Szene1-1 その生徒、黒のセーラー服を脱ぐ
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すみません……
「————だれかっ、誰か!! ……んでっ、誰もいないのよぉ゛……っ!!」
狭い廊下を転がるように走り抜けて、目の前にあった部屋に確認もせずに飛び込んだ。そのまま後ろ手にドアノブを掴み鍵を閉めた所で気が抜けて、その場にへたり込む。
そこでずっと聞いていた。
誰かが走る音を。
友人の助けを呼ぶ声を。
遠くから聞こえる絶叫を。
そして、何も聞こえなくなるのを。
そこにじっと蹲って、ただただ聞いていた。
歯の根は合わず、カチカチと耳障りな音を鳴らす。
しばしば口から漏れるのは『なんで』という疑問を呈する言葉のみ。その後に続けるはずの言葉すら満足に綴れない。
自分達はほんの数十分前には楽しく酒を飲んでいたのだ。
それが何故こんなことに。
始まりは呑みながら仲間の一人がホラースポットの話を始めたことだった。
曰く、近くに幽霊の出る廃屋が有るらしい、と。
それを聞いた仲間の誰かが言ってみようと言い出したのだ。『肝試しに丁度いいじゃん。夏ももうすぐ終わりだし』と面白がって。
皆酔いが回っていたこともあり誰も反対することはなかった。そういう経緯があってこの廃屋へやって来た時には、すでに日付が変わるような時間だった。
そして、裏手の窓から中へと入ったところまでは良かったのだ。
部屋の奥の暗がりに潜むそれを見つけるまでは。
それは、話通りの幽霊ではなかった。
そんな生易しいものではない。
獣のようでいて、獣よりももっと悍ましい何か。
それは四つん這いになって床を這いずりながら現れ、そして一番端にいた友人の足を掴んで消えた。
友人の悲鳴と共に。
その場が恐怖に侵されたのは言うまでもない。だれもが正しい事態を理解できず、できないままに一人、また一人と友人の姿が消え、残りが元いた半分の数になった時ようやく誰かが逃げようと叫んだ。
仲間を見捨てるのかと他の誰かが言った時、また一人が消えた。
この時皆の意見は一つになったのだろう。というよりそれ以外に余地はなかった。
連れていかれた友人の安否を気にしている場合ではない、こうしているうちに全滅もありうる、と考えることしか。
自分達にできる最善は外に出て助けを求めること。自分達だけでどうにかできる状況はとうに過ぎているように思えた。
しかし、入ってきたはずの窓は見つからず、開かない窓ばかりで割ろうとしても全くビクともしなかった。
それから逃げるうちに自分達は次第に散り散りになった。外から見た限りではそんなに大きな家では無かったはず。だが現実では友人の姿はもはや見当たらず、遠くに存在を感じるのみ。
それも今やない。
無音となったこの廃屋で友人達の無事を確かめる術はない。
その時不意に何か違和感を感じた。
何かに見られているような、そんな得体の知れない感覚。
耳を囲っていた腕を離し、そっと辺りを窺う。
自分がいるのは六畳程度の小さな部屋だ。元は書斎だったのだろうか、部屋に窓はなく本棚と机があるのみで誰かの隠れるようなスペースなどない。
誰かに見られているなんてあり得るはずがない。
あり得るはずがないのだからと、背後にある戸を見上げる。そこを確認して「やっぱり気のせいだった」と安堵したかったのだ。
果たして、見上げた先を見つめて目を丸くする。
そのドアにガラスがはめ込まれていることに今気付いたのだ。
ガラスの向こうに見えるそれのせいで。
いつからそこにいたのか。
時が止まるような感覚。自身の感覚が外界から切り離されるのが分かる。
いつから、などという疑問は意味を成さない。ただあるのは見つかってしまったという恐怖のみ。
——それは、ドアのガラス越しから自分のことを見下ろしていたのだ。ずっと、獲物の怯える様を眺めて——
お互いの視線が絡みあった刹那、それは口の端を釣り上げた。
「……い、やああああああああ!!!」
叫ぶのと同時にドアが開け放たれた。
鍵はそれに対して何の意味を成さなかった。ほんの少しの時間すらも稼いではくれなかった。
逃げようにも逃げ場などない。せいぜい、四つん這いで部屋の隅に逃げ込んで壁を背に縮こまることしかできない。
『……し……る、にが…な……』
「……ひぁっ……は、ぁ、ああぁぁぁぁ……!!!」
足は動かず、声も満足に出せない。
それがゆっくりと近付いて来るのをただ見ていることしかできない。
自分はどうなってしまうのか、未知が恐怖を更に煽る。恐怖が臨界点を突破しようとした時、漸く声が出た。
しかし、絞り出せたのは「たす……け、て」という誰に届くこともないような掠れた声。
その願いは誰にも届かず掻き消される——
かと思われた。
「——それがあなたの願い?」
状況にそぐわぬ声だと思った。
涼やかで凛とした、無垢な声。誰にも遮ることを許さないそんな声。
自分に迫るそれが出したのかと一瞬思ったが、あれの声はそんな綺麗なものではない。こんな負の感情を覚えたこともないような声はあれには出せない。
なら、誰が。
振り向こうとして視界の中に一点の黒が写り込んでいるのに気が付く。
薄暗い室内で、インクを落としたかのようにそこだけが黒い。
それがゆらりと動けば、底抜けに白い肌が現れた。
それが瞼を開けば、黒曜石よりも黒い瞳が現れた。
それは真っ直ぐに、他でもない自分の瞳に向けられていた。
「助けてほしい?」
黒い女は小首を傾げてそう訊ねた。
室内にいるそれの存在に気付いていないのかと思うほどの無関心さで。
それが気に食わなかったのか、それは標的を黒い女に変え向かって行く。
気付けば声を上げていた。
たすけて、と。
「その願い、」
黒い女が手を動かすと赤い棒のようなものが現れた。
いや、赤よりも鮮やかで血のようなそれは紅い——
「叶えてあげる」
同時に彼女は手を振り上げる。
鮮烈な紅が彼女に迫るそれを切り裂く。
切られたそれは塵になって、広がって。
理解力の限界を超えたそこで、自身の意識は暗転した。
◇◇◇
「なぁなぁ知っとる?」
「何をー?」
「『コウトウさん』の話」
「? 何それ、知らん」
「あー、知ってるかも。あれっしょ? 黒尽くめの女の話でしょ」
「それそれ! 『コウトウさん』言うんはリナの言った通りの全身黒尽くめの女でな、気付いた時には背後におんねん」
「え゛、怖い話だったん……? やめぇや! 怖い話苦手って知ってるやろ」
「ちゃうちゃう怖いことないわ! 『コウトウさん』に出会えた人はごっつい幸運持ちなんやて! な! リナ!」
「確か……願い事を叶えてくれるんだったかなんだかしてくれるんやなかった? 知らんけど」
「せや! 一個だけやけど、何でも叶えてくれるらしい」
「えーー!! めっちゃ会いたいわ、そんな人おるんなら! 恋人作りたい放題やん!」
「一個だけって言っとるやろ」
「恋人恋人って、マナミはいっつもそれやな」
「いいやんか、別に。人の勝手やろ!」
そんな会話をしながら目の前を中学生達が横切って行く。
高い声は聞こうと思わずとも勝手に耳に入ってくるものだ。煩わしいと思うこともあるが、今はどちらかといえば「若い子は元気だなぁー」と気分は老人である。
彼女達の会話を聞いていたのだろう。隣の男子高校生達が「今の話知っとるか?」とか何とか言っているのが聞こえた。
「こうやって噂って広まって行くのか……」
都市伝説の発端を見た気がする。
生まれたなんとも言えない感動に似た、けれど全く異なるものを消化していると信号機のメーターが残り一つになっていた。
「…………せめて正しい情報を広めてくれないかなぁ」
そこで溜息を一つ。
自分のことが変な名前で呼ばれているだけでもこそばゆいというのに、『どんな願いでも一つ叶えてくれる』とかいうお手軽神様みたいな存在にされてしまうのは羞恥を通り越して嫌悪すら感じる。
自分こそが彼らの言う『コウトウさん』の正体だとバレていないとはいえ、だ。
そんな風に他のことに気を取られた頭でも信号の色は常に把握している。向かいの信号が赤に変わり、足を踏み出すタイミングを見計らい始める——と、そんな折だった。
背後に誰かが立ったのは。
振り返るよりも早く肩に手が置かれる。
「此度もわしの勝ちじゃのぅ」
肩に置かれた手から人差し指が伸びていた。それは当然の如く頬の肉を潰している。
こんなことをする知り合いは一人しかいない。
振り向き背後を仰ぎみれば想像した通りの女がいた。
「……天様」
「ご機嫌いかがかな、姫君よ」
「何やってるんですか、こんな所で」
「見ての通り、油を売っておる」
「…………またそうやって勝手に持ち出して」
「似合っておろう?」
「……似合っているから困るんですよ」
彼女の焦げ茶色の頭の上では、これまた焦げ茶色の耳がピクリピクリと動いている——どうやら似合ってると言われたのが嬉しいらしい。
そう、彼女の頭には耳がついている。人間のものではなく獣のそれだ。
「返せと言い辛じゃないですか……」
「そんなに褒めるでないっ、照れるであろう」
「返してください今すぐに」
「殺生な!」
天に物申すのは彼女の服装についてだ。
彼女が着ているのは黒のセーラー服だ。
黒襟に引かれた三本の白いラインに赤色のスカーフと、どこまで見ても自身の着るものと違いがない。
ここまで言えば分かるだろう。
彼女が着ているのは通う高校の、詳細に言えば自宅にあるはずの予備の制服である。
「私の記憶が確かなら、ダンボールに詰めたはずなんですが」
そして、部屋の襖の中の奥深くに確かに突っ込んだはずだと自分の記憶を思い起こす。
ダンボールに詰めたのは今朝のことだ。流石にほんの数時間前のことを忘れたりなんかしない。
「大体どうやって毎回忍び込んでるんですか? うちの家、ちょっとばかりキツめの結界張ってあるはずなのですが」
「なぁに、先先代と取引をな」
「お祖父様……」
自室に天を招き入れた犯人が自分の手に負えない人物であることを悟り天を仰げば、信号が赤色になるのが見えた。
散々である。
「どうせもう使わないのだろう? ならいいではないか」
「……耳の早いことで」
「鬼一から聞いたのよ。彼奴かなり凹んでおったわ」
そういえばと鬼一様に報告に行った時のことを思い返す。あの日はやけに大人しかった。あれは落ち込んでいたからなのかと今更ながら得心した。
「とまぁそんなわけで奴から話を聞いたのだが……其方が遠くへ行くというのなら、もうこの制服は必要あるまい? それならば私が戴いたところで問題はないはずだ」
「え、その制服をですか?」
「この服を儂が気に入ってるのは知っておろう?」
天はその場でくるりと回ってみせる。黒いプリーツがふわりと広がる様を見ては笑顔になってスカートの裾を持ち上げる彼女は、まるで子供のような表情をしていた。
スカートを綺麗に広がらせるのが楽しいらしい。
だから頻りに着たがったのかと、この数ヶ月の天の行動が腑に落ちる。
確かに天は色白で、黒の制服とそこから伸びるすらりとした手足の白とのコントラストは素晴らしいの一言に尽きる。
天の顔立ちは少女とは言えないが、未だ若々しい彼女にセーラー服が似合わないとは嘘でも言えない。寧ろとてもよく似合っている。
「それが貴女の願いですか?」
「これはただのお強請りぞ。慈悲深き姫君に甘えた、な」
「狡いかわし方ですね」
「長く生きていると小狡くなるものよ」
「……また必要になった時には返すと約束してくださるのであれば、お貸しするのも吝かではないですが如何致します?」
奪い返すことは早々に諦めて、妥協案を口にする。それを聞いた天は不満げに唇を尖らせた。
「なんだ、くれないのか」
ケチめ、という心の声が透けているのが彼女は分かっているのだろうか。そして、彼女の頭についた茶色の獣の耳が若干垂れていることにも気づいているのだろうか。
その耳はよく見る犬でもなければ猫でもない。狐狸の類でもない。しかし、何かと問われれば黙るしかない。見慣れないものであるのは確かである。
よく分からない耳だが以前無礼にも触らせて頂いた時、その耳の気持ちよさに骨抜きにされていた。とても柔らかいのである。それはもう、ずっと手慰にしたいほどに。
「遠くへ行くというのに儂には伝えず、選別の品も無しとは……十分薄情じゃの」
「……どこにいらっしゃるか分からないので言いに行けなかったのですよ」
「あんなに可愛がってやったというのに……本当に非道い奴じゃ」
「……ほんとずるい方ですね」
だけれども憎めない、そんな愛嬌が天にはある。
深い溜息をつく。ついでに鬱憤も吐き出す。
気を取り直すと「仕方がないので」と口を開いた。
「どうぞ持って行ってくださいな、確かに使うことはないでしょうし。まだもう一着はありますからね」
「ほんとうか! 破ったら承知せぬからなっ!」
「破りませんよ」
ころっと機嫌をよくする天に苦笑する。彼女の萎れていた耳も同時にぴんと立ち上がる。
気を抜けば、勝手に天の耳を触ろうとする腕を反対の腕で上から押さえて戒める。
なんてあざと可愛い耳なんだと内心で悶えた。
しかし、それを愛でる時間はもうほぼ無い。
「……そろそろ帰らないと」
そのように呟いてから天の方へ顔を向けた。
「天様は帰らないので?」
「姫君がどこへ行くのか教えてくれたら帰ろうか」
「あれ……言ってませんでしたっけ?」
「知らぬぞ」
本当は知っていた。どこへ行くのか伝えていないことは。あまり言いたくないことだったため惚けただけだ。
天に押しかけられることを危惧してのことではない。単に行く先が気に入らず勝手に拗ねているだけのこと。
しかし、白状するまでは解放されないことを瞬時に悟り答えることを決める。
「……東京ですよ」
潔くとは言えない未練が、眉間に皺を寄せさせる。
天の「まことか!」という興奮の声が更に追い討ちをかけた。
「今や彼処は此処以上の妖魔入り乱れる魔境に成り果てたというではないか! そうかそうか、姫君は因縁怨念渦巻く魔都に征くというのか……こういう時に『おら、ワクワクすっぞ』と言うのじゃろう?」
「せめて心配してくれませんかね……しかもやけに似ている……」
「練習したからな!」
「無駄なことを……」
人の話を聞かない天は「土産話大いに期待しておるぞ!」と満面の笑みで言い放ってから翔びたった。
青い空に消えていく、そんな彼女の背中を見送った。
痛む眉間を揉みながら。
「人の不幸を面白がって……ったく、もう」
夏も終わる、そんな日のことだった。
似非関西弁でほんとすみません!
「許せない」って方いたら本場のを教えてください。
許してくれるって人でも知っていたら是非是非教えて欲しいです(´・ω・`)