へっぽこ使い魔
迎えた学園祭当日、シンシアは自分の出番を待っていた。今、会場ではリリエナの召喚した使い魔が竪琴と歌で会場を魅了している。
「大丈夫。落ち着いて、シンシア」
シンシアは泣きそうになりそうな気持を深呼吸でなだめた。一日で劇的に何かが変わるわけがない。ライを召喚できるのもこれが最後なのかもしれないのだ。せっかくなのだから、笑顔で会いたい。
絵本がきっかけで開いた召喚魔法の書物は、あれからシンシアを夢中にさせた。そのまま将来の夢が召喚士になって、この学園に入った。
それなのに、自分が召喚した使い魔に心を奪われてしまったなんて、なんて馬鹿なのだろうと思う。
出番がやってきて、シンシアは会場の中央に進む。杖を前に突き出し召喚魔法を使った。シンシアを中心に精緻な魔法陣が現れる。自慢ではないが、魔法陣にかけては先生も絶賛の緻密さと美しさだ。なのに、なぜライしか呼び出せないのか先生もシンシアも不思議だった。
やがて魔法陣の中央からライが姿を現す。ここまでは笑ってしまうくらいのいつも通りだ。後はライが失敗せずに魔法を見せられれば、ライが魔法を使えるようにシンシアが魔力で補助できればいい。
シンシアはライが魔力を吸えるよう、いつも通りに手を差し出した。
ところが膝を着いたライはシンシアの手をとったまま口付けない。じっと金の瞳でシンシアを見上げている。
「何やってるの? ライ。早くしないと魔法陣の効力が……」
「名前を呼んではくれないの?」
シンシアは瞬きをしてから、思い出した。そういえば前の召喚の時に言っていた。同時に耳元でささやかれた感触を思い出して赤面する。
「き、聞き取れなかったのよ。それより魔法を見せなくちゃ、うまくいかなかったら私……」
ぐいと手を引かれて気が付くと目の前にライの顔があった。腕の中に閉じ込められているのだと遅れて理解する。
「ライ、どうしたの?」
驚いて胸を押したがびくともしない。普段と違う使い魔の様子にシンシアは焦った。
「俺を望んではくれないのか。覚悟は決められないのか。俺は、シンシアとなら同じ時間を過ごせる。全てを捧げられるのに」
いつもの泣きそうな瞳ではなく、真剣な熱っぽい金色が燃えていて、シンシアは初めてライを怖いと思った。
違う、初めてではない。ライのこの瞳を見たことがある。どこで見たのだろう。
……イヴォ……ト。
遠く、誰かの名前がこだまする。誰の名前だっただろう。確か。
ライヴ……ルト。
記憶に引っかかっていたものを手繰り寄せた途端、シンシアの中で鮮明に再生された。
湖で出会った男の人は、名前を聞いたシンシアへ困ったように答えた。
「俺の名はライヴォルト。そうだね、またいつか出会うことがあれば名前を呼んでくれると嬉しいな。ただし」
あの日のライは眉尻を下げ、少し切ない表情でシンシアの頭を撫でてから続けた。
「俺の名を呼ぶときは覚悟するといい。名前を呼ばれたなら俺は俺の全てを君に捧げる。代わりに君は」
膝をつき、目線を幼いシンシアに合わせた。光る金色の瞳にからめとられたシンシアは、あの時のライの瞳を怖いと思った。
「君の全てを俺に捧げなきゃならない。だから安易に俺の名を呼ばないで」
顔をこわばらせるシンシアの手を取り、ライが口づける。
「俺の名はその時が来るまで忘れているといい」
そこでびりっと電流が走って、記憶があいまいになったのだ。
あの時ライは覚悟をして呼べと言った。金の瞳を怖いと思った。どうして怖いと思ったのか、今ならとてもよく分かる。今も同じ理由で怖いからだ。
恋というものは怖い。一度落ちたら後戻りできないような、自分が作り変わってしまうような気がする。
思い出したシンシアが金の瞳を見つめ返と、苦しそうに歪んだ。
「ごめん、変なことを言って。俺、頑張って魔法を成功させてみせるから」
「待って」
シンシアの背中に回していた手をどけて、立ち上がろうとするライの頬へ、シンシアは手を当てた。
恋というものは怖い。ぎゅっと締め付けられて縛られてがんじがらめになってしまう。その人のことで頭がいっぱいになって、切なくて、苦しい。
けれど恋というものは温かい。見える景色が色づいたように思えて、楽しくて。その人のことを考える心が浮き立ってとても幸せで、甘い。
覚悟なんて、決めるまでもない。
家に戻って縁談を受けなければならないと言われたとき、シンシアの心を占めたのは、召喚士の夢が消える悲しさよりも、ライと会えなくなる辛さだった。
「ライヴォルト」
シンシアは呼ぶ。目の前の愛する男の名を。
ライヴォルトの金の瞳が驚きに見開かれ、それから嬉しそうに細められた。
「呼んだね。俺の名前」
シンシアがしているのと同じように、ライヴォルトがシンシアの頬に手を添えて顔を寄せた。
「俺の全ては君のものだ。その代わり君の全てをもらうよ」
ライヴォルトの唇がシンシアの唇に重なる。それは決して激しくはないのに、熱くて、蕩けるようなキスで。体の芯までぼうっとして、力が抜けたシンシアをライヴォルトが抱き上げた。
「わっ、ライ」
お姫様のように横抱きにされて、立ち上がったライヴォルトの首へシンシアは慌ててしがみついた。急に立ち上がったものだから、落ちるかと思ったのだ。
「悪い、あんまり嬉しくてつい吸い取り過ぎた。俺にもたれてて」
力が抜けたと思ったら、魔力を吸われたからだったらしい。言われた通りに体の力を抜いてライヴォルトの首筋に顔をうずめると、強く抱きしめられた。
「参ったな。あんまり可愛いすぎるよ」
本当に困ったような声のライヴォルトを、シンシアは目だけで見上げた。うっとたじろいだライヴォルトに、額へキスを落とされ「後で」とささやかれる。
一気に耳まで熱くなったシンシアは、自分を抱く男の体に顔を押し付けた。
「ちょっとばかり派手にやるよ」
ライヴォルトの楽しそうな声が上から降ってきて、ふわっと髪や服が宙に舞う。シンシアのふわふわとした髪も勝手に上がって、大気がチリチリと小さく音をたてた。
「えっ? えっ? えええ?」
今までと明らかに違う魔法の兆候に、軽くパニックになったシンシアがライヴォルトにしがみつく。
ライヴォルトは金の瞳を爛々と輝かせ、一声叫んだ。
「トニトルス!」
直後、轟音と閃光が会場をつんざいた。
シンシアは唖然として、目の前の光景を見つめた。
何重にも防御魔法が施された床が焼け焦げて、煙を上げている。何年か前に、火竜のブレスにも耐えたという先生方渾身の防御魔法が、いとも簡単に破られたのだ。
「だから加減が難しいって言っただろ?」
見上げると、いたずらっぽく笑っているライヴォルトの横顔は、見たこともない男の顔で。
一体何と契約を交わしてしまったのだろうと、シンシアは今さらながら思った。
出番を終えた会場横のの控え室で、仁王立ちの少女の前へ、少年が正座していた。
控え室には二人の姿以外に誰もいない。あれから上を下への大騒ぎで、今も会場内は事態の収拾に追われている。
「あんな凄い魔法が使えるのに、今までは何だったのよぉっ」
杖を持ったまま腕組みをして説教をする少女は涙目だ。ついでに言うと、顔も耳も、首筋まで赤い。
なにせよくよく考えると観客が見守る会場のど真ん中で、契約とはいえキスをしたのだ。シンシアは顔から火が出る思いだった。
「えへへ、加減が難しくて」
正座で説教を食らう少年は反対に上機嫌だ。
「それにほら、名前を呼んでもらってないのに俺が本気で魔力吸ったら、シンシアがもたないし」
「やっぱり私の魔力量が少なかったから」
「あっ、違う違う。前にも言っただろ。俺の魔力消費量が半端ないんだよ。シンシアの魔力量は人より多いし、質もいい」
しゅんとするシンシアを慌ててライが取りなした。
「じゃあ、魔法陣がまずかったのかな」
「それも違う。シンシアの魔法陣ほど惚れ惚れする魔法陣はないよ」
シンシアの浮かべた涙を拭おうと、伸ばしたライの腕を掴まえる。
「待って。じゃあ何でライ以外の使い魔の召喚に成功しなかったの」
腕を掴まれたライが思いきり目を逸らした。シンシアの目が据わる。
「ライ?」
とがめるように睨むと、逆に開き直ったライがシンシアの手を握り返した。怖いくらい綺麗な金の瞳が間近に迫る。
「だって、他の奴にシンシアを取られるなんて我慢できない」
その瞳はずるい。怖くて、鋭くて、優しくて、切ない。捕らわれたなら、離れられない。
「誰も召喚しないで、普通の人間と添い遂げるなら、悲しいけれど俺は身を引こうと思った。なのに、君に縁談がきてるって聞いたら、もう無理だった」
いつの間にやらライの腕の中で、シンシアは息が止まるほど強く抱き締められていた。
「あの日、幼い君をみた時から、俺は捕らわれたんだ。君も俺に捕らわれてほしかった。けど君はまだ幼かったし、人間だ」
抱き締める手を弛め、ライはシンシアのふわふわとした髪をすいた。
「召喚魔法を使った時、すぐに君だと分かった。あの時の魔力と同じ甘い匂いがしたから」
幼いシンシアが適当だけれど想いを込めて歌った旋律は、偶然にも召喚魔法に似た波動を生んで、ライたちの世界に干渉したらしい。
魔力に釣られ、異界に姿を表したライが出会った少女はあまりに幼く、無垢だった。騙し討ちのように契約を結ぶのは、流石にためらった。
いつか正式な手順を踏んで自分を呼んでくれたなら、そう願いを込めて名前を教えたが、念のために記憶を封じた。もう一度自分と会えば解けるように調整して。
シンシアがライのような異界の存在とは交わらない、普通の生活を送るかもしれないからだ。
だからシンシアが初めて召喚魔法を使ったとき、ライヴォルトは歓喜した。早く自分を召喚してくれと、はやる心を抑えて待った。
「ちゃんと手順を踏んで召喚魔法を使ったのに、なかなか俺を召喚してくれないから凄くやきもきした」
シンシアの魔力に釣られた他の使い魔は、召喚前にライが一睨みで退散させた。ようやく召喚してもらえたと思ったら、シンシアはライのことを覚えていなかった。
忘却の魔法をかけたのだから仕方がないと自分に言い聞かせ、シンシアが思い出すのを待った。会えば解けるようにした筈なのに、一向に思い出してくれないわ、シンシアに縁談が来ているわで、散々焦らされた。
「俺の魔法は半端ない魔力を食うから、シンシアに無理をさせたくなくて、指先から少しだけもらってたんだ」
奪い尽くしたい衝動をずっと我慢していた。ライはシンシアの髪を一房手に取って口付ける。シンシアの香りがライの鼻腔に広がり、首筋がほんのり色付くのが見えた。
「真実の名を呼んでくれると効率がよくなるから、たくさん魔力をもらわなくてもすむ。時間切れになって戻らなくちゃならないこともない。それに」
髪に口付けたまま、いたずらっぽく見上げれば、シンシアはやはりもみじのように真っ赤で。
「深く捧げあう行為は、より効率よく魔力をもらえるんだ」
もっと反応が見たくて、ライはシンシアのあごに手を添え、上を向かせる。
「ラ、ララ、ライッ」
案の定、ライの意味深なセリフにシンシアはこれ以上ないくらいに赤く染めて、涙に潤んだ紫の瞳を向けてきた。ライが捕らわれた大きくて丸い、紫の瞳。ぞくりとする。
「後でって言ったよね」
可愛いシンシア。愛しくて、大切で、身を切られるほどに欲しくてたまらなかった彼女が今、ライの腕の中にいる。
「君に俺の全てをあげる。代わりに君の全てを俺に頂戴」
紫の瞳が不安そうに揺れる。小さな手がライの服をぎゅっと掴んだ。
庇護欲をそそるその行為が、ライの心を急かそうとする。返事なんていらない。今すぐに全部奪いさってしまいたい。
待て、抑えろと己に言い聞かす。ここまで待ったことを自分で台無しにするなんて馬鹿げている。
シンシアは恥ずかしそうに、けれど確かな熱を込めた声で言った。
「はい」
返事を聞いたか聞かないかで、ライはシンシアの唇を奪っていた。もう待たなくていい。熱を持て余さなくていい。
「シンシア」
シンシアはぼんやりと金色の瞳を見つめ返した。
甘くかすれた男の声、広い胸と背中に回された力強い腕から伝わる熱と、匂いに蕩かされる。
「好きです。ライヴォルト」
金の瞳に浮かぶ光は、いつもより綺麗で獰猛で、やはり怖い。怖いけれど、この瞳を向けられるのは自分だけなのだと思うと、震えるほど嬉しい。
恋は怖い。自分の全てを作り変えられてしまう。ぐずぐずに蕩かされて形を無くして、また新たな自分を形作るのだ。
破壊と再生。甘さと苦さ。愛しさと切なさ。怖いくらい安心できる金の檻になら囚われてもいい。そう思うから。
「私の全てをあげる。だから貴方の全てを下さい」
シンシアは男の背中に腕を回して胸に頬を寄せ、その身の全てを預けた。
この後、雷の精霊王ライヴォルトは、精霊としての永遠の命と地位を捨て、その力を一人の女の為だけに振るう。
シンシア・フォーンズ。精霊王を使い魔として契約を結んだ稀代の召喚士として名を馳せた彼女は、200歳を越える長命を誇ったことでも有名である。
契約を交わした当時の少女の姿のまま、息を引き取る時まで傍らには少年が寄り添っていたという。