7.旅立ちます
ネジュも共に王都へ行くので、しばらく薬屋を閉めることになる。小さな街とはいえ、ネジュの薬屋もこの街に定着しているからきっと困る人も居るだろう。
そのことをおばば様に相談すれば、店はやめたが薬師としては生涯現役だから任せなさい、と呵々大笑していた。
そして心配も無くなった旅立ちの朝。
薬屋の戸締りをしていると、隣のパン屋からマールが来てくれる。そして春子のことをぎゅっと抱きしめたあと、大きな包みを差し出した。
「ハルコちゃん、気を付けていってらっしゃい。はい、これお昼にでも食べな」
「マールさん! ありがとうございます」
「大したことじゃないよ。ネジュ、しっかりハルコちゃんを守ってやんだよ」
「分かってますって」
「本当かい? あんまりグダグダしてると、あの騎士様に全部持ってかれちゃうからね!」
バシリ、と背中を叩かれたネジュはふらりとよろつきながら、咽ていた。しばらく咳き込んでいるネジュに、慌てて駆け寄って背中をさすってやる。
「ネジュさん!?」
「ぅう……、大丈夫。マールさんも、おじさんが飲みすぎないよう注意してください」
「分かってるよ! ほら、入り口で騎士様が待ってるんだろう? 早く行きな」
「はい。じゃあ、行ってきます!」
「行ってきます」
からからと笑うマールに見送られ、街の入り口に向かう。宿に泊まっていたファルディンとはそこで待ち合わせをしているのだ。
そして早朝ながらも既に活動を始めている街の人々にも挨拶をしながら街の入り口に行けば、そこには艶やかな青毛の馬と共に、キラキラしたファルディンが既に待っていた。馬の存在も相まって、物語から出て来た騎士といった様相だった。
改めて見ていると、とても田舎の街にはそぐわない存在だ。
「おはようございます。お二人とも、どうしましたか?」
「おはようございます。いえ、何でもないですよ」
「おはよう」
思わず少し離れたところから眺めていると、二人に気付いたファルディンに怪訝そうな顔で声を掛けられた。だが流石に、キラキラな騎士に近付きたくなかった、なんて言えないので適当な笑顔で誤魔化す。
「綺麗な馬ですね」
「ありがとうございます。私の愛馬で、フーディーといいます」
「フーディー、よろしくね」
美しい青毛の馬に声を掛けるが、ふい、と顔を背けられてしまった。少しショックを受けていると、ファルディンが苦笑する。
「申し訳ありません、フーディーは気難しくて。しばらくすれば慣れると思いますので、また声を掛けてあげてください」
「はい……」
「……馬が一頭ってことは、とりあえず歩き?」
「ええ。まずはミランの街まで、歩いて向かいます。ミランの街には他の者も居りますので、そこからは馬や馬車を使って、という形になります」
「ふぅん、分かった。でもさ、なんで馬車とか連れてこないで、あなた一人で来たの?」
どこかとげとげしい態度のネジュにちょっと驚いて見上げれば、へにょりと眉を下げて微笑みを返された。なにか理由はあるのだろうが、説明する気はないようだ。
そしてフーディーを引きながら進むファルディンの後ろに、ネジュと春子が並んで歩き出す。
「私が一人で来たのは、あまり大人数で押しかけても迷惑をお掛けしてしまいますから。幸い、ミランの街とこの街の間はあまり獣なども出ませんので、一人で十分だろうと判断しました」
「ま、確かに急に何人も外の人が来たら泊まるところもないね」
「宿屋はミーニャさんのところだけですもんね」
「しかし、穏やかで温かい良い街ですね。短期間でしたが、とても良くして頂きました」
穏やかに笑うファルディンに、思わず苦笑する。宿屋のミーニャが面食いなのは有名な話だ。きっと、キラッキラな神殿騎士であるファルディンは、いつも以上のサービスでもてなされたはずだ。
そんな他愛もない話をしながら進み、その日は何事もなく過ぎていく。お昼は道端でマールから貰ったパンを食べ、時々休みを入れながら歩き続けた。
そして日が傾きだした頃、道から少し外れた開けた場所を探し、そこで野営するという。
「暗くなる前には就寝の準備を終えないといけませんからね。少々早いですが、ここで今夜は過ごしましょう」
「はい。何か私がお手伝い出来ることありますか?」
「そうですね……」
「夕食は僕が作るよ。春子さんは、少し休んでたら?」
ファルディンがくれたショルダーバッグ以外は荷物もなく、初めての旅だが春子の体力にもまだ余裕はあったのだ。しかし野営となると何をすれば良いかは分からなかった。
手伝えることは、と聞くがファルディンは困った様に笑うだけだった。ネジュはてきぱきと火を起こし、夕食の準備を進めていく。
意外にも、ネジュは野営に慣れているようだった。
役割を与えて貰えないことに少々ムッとしていると、少し野営の準備を整えていたファルディンが声を掛けてくれる。
「ハルコ嬢。少し時間がありますし、魔術制御の練習をしませんか?」
「魔術制御、ですか? ネジュさんに匙を投げられたんですけど……」
「腕輪も着けているのですから、もしかしたら前とは変わっているかもしれませんよ?」
「ん~……、そうですね。じゃあ、やります!」
「では、少しここから離れましょうか。夕食を巻き込むと困りますし」
「……暴発すること前提で話してません!?」
「おや、申し訳ありません」
小さく笑うファルディンにむくれながらついて行くと、小さな川辺に出る。野営地は水場も近かったようだ。
「さて、ハルコ嬢。手を出してください」
「こう、ですか?」
「ええ。では、私がフォローしますので、掌の上に水を溜めるイメージをしてください」
「っ、はい」
川に向かって両掌を上向きに差し出した格好の春子に、ファルディンが覆いかぶさるようにして後ろから掌を包み込む。半ば抱きかかえられるような状態にドキドキしながらも、集中して指示された通りにイメージを描いていく。
魔法は、起こしたい現象をイメージし、魔力と引き換えにその現象を発生させるものなのだという。だから、起こしたい現象をちゃんとイメージ出来なければ魔法を発生させられないし、その現象に相応しい量の魔力を魔法に変換していく必要がある。そしてその魔法への変換の補助のために、呪文があるのだ。
一流の魔術師であれば、呪文もなく瞬時にいくつもの現象を発生させられるらしい。しかし上手く魔力制御も出来ない春子は、イメージを描くところから丁寧にゆっくりと行っていく。
「息を整えて、……そう。魔力の変換は私が制御します。呪文を唱えてください」
囁くように告げるファルディンの声に従い、呼吸を落ち着ける。そして水を発生させるための呪文を唱える。
「アクア」
「っ……!!」
呪文を唱えた途端、掌に向かって魔力の奔流が沸き起こる。背後のファルディンが息を詰め、魔力の制御をしようとしていたが、あまりにも強力な流れに抑えきることが出来なかったようだ。
ドパッ、と春子の掌から滝のような水が噴き出す。
「うわっ……!」
「くっ、ハルコ嬢!」
水の勢いに押された春子を、慌てた様子のファルディンが抱きかかえてその場から離れる。そして地面に春子を下したファルディンは、申し訳なさそうに頭を下げる。
「濡れませんでしたか? すみません、力が及ばず……」
「濡れてないです。その……、すみません」
「ハルコ嬢……」
さらさらと流れる小川の音が、なんかより一層むなしい。
あんまりな結果にしゃがみ込んで凹んでいると、向かいに座ったファルディンがそっと声を掛けた。
「ハルコ嬢、やはり貴女の魔力量は桁違いです。これ程大きければ、制御に苦労するのも無理はありません。だから、そんなに落ち込む必要はありません」
「ファルディンさん……」
思いがけず優しい言葉にじわりと涙が浮かぶ。そうすると余計に困った様子のファルディンが、視線を宙に巡らせた。
そしてそっと春子の頭に手を乗せ、優しく撫でてくれる。
出会ってそう日も経っていない人に随分と気を遣わせてしまった。そう思ってグッと目をつぶり、一つ大きく息を吐く。
「すみません、ご心配おかけしました」
「いえ、元気になられたのなら良かった」
笑顔を浮かべて謝れば、ほっと息を吐いたファルディンも小さく笑い返してくれる。
そしていくつか魔力制御のコツを説明してくれた後、ふと思い出したように春子に問い掛ける。
「そういえばハルコ嬢のお名前ですが、私の発音は少し違いますか?」
「う~ん、確かに少し違いますけど、言語の違いのせいだと思うので気にはしてませんよ。一体どうしたんですか?」
「いえ、街の方たちは私と同じような発音ですが、ネジュ殿は少し違うように感じたので」
「あぁ、そのことですね」
随分と前の出来事を思い出し、春子は思わず笑みを零す。
あれは春子がネジュに拾われて一ヶ月くらい経った頃だっただろうか。慣れない異世界での生活に疲れ、不安や不満が爆発してしまったのだ。支離滅裂に泣き喚いたその時、春子の名前を呼ぶネジュの発音が違うことも詰ったようだ。
春子自身はあの時何を言ったのかよく覚えていなかったが、ネジュはそのことをとても気にしていたようだった。しばらくの間は春子の名前を呼ぶのをとても躊躇っていたし、春子の知らないところで随分と発音の練習をしていたようだ。
そしていつの間にか、しっかり『春子』と呼んでくれるようになったのだ。
「初めてちゃんと『春子』と呼ばれたとき、なんでか凄く安心して、落ち着きました。大したことじゃないと思ってたんですけど、正しく呼んで貰えることって、とっても嬉しいことなんですね」
「……ええ。名前は、魂と紐づくとも言われています。きっと、ネジュ殿がハルコ嬢を呼ぶ声は、魂に響くのでしょう」
「ええ~、そんな大げさな」
小さく手を振って笑う春子を見るファルディンの碧い瞳には、真剣な色が浮かんでいた。しかしそんな表情はすぐに掻き消え、どこか作り物めいた綺麗な笑顔を向けられる。
そして腰を上げたファルディンは、春子に手を差し伸べた。
「ファルディンさん?」
「さて、そろそろ戻りましょう。ネジュ殿が心配しているかもしれません」
「……そう、ですね」
先程のファルディンの表情が気になったが、笑顔で急かされ、口を噤む。そしてファルディンの手を取って立ち上がるのだった。