は思うが。
僕としては、熱いソバを食べるのに七味は必須なのだ。
更に言えば、きちんと蕎麦つゆを味見してから七味は入れろ、と言われるかもしれないが、蕎麦つゆを味見して云々の手間をかけては、汁が冷めて天玉ソバを楽しめなくなる、というのが僕の考えだ。
そして。
僕は、卵をつゆに沈めて、半熟に少しでも近くする。
ここの天玉ソバは僕好みの熱々の汁だ。
こうすれば、半熟は無理でも、少しとろみがかった卵にできる。
そして、かき揚げをまずは齧って、半分ほどにして。
少し固まりかけた卵にソバを通してから、僕はソバをすする。
ソバの半分を越した辺りが目安だ。
その後は、ソバとかき揚げを交互に食べつつ、汁だけにしてしまう。
卵の味が少し残っている汁を完全にすすり上げて、僕は完食する。
ここまで立ち食いでの天玉ソバごときの食べ方に拘る必要はない、というのが普通の考えだろう。
でも、僕は天玉ソバを食べる以上は、食べ方にも拘りたいのだ。
もっとも。
それを他人に押し付けるつもりは全くない。
これは、あくまでも自分に対しての拘りなのだ。
僕はここの天玉ソバを完食して、身も心も満足した気になった。
ここの天玉ソバは、色々と僕の拘りを具現化したような天玉ソバだったのも満足した一因だった。
それこそ、最近の立ち食いソバ屋でよくある、そのままかき揚げで食べたくなるかき揚げではなかった。
どちらかといえば昔風の、天ぷらの衣の部分が部厚めで、汁に浸したうえで食べたくなるかき揚げがソバに載って出てきた。
そして、そのままではとてもすすれないどころか、丼を手でもつことさえ躊躇う程の熱湯の汁で満たされた熱いソバが出てきた。
だからこそ、生卵が食べる内に少し固まり、半熟めいた代物になって。
僕は行く筈だった名物ソバ屋が閉店していて良かった、という想いさえもしていた。
すると。
「あんた。本当にいいお客さんのようだ。俺の作ったソバに満足してくれたのかい」
店の主が、僕に声を掛けてきた。
「ああ。そうだ。ところで、天玉ソバの値段は幾らだい」
僕は、天玉ソバの値段を確認していなかったことに気付いて、内心で少し慌てて店の中を見回すと。
妙なことに気付いた。
店の中には、天玉ソバの値段が書いた札が1枚しか無かったのだ。
普通なら、天玉ソバ以外のソバもソバ屋は出す筈なのに。
「いやあ、あんたの食べっぷりなら、お代はいらないって、心から言えるよ。ところで、その天玉ソバの食べ方には拘りがあるのかい」
「あると言えばあるが、他人に押し付けるようなことはしないよ」
主の問い方が、僕の勘に妙に障り、僕は用心しながら答えた。
「それでこそ、いい客だよ。あんたが来てくれていればよかったねえ」
主はそう言って、腹の底からの高笑いをした。
僕は、その笑い声を聞く内に、心の奥底が冷えていき、最後には失神してしまった。
次に僕が気が付いたとき、僕は病院の白い天井を眺める羽目になっていた。
一体、何事が起きていたのか、僕は混乱する羽目になった。
そして、僕の目が覚めたことに看護師が気付き、色々と話を聞かされる羽目になった。
僕が入った駅の立ち食いソバ屋は、数年前に客同士がトラブルを起こし、傷害事件にまで発展した事態が起きたことを発端にして、客が減って、閉店する羽目になったこと。
そして、店の主は閉店のショックから自殺したこと。
その客同士のトラブルの発端となったのは、天玉ソバの食べ方だったらしいこと。
その後、立ち食いソバ屋は封鎖されたのに、時々、封鎖を破って人が入り込み、死体が転がるようになったこと、僕は気を失った状態で発見され、命を取り留めたこと。
「天玉ソバの玉子をいつ食べるのか、最初は客同士の気軽な話だったのに、いつかお互いに熱くなって。血の雨が降る事態になったらしいです。店の主が本当は止めるべきだったのでしょうが、止める時機を逸してしまって、そこまでの事態になってしまい。店が閉店に追い込まれて、主が自殺した後、数カ月に一度、閉店した店の中に死体が転がるようになったんです。死体の表向きの死因は脳梗塞か、心臓発作ですけど、実際は主の無念から殺されたんだって、この街中の噂ですよ。でも、証拠がないのに、ネットに書き込んだりしたら、昨今だと名誉棄損だ、何だかんだという騒動になるでしょ。だから、誰もネットに書き込まなくて」
そう、看護師から僕は話を聞かされた。
僕は看護師の話を聞き終えて思った。
僕は気づかない内に、主の無念を雪ぐことに成功していたらしい。
もし、主の無念を雪ぐのに失敗していたら、僕は死体になっていたに違いない。
それにしても、たかが天玉ソバの食べ方じゃないか、と思わなくもないが。
拘る人はとことん拘るものになるものだ。
僕は天玉ソバの食べ方が急に怖くなった。
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