義に生き義に散る
早朝の関ヶ原には濃い霧が立ち込めている、らしい。近習の湯浅五助の報告を受け大谷吉継は外に出た。冷たい風が通り抜け、秋の気配を感じさせる。
「殿、あまりご無理はなさらず。」
後方から駆け寄ってきた心配そうな五助の声をよそに吉継は空を仰いでいる。
「ふ、これから戦をするのだ。これ以上の無理はあるまい。」
「ははあ、それもそうでございますな。」
五助は納得したようでそのまま吉継の傍らに立った。再び風が吹き抜け木立をざわつかせていく。
「目には見えなくても、風の音で秋の訪れを感じるとはよく言ったものだ。」
「左様でござりますなあ。」
吉継の呟きに五助がのんびりと返した。きっとあの人の好さそうな丸顔に、眩しそうな笑みを浮かべているのだろう。
吉継は病のためにすでに両目の視力を失っていた。歩くのもおぼつかなくなり、最近は五助が常にそばについている。
「さて、この体でどこまで行けるかな。」
「何を言われますか。我ら家臣が殿の手となり、足となり、そして目となって働きますゆえ、ご心配にはおよびませぬ。」
今度の声は力強かった。これは虚勢ではなく、心からの思いである。大谷家の家臣団は吉継の人徳の下で強く結束しており、戦の際には吉継の思いのままに動いてくれる。
「だが今度の相手は内府殿だ。一筋縄でいくような相手ではない。」
吉継はじっと空中を見つめていた。流れてくる秋風の中にわずかに鉄の臭いが混ざっているように感じた。合戦の臭いだ。
「しかし殿はどことなく嬉しそうでありますぞ。」
茶化すような五助の声が吉継の顔をほころばせた
「ふふ、おぬしの眼は誤魔化せぬな。今わしの心は来る大合戦に奮い立っておる。」
まさか自分があの徳川家康を相手に戦うことになろうとは思わなかった。だが一方で、言いようのない喜びも感じていた。やはり自分は戦が好きなのだろう。それも自ら槍を持って戦うのではない。何人もの兵を指揮し、自分の思い通りに操り勝利を目指すことに至上の悦びを覚える。彼の軍略は亡き主豊臣秀吉にも高く評価されていたが、これまでその才能を発揮する機会はほとんどなかった。だが、ついにその時は訪れた。相手は東海一の弓取りと呼ばれる徳川家康。十分すぎる相手だ。
「この舞台を用意してくれた佐吉に感謝せねばな。」
冗談めかして呟いた。吉継が家康に敵対する西軍としてここにいるのは、佐吉、石田三成を彼が訪ねたことから始まっていた。
それはおよそ二か月前、まだ初夏の風が吹く七月のことであった。
吉継は三成の居城、佐和山城に来ていた。このとき、吉継は徳川家康の会津上杉氏討伐軍に従うべく領国を立った。その道すがらここへ立ち寄ったのだった。
吉継が客間で待っていると、つとつとと小刻みな足音が聞こえてきた。吉継にはすぐにわかる。静かに早歩きする三成の姿が目に浮かんだ。
「待たせたな、紀乃介。」
そう言いつつ三成が入ってきた。紀乃介とは吉継の幼名である。彼らは他に人がいないときは昔からの呼び名で呼び合っていた。二人なりの信頼の証だった。
「おお佐吉、息災か。」
「ああ、この通り…いや、おぬしには見えなかったか。体の具合はどうだ。」
「はっきり言ってかなり悪いな。もう長くはあるまい。」
「そうか…。」
三成は言葉に詰まっていた。彼なりに吉継の体を心配しているのだろう。しかし、素直に吉継を励ます言葉をかけられないのが彼の性格だ。
「して、そのような体で何のようだ。」
「うむ。今回の戦は知っておるな。これにおぬしは参加できぬだろう。」
この頃、すでに三成は五奉行の立場を失い、佐和山に軟禁されているに等しい状況にあった。
「そこでだ、おぬしの嫡子重家殿に従軍してもらいたいのだ。」
「・・・なぜだ。」
三成の声が鋭くなる。
「おぬしと内府殿の関係がどんどん悪くなっているのはおぬしが一番よく分かっていよう。ここで、重家殿を従軍させれば内府殿の心象も少しはよくなるだろう。そのためだ。」
「そういうことか。」
三成は無感動にそう言っただけだった。あとはひたすら静寂が流れた。
(ふむ、この申し出は断られるな)吉継には返事を待たずして、今回の訪問が無駄になったことを悟った。三成は明らかに気が進まぬようである。
「・・・すまぬ、紀乃介。おぬしの厚意は有難いのだが、その申し出に従うわけにはいかぬ。」
「なぜだ。内府殿との関係を修復せねば、今後おぬしの立場はより危うくなるのだぞ。」
「・・・そこだ。」
三成は声を大きくした。
「わしは豊臣家の家臣だ。わしが仕えるのは秀頼様のみ、内府とわしの関係など知ったことではない。」
「佐吉。」
「紀之介、まさかおぬしも豊臣を見限り、徳川につこうという肚か。」
その声はますます激しくなっていく。
「誰もかれも太閤殿下がお亡くなりになってからというもの、手のひらを返し内府に尻尾をふりおる。市松(福島正則)も虎之介(加藤清正)も内府に近づき始めるざまだ。」
「彼らは彼らなりに豊臣家の今後について考えておるのだ。」
「考える必要などないではないか。豊臣こそ天下の支配者なのだ、それはこれからもかわらぬ。」
三成の口調は断固たるものであった。彼は自分たちが秀吉とともに築き上げた豊臣政権が絶対的なものだと信じているらしかった。
「紀乃介、おぬしはどうなのだ。」
言葉に詰まった。正直なところ、吉継はこれからは徳川の時代だと考えていた。幼い秀頼に狡猾で打算的な世の中を治めていけるとは思わない。豊臣家を支えていた前田利家も没し、現在最も力のある大名は群を抜いて徳川家康だ。ならば、生き残るのに必死な大名たちが徳川につくのは目に見えている。そうして天下は少しずつ徳川に流れていき、やがて豊臣家は滅びるのではないか。その思いは秀吉の晩年から少しずつ大きくなり、今や確実な未来を示していると言えた。
「確かに豊臣家には大恩がある。しかし、秀吉様はもうおられぬ。ここらで内府殿に従うことがこの戦乱の世で生き残る最善の方法であろうな。」
「何を馬鹿なことを。」
「…まあ聞いてくれ。もう豊臣家にかつての勢いは無い。かわりに今まで着実に力をつけてきた徳川がここにきて一気に動き始めた。天下の情勢は徳川に流れようとしている。ここまで言ってわからぬおぬしではあるまい。」
このような考えを誰かに話すのは始めてだった。今は一応豊臣の世である。しかし誰も口にはださないが同じようなことを考えているのは明白である。
「わかった。おぬしの考えは十分わかった。」
先ほどまでとは少し落ち着いた声で三成は答えた。
「だがそれでも、わしは豊臣を見捨てることはできぬ。」
「何も見捨てろと言っているのではない。わしは内府殿と上手く付き合えと言っておるのだ。」
ため息が聞こえた。
「わしにそんな器用な生き方はできぬ。」
その一言が吉継の口を閉ざした。三成は官吏としては有能だが、人間としては不完全で、不器用な男だ。豊臣の天下を脅かす徳川と上手くやっていけるわけがなかった。
「…相分かった。ならばわしはもう何も言うまい。」
その後は些細な季節の変化の話や、思い出話などをして、穏やかな秋の昼下がりを過ごした。日が傾き始め、影が伸び始めるころ吉継は暇することにし、座を立った。吉継が部屋を退出しようとするとき、不意に三成が言った。
「わしは内府と戦う。」
吉継はゆっくりと振り返った。無論、彼の瞳には三成の姿は映ってはいない。だが、そこには確かに、決意と闘志を胸にたたえた三成の姿があった。
「いつか言うと思ってたわ。」
「初めから、わしの考えを知っていたのか。」
「薄々は、な。いつまでもここでおとなしくしているとは思えんし、お前は大の徳川嫌いだからな。」
吉継の前に再び三成の姿が浮かび上がった。その顔はどこか不安げである。
「頼む、紀乃介。わしについて来てはくれぬか。」
この言葉も予想していたものだった。返事もまた決めていた。
「悪いことは言わぬ。やめておけ。」
だが三成は聞かぬだろう。それも吉継には分かっている。
「そうはいかぬ。内府をこのままにさせておけば、奴は必ず豊臣家に牙をむく。わしは守りたいのだ。秀吉様の作った天下を。わしは不器用な男であるから、お前や、虎之介達のように、うまく立ち回ることはできぬ。ならば、真正面から徳川と戦い、潰す。」
彼らしい考え方だった。彼以外にも豊臣を守ろうとしている者は何人もいるだろう。だが、いずれも徳川と豊臣の共存を図り、家康に頭を下げてばかりだった。そんな中石田三成ただ一人は徳川家康と戦うと言う。
「勝てると思うか。」
「無論勝算はある。一たび誰かが動けば、多くのものが動くであろう。そのきっかけを作るのがわしと言うわけだ。」
この言葉に三成らしさが表れていた。彼は、自分の考えに誤りなどないと信じ切っている。今の話にしても、すべて三成の頭の中で展開されている都合のよい筋書きだ。だが、だからこそ、もう何を言っても無駄だということも吉継にはわかりきっていた。
「決意は、固いのだな。」
「ああ。」
「・・・おぬしは何故そこまでして内府殿と戦おうとする。」
「豊臣家を守るため。」
「おぬしは何故そこまでして豊臣家を守ろうとする。」
「秀吉様の恩義に報いるため。」
「おぬしは何故そこまでして秀吉様の恩義に報いろうとする。」
「それがわしの生き方だからだ。」
沈黙。吉継は三成の昔から変わらないことをおかしく思った。不器用で、真面目で、自信過剰で、繊細だった。その三成が自分を求めている。
友情か、自己保身か。
それは秤にかけるまでもないことである。
「・・・分かった。」
決意を新たに吉継は夕焼けを仰ぎ見た。
(おぬしに百万の兵を与えてみたいものよ。)
亡き秀吉は吉継の軍才を称してこういった。あのときにはあった奮い立つ闘志が今再び全身をかけめぐる。
(残り少ないこの生をこの男に託してもよかろう。)
「佐吉、おぬしの生き方にわしもつきあわせてはくれんか。」
そして吉継は関ケ原の地に立った。西軍として、三成の友として。
「霧が薄らいできたようです。これは霧の晴れるころに開戦となりましょうな。」
傍らで五助が言った。この男は吉継が西軍につくと言った時ものんびりと、何も変わらず従っただけだった。吉継の心境を理解してくれたのだろう。目の見えない吉継には人の心の動きに敏感になっていた。
日が高く昇ってゆくに従い霧はだんだんと薄まった。やがて戦場の様子が露わになるが、無論吉継には見えない。だが、場の雰囲気が変わったことははっきりと感じ取れた。兵士たちの間に緊張が走っている。
「ふむ、今日も暑くなりそうですな。まだまだ秋は遠い。」
そんな五助の場にそぐわない能天気な声がした。
突如大きな喚声が上がった。兵たちが一斉に身構え、カチリ、という金属が触れる音が響いて広がっていく。
「福島隊が宇喜多隊に攻撃を仕掛けたようです。」
のんびりとした口調のまま五助が言った。
「市松、相も変わらず血気盛んなことよ。」
口元にわずかに笑みを浮かべて呟いた。
「始まったな。」
吉継は輿に乗り、軍配を掲げた。
「我らもゆくぞ、進め。」
吉継の指揮する部隊1500が一斉に動き始めた。そしてたちまちに敵軍に押し寄せる。これを待ち受けるのは近江の名門京極高知である。すぐさま応戦し戦闘が始まった。
吉継の部隊はよく統制がとれ非常に士気が高く、京極隊を激しく攻め立てた。勢いに押され間もなく京極隊は押され始めている。京極隊の抵抗も激しかったが、大谷隊の勢いが勝っている。この戦場の大きな空気の流れは大谷隊のものが濃厚に感ぜられた。このままゆけばこの場は押し通せるようだ。
「よし、このまま攻め続けるのだ。」
しかし、しばらくすると別の方向から大きな喚声が上がり、近づいてくる。再び五助が戦況を説明する。
「藤堂隊が攻めてきたようです。」
藤堂高虎の大柄で、傷だらけの姿が目に浮かぶ。軍勢は素早く京極隊と合流し、攻撃を開始した。場の流れが変わりつつある。吉継指揮下の軍勢の動きの鈍くなるのを肌で感じた。
(さすがは藤堂、場数慣れしている。)
歴戦の勇士の率いる一軍の到着で、京極隊も勢いづいている。徐々に大谷隊が押され始めているようだ。
(ふむ…)
だが吉継はあくまで輿の上で堂々ゆったりと指揮をつづけた。そんな吉継に応じるように大谷隊は粘り強く戦い続けている。
「京極と藤堂は同じ東軍とは言え、この乱戦では足並みをそろえるのは難しいはずだ。そこを突くぞ。」
五助はゆっくりと目の前に広がる敵軍の動きに目を遣った。確かに京極も藤堂も大谷隊という共通の敵を前にし足並みを揃えんとしているのが分かる。だがその動きにはどこか張り詰めた緊張が感じられ、ともすれば三つ巴の戦となってもおかしくないような空気である。
(同じ東軍とは言え、やはり家の面子があるのだ。)
呆れたものだ、とは思わない。彼らはこの戦の先を見ている。おそらく家康が建てるであろう、新政権下においてどのような位置に就けるか、この戦は相当重要な意味を持ってくるのだろう。
(だが、西軍は目の前のことのみしか考えておらん。)
そのとき、吉継の指示の声が響き渡った。大谷隊は素早い動きを見せ、京極、藤堂の両軍勢の間隙を流れ込むように突いた。たちまちに辺りは酷い混戦の様相をなした。京極隊は一気に混乱状態となり、軍勢は徐々に退いていった。
一方の藤堂隊は京極隊の撤退を受けながらも粘り強く持ちこたえた。一瞬陣形の乱れが見られたものの、態勢の立て直しは早く、すぐさま抵抗を始めた。
「見事、一筋縄ではいかんな。」
五助の報告を受けた吉継はむしろ満足そうにうなった。入り乱れた戦場の喧騒、闘争心、それらが少しずつひとつに固まり、再びこちらに向けられてゆく。そんな空気を感じ取った。京極隊が戦線から離脱したことにより、むしろ藤堂隊が動きやすくなったのだろう。
「さて、ここからが踏ん張りどころだ。」
勢いを殺してはいけない、直感した吉継は攻撃の指示を出し続けた。京極を退けた勢いのまま、藤堂に向かうのが現状最良の策である。確かな自信と手ごたえをその手に宿した大谷隊の軍勢は怒涛の勢いで藤堂隊に向かっていく。
大谷隊が藤堂隊と戦闘を展開しているころ、同じくして、4箇所で戦闘が行われていた。三成率いる石田隊は黒田長政、細川忠興、加藤嘉明といった武断派大名達による集中攻撃を受けていた。その数およそ一万五千と石田隊の倍以上の兵力である。しかし石田隊は鉄砲隊による激しい反撃と、猛将島左近が率いる優秀な兵達の抵抗でこれを凌いでいた。また西軍の最前線に構えていた小西行長率いる小西隊は自慢の鉄砲隊を始めとした火薬武器を活用し、田中吉政、筒井定次、織田長益らの軍勢と張り合っていた。一方で西軍最大兵力を誇る「五大老」宇喜多秀家は福島正則や井伊直政といった数々の死線を潜り抜けて生きた猛者と激戦を展開し、これを押し戻している。このように戦いに参加している西軍諸将の働きは目覚ましかった。家康率いる徳川本隊こそ動いてはいなかったが、西軍もかなりの兵力を残していた。今だ動かないこれらの軍勢が動けば西軍の勝利は目前である。
だが。
(やはり動かぬか…。)
戦況を聞いて吉継は不安に襲われた。「やはり」というのは彼がもとより恐れていたことであったからだ。今動いている軍勢は西軍の部隊の中でもかなり士気が高い部隊ばかりだ。しかし、それ以外の部隊は全くと言っていいほど動きが見られない。島津は周囲が戦いの喧騒に呑まれるなか、一貫して不動の姿勢だ。南宮山の毛利軍も動かず、これにより近くに構える長宗我部、安国寺、長束も身動きをとれていない。そして大谷隊の近く、松尾山の小早川秀秋も依然として戦いを傍観している。東軍をとりかむような西軍の布陣が全く活用されていない。どうやら西軍の綻びは予想以上に大きいものであったらしい。
「小早川の餓鬼はどうでるかわからん。横の備えは万全にしておけ。」
戦前に吉継は家臣にそう伝えていた。この戦、西軍の結束がひどく脆いものであるとはわかりきっていた。味方に対しても一定の備えは必要だろう。
(どうやら備えていて正解だったらしい…。)
さきほど小早川の陣へ出陣を促す使いを出した。三成も総攻撃ののろしを上げているらしい。しかし一向に動く気配はない。もう小早川は戦力として考えない方がよさそうである。
小早川秀秋はまだ二十一の色の白い細身の男だ。秀吉の親戚にあたるが、どうもこの戦には乗り気ではないようだ。
(このまま他の軍勢が動かねば勝ち目はないぞ。)
東軍とて家康率いる三万の大部隊が今だ温存されたままだった。この軍勢が動けば西軍はただでは済まない。
(…ともかく今は目の前の戦いに集中せねば。)
不安は頭の隅に懸案事項として残しながらも、目の前の藤堂隊を撃破すべく、吉継は掛け声とともに軍配をふるい続けた。
その時である。
突如東軍の軍勢より小早川隊へ鉄砲隊による一斉射撃が行われた。ここで流れは一気に変わった。小早川隊が動き出したのである。軍勢は松尾山を下り、まっすぐに大谷隊へ向かってきた。
「…小早川が寝返りましたぞ。」
「そのようだな。金吾め、内府に急かされ慌てて降りて来たな。」
家康は気の長い男ではない。おそらく一向に動こうとしない小早川に業を煮やしたのであろう。弱気な秀秋はすぐに寝返った。戦の前から内約が交わされていたのに違いない。
(ともかく、この軍をどう相手にするか。)
小早川は一万五千の部隊だ。対して大谷隊は与力も含めて四千足らず。かなり厳しい状況に置かれた。
(ここがわしの腕の見せ所といった所か)
まだ遠くだが、じわじわと近づいてくる大群。目の前には藤堂隊。この過酷な状況をいかにいて乗り越えるのか、それこそ吉継に与えられた使命であり、天が与えた最大の見せ場に思えた。
不思議と高揚感を覚える。血が騒ぐとでも言おうか、吉継は己の力を存分に発揮できる状況に満足さえしていた。
「松尾山の道は狭い。いかに大勢とはいえ狭い場所では逆に不利だ。そこを攻めよ。」
小早川対策として予め配置されていた兵は素早く反応し、下ってくる小早川勢を攻撃した。吉継の読み通り、松尾山の山道を下る小早川軍の動きは鈍く、予想以上の速さで反撃をしてきた大谷隊に押されるばかりであった。
この間も依然として激しく攻めたてる藤堂隊に対しても吉継以下全兵士は一歩も引かず戦いを続けた。だが、さすがにこの戦力差では如何ともしがたく、大谷隊は徐々に疲弊し、押され始めるようになってきた。
「まだだ、諦めるな!裏切者の金吾めの首を必ず獲るのだ!」
輿の上から吉継は叫んだ。その声はあくまで力強く恐れを知らなかった。
この激により大谷隊は活力を取り戻した。再び小早川、藤堂両軍を相手どり、激戦を展開した。大谷隊の激しい攻撃を受け続けた藤堂隊は後退を始めている。
そんな中吉継の耳に伝令が届く。
「赤松、朽木、脇坂、小川の各隊がこちらへ攻めて来ております」
「何だと?」
ここに来てさらなる寝返りである。西軍の結束がここまで脆いものだったとは。吉継の読みは甘かった。いや、最早事前に察知したとてどうにかできる問題ですらなかったかもしれない。
「…これはまずいですな。」
五助の声にも緊張の色が交じる。
(…これは負けか。)
吉継はすぐに悟った。こればかりはどうしようもない。大谷隊は今や敵軍に囲まれ、いつ壊滅してもおかしくない状況である。
「…五助。」
「はっ」
「我が首、決して誰にも渡してくれるな。」
「承知仕りました。」
「すまぬ、佐吉。わしはここまでだ。」
吉継は周囲を守っていた兵達と陣まで引き下がった。敵軍はもうすぐそこまで迫っていた。
吉継はあたりを見回した。無論なにも見えない。だが、吉継を信じてここまで戦い抜いてきた武士たちの息遣いを確かに感じ取った。
「わしはここらで腹を切ろう。おぬし達も後は好きなようにせよ。」
吉継は静かに告げた。居並ぶ兵士達は息を呑む。
「…我々は小早川秀秋の首を獲りに参ります。」
「最後の一兵となるまで決して引きませぬ。」
「殿、あの世でまたお会いいたしましょう。」
兵士たちは口々にこういった。彼らは生よりも誇りを選んだのだ。吉継が三成との友情を選んだように。
「…ならばわしにできるのはお前たちを見送ることだけだ。だがわしは目が見えぬ。一人一人名前を名乗ってから行ってくれ。」
そして、兵士は一人また一人と吉継に今生の別れをし、死地へと立っていた。
彼らの戦いぶりは凄まじいものであった。攻め寄せてくる小早川勢に猛烈な突撃を仕掛け、敵軍を蹴散らしていった。死を覚悟した兵士は失うものがない。いかに歴戦の兵とは言え、保身のために寝返った小早川の兵士は勢いに押され次々と屍となっていた。やがて、大谷隊の最期の一人が倒れたとき、大谷隊の屍は悉く小早川本陣へと向いていたという。 その凄まじい戦いぶりは後々まで小早川秀秋の記憶に深く残り、ついには彼の命を縮めることにまで発展する。
陣には吉継と五助のみが残っていた。
「五助、介錯を頼む。」
「御意。」
吉継は鎧を脱ぎ、上半身を露わにした。
「肌寒いな。先刻までは暑いぐらいだったが。」
「やはりもう秋でございますな。葉の色も日ごとに変わってきております。」
「そうか。紅葉が見れぬのは残念だ。病んだこの体が憎いわ。…だが、この体でもここまでやれたのだ。あの世で太閤殿下のお叱りをうけることはあるまい。」
(おぬしに百万の兵を与えてみたいものよ。)
脳裏をよぎったのは秀吉の言葉だ。今やずいぶん前のことである。
(佐吉は頭ばっかりで不器用な男だ。紀之介がしっかり見張っとけえ)
これはもっと古い記憶だ。秀吉はまだ若々しく、遠くに映る三成は生意気盛りの少年のような表情をしている。
(秀吉様…佐吉の面倒ばかりは最後まで見きれませなんだ。)
小さく笑った。敵軍の声が近づいてくる。
「…さて、昔のように太閤殿下の近習でも務めに参るか。」
短刀を手に取り吉継は、五助へ肯いて見せる。
「殿の首は決して誰にも与えませぬ。決して。」
「うむ、頼んだぞ。五助、さらばだ。」
「御免!」
大谷吉継は関ケ原に散った。終わってみれば戦は西軍の惨敗だった。手柄を求め、多くの兵が吉継の首を探した。だが、結局首が見つかることはなかった。
吉継と激戦を繰り広げた藤堂隊の武将に藤堂高刑という男がいる。彼だけは吉継の首が埋められた場所を知っていた。
彼は五助が吉継の首を埋めているところを目撃していた。
「主君の首は何人にも渡すなと命を受けている。拙者の首で勘弁して頂けぬか。」
彼を見た五助はそう言った。最早五助に抵抗の意思はない。しかし主君の最期の命令だけは譲れない。高刑を見据えるその目はそれを雄弁に語っていた。
「…わかった。大谷殿の首の在処は決して口外せぬ。安心されよ。」
「かたじけない。」
五助もまた主君のもとへ向かった。
戦後、高刑は主君高虎にも、家康にさえも吉継の首の在処を教えなかったという。
激戦の気配は遥か彼方へ退き、関ケ原は静寂に包まれていた。藤堂高刑は一人吉継と五助の最期の地にいた。そこには藤堂家によって建てられた五輪塔がひっそりと佇んでいる。
「秋ももう終わりか…。」
よく冷えた風が辺りの樹木をざわつかせる。飛ばされて舞う一枚の葉は炎のように赤く、五輪塔の上へと静かに落ちた。