小さくて幸せで、世界一不毛な私の恋の話
「ただいま」
優人が帰ってきた。私は、リビングでその声を聞く。
「おかえり」リビングに入ってきた優人を横目で見て、小さな声で答える。
「おお、今日は返事してくれるんだ、珍しいね。」
スーツを脱ぎながら、嬉しそうに優人が微笑む。
「いつもは返事なんてしないもんな。ほんと、そっけないし。」
その言葉を聞いて、私は優人に背を向けた。
私と優人は、二年ほど前から一緒に暮らしている。その始まりは、優人のおせっかいだった。
ある冬の寒い日、私は両親に捨てられた。捨てられたというよりは、置いて行かれた、という方が正しいのかもしれない。私の兄妹は三つ子だった。皆それぞれ両親に似て、顔は見分けがつかないほどそっくりだった。
私たちが生まれたとき、もう父はいなかった。母は、一人で三つ子を背負い、生きていかなくてはならなかった。厳しい社会の中で、母は懸命に育ててくれたと思う。だが、日々の食べ物にさえ困る生活に、疲れ果ててしまったのだろう。ある日、母は出かけたまま帰って来なかった。待てど暮らせど、母はもう私たちの前に現れなかった。取り残された私たちに、絶望が襲いかかる。私は兄妹の中で一番身体が大きくて、丈夫に育っていた。しかし、隣でみるみるやせ細っていく兄妹を、どうすることもできなかった。冷たくなってしまった兄妹を見て、私はこの世で独りぼっちになったのだ、と思った。無気力だった。一番丈夫に育った私にも、限界が来ることは分かっていたし、このまま彼らの後を追うのだろうと思っていた。
しかし、限界に達する前に、私はふと、街に出たのだった。何のためかは分からなかった。兄妹の後を追って死ぬ覚悟はできていたし、誰かに助けてもらいたかったわけでもない。極度の空腹に耐えかねた身体が、本能的に食べ物を求めて勝手に動いたのかもしれない。ふらふらと当てもなく彷徨う私を、人々は物珍しげに見ていた。でも誰も、声をかけてはこない。私があまりにも薄汚れていたからだろう。世間なんてこんなものか。こんな世界を独りぼっちで生きていくなんて、馬鹿げている。やはり私も、兄妹たちの側で静かに息絶えるのだ。そういう運命だったのだ。そう考えて、凍える街の中をふらふらしながら、元の場所に戻ろうと踵を返した。その時だった。
「君、大丈夫?」
優しくてあたたかい声が、背中から聞こえた。私はその声に、つい立ち止まってしまった。助けを求めるつもりはなかったし、無視して歩き続けることもできた。しかし、命の散り際に聞こえた、優しくて包み込むような声の持ち主を、少しだけ見てみたかった。
私が振り向くと、彼は心底心配そうな顔をして、私の方を見ていた。こんな顔で私のことを見る人は、この街にはいなかった。少なくとも、さっきまですれ違っていた人々の中には、一人として見つけられなかった。私は、初めて見る表情に、驚き、ひるんでしまった。その間に彼は自分の着ていた上着で私の身体を包み込み、風邪をひいたら大変だ、などと呟いた。そして、私の目をしっかりと見つめて言った。
「とりあえず、うちにおいで」
雪の降る、とても寒い日のことだった。
優人は、名前の通り、とても優しい人だ。ふわふわした黒髪に、やや垂れた優しい目を持っている。背は高いけれど身体は少し痩せていて、どこか頼りなくも見える。もう少し食べたらいいのに、と思うけれど、優しい彼は、自分より私に食べさせようとするのだった。おかげで私はみるみる成長し、空腹で死にかけていたことなどはるか昔のことのようだ。
兄妹たちは、優人が丁寧に埋葬してくれた。優人の家に来て二日後、少し元気になった私は、彼をその場所に連れ出したのだ。優人は物分りがよくて、黙って歩く私の後を静かについて来た。そして、冷たいままそこにいた兄妹たちを、静かに埋葬してくれたのだった。そして、
「つらかったね、でももう大丈夫、俺と一緒に暮らそう。」
と、私に言った。
「ユキ~ごはんだよ~」
優人の声で目を覚ました。うたたねをしていたようだ。優人はキッチンからリビングへとお皿を運んで来る。優人の家は決して広くはないが1LDKで、私と暮らすのに窮屈さは無いし、ちょうどいいと言っていた。私も、優人とのここでの生活は快適で、気に入っている。
優人も私も綺麗好きで、家の中はいつもきちんと片付いている。優しくて、綺麗好き。優人のそんなところが私は好きだ。
「明日、朱里が来るからね。」夕飯を食べながら、何気ない口調で優人が言った。
驚いて彼を見ると、少し恥ずかしそうに、でも嬉しそうに私を見ていた。
なによ、嬉しそうにしちゃって。
私は少し不機嫌になる。
朱里というのは、優人のことを狙っている女だ。会社の同僚らしく、前から度々うちに来る。栗色の髪を肩の辺りでゆらゆらさせて、いつもへらへら笑っている。初めて見た時からなんとなく気に入らなかったが、最近優人はその女の話ばかりするので、ますます気に入らなくなった。
だいたい、私と一緒に住んでいるのに、なんで他の女を家に上げるわけ?
でも、私にはそれを言う権利はなかった。だって私たちは、一緒に住んでいるだけだから。いくら私が、優人の綺麗好きで優しいところが好きだとして、優人も私のことを大切に思ってくれているとしても。ただの同居人である私たちの間に、男女の関係はない。
それが少しさみしいな、とも思う。赤の他人でありながら共に暮らす男女のことを、世間では夫婦とか、カップルなどと呼ぶ。彼らを結びつけるのは、互いを思う気持ちのみだ。薄くて、か細い、実態のないもの。そんな不安定なもので成り立つ関係を、人々は大切に守ろうとする。
それなら、と私は思う。私と優人の間にも、気持ちによる繋がりしかない。天地がひっくり返っても血縁関係なんてありはしないし、偶然出会っただけの相手。それで、お互いの気持ちが一致して、今一緒に暮らしている…。ほらね、やっぱり。この関係、カップルって呼んでもいいんじゃないの?こんな関係の私がいながら、他の女を家に上げようとしているのよ、アンタは。ねえ、それってやっぱりヘンじゃない?
恨みがましい視線に気が付いたのか、優人は慌てて私の機嫌を取ろうとする。
「ユキ、怒ってるのか?随分怖い顔してるぞ。大丈夫、朱里はユキがいても平気だって言ってたし、きっと仲良くなれるよ。」
もう、馬鹿!
優人は優しい。優しいけれど、鈍感だ。
優人のこういうところに、私はときどきいらいらする。
優人に抗議しようとしたが、気がつくと彼は夕飯を食べ終えて、食器をキッチンへと運んで行ってしまった。彼の後ろ姿を見ながら、私は虚しくなって、さっさと布団に向かった。
「ユキ、お邪魔するよ」
お風呂に入って、寝る準備をすっかり整えた優人が、私の横に潜り込んできた。いつのまにか眠っていた私は、優人が遠慮がちに布団に入ってくる気配で目を覚ました。
「朱里と仲良くするんだぞ」と言いながら、私の頭を優しく撫でる。
寝る直前にまで、他の女の名前出さないでよ。ほんと、無神経。
私がそんなことを考えているなんてつゆ知らず、優人は私の頭やおなかを撫で続ける。その手つきはいつも通り優しい。あまりにも気持ちが良くて、私は怒っていることも徐々にどうでもよくなって、優人の隣で深い眠りに吸い込まれていった。
翌日、優人が言っていた時間通りに、あの女がやってきた。相変わらず、栗色の髪の毛が、肩の辺りで揺れている。
「お邪魔します。」
そう言ってリビングに入ってきた朱里に、私は最大限の睨みを効かせた。…つもりだが、それに気が付いていないのか、朱里は私を見つけると目を輝かせた。
「ユキちゃん、久しぶりだね。」
にっこりと笑いながら話しかけてくる朱里に、私は最大限の無視を発動した。…つもりだが、またもや気が付いていないのか、にこにこと嬉しそうに私を見ている。
ダメだ、この女、優人以上に鈍感なんだ。
似たもの同士は惹かれあうのだろうか?ということは、優人に惹かれている私も鈍感なのだろうか…?
私が鈍感同士の方程式を頭の中で組み立てている間に、優人と朱里はソファでくつろぎ始めていた。並んでテレビを見ながら、優人が淹れたコーヒーを飲んでいる。
「面白いテレビ、やってないね。」
「この時間はワイドショーの時間だもの。」
「あ、借りてた映画があるんだ、それ見る?」
「え、何の映画?」
「ロボットもののSFなんだけど…」
「…」
「…」
なんで女の子とのデートで恋愛もの準備しないのよ、ほんと鈍いわね。
そしてなんで沈黙に逆らってDVD取り出そうとしてるの、優人。
まさか今の沈黙、了承だったと思ってるの?ほんと、馬鹿…。
私が呆れた顔で優人の行動を見ていることに気が付いたのか、朱里が私の方に目配せしてきた。
これって、上映開始だよね?
そうよ、アンタがもっとちゃんと止めないから、優人、気づかなかったのよ。もう仕方ないわよ、黙って見るしかないわね。
そんなあ…という顔をした朱里に、プイ、と背を向ける。少しかわいそうだけど、私から優人を奪おうっていうなら、これくらいのことには耐えなきゃだめよ。なぜかいつもB級映画しか借りてこない優人の趣味に、私はもう嫌というほど付き合ってきてるんだから。
残念ながら、優人が借りてきたその映画は、もれなくB級だった。しかも、ただのB級ではなく、B級の中のB級。はっきり言って、つまらなかった。私は真剣に見ていたわけではないが、時折耳にする音声や朱里のポカンとした表情から、だいぶ無茶な設定の、ぶっとんだ映画だったのだろうと予想できる。
なぜ優人がB級映画を好むのかは分からないが、見終わった彼は満足気に息を吐いた。そして、いつもの悪い癖であり、優人の唯一無二の趣味である、感想タイムに突入しようとしている。
感想タイムは短くても1時間、長ければ3時間を超えることもある。どうやら彼は、見終わった後に感想を言うことが何より楽しいらしく、この時間のために映画を見ると言っても過言ではないらしい。しかし、正直つまらない映画の感想を、目を輝かせて延々と語られても、聞く方からすると苦痛にしかならない。いつも付き合わされている私が言うんだから、間違いなし。
でも、どれほど苦痛でも、毎回耐えてきたのは、優人のことが好きだからだ。優人のことが好きだから、終わりのない感想タイムに付き合ってあげられるのだ。つまり、この苦痛に耐えられないようじゃ、アンタはまだまだ私には及ばないってワケ。ここが見せ所なのよ、朱里。アンタが優人のことを好きだって気持ち、どれほどのものか見せてみなさい。
「いや~、なかなかおもしろかったな!」
始まった。感想タイムの第一声は、いつもこれだ。
朱里は、映画を見ている途中には見せなかった、今日最大のポカン顔を見せた。もしかしたら、人生最大かもしれない。
そりゃそうだ。十人に見せたら九人は面白くないと言うような映画だ。その残りの貴重な一人が、目の前にいる優人なのだ。
「お、おもしろかったかな…?」朱里は戸惑いながら聞き返す。
「おもしろかったよ!ほら、あの、主人公が大蛇を掴んだまま窓をぶち破って、未来に行っちゃうシーンとか!ドキドキしたでしょ?」
優人の目が輝き始めた。
ここからだ、ここから何時間続くか分からない。しかも、今日はいつもより興奮気味だから、長丁場になるかも。
朱里を見ると、目を輝かせている優人を目の前に、どうするべきか、何が始まるのか、緊張した面持ちだ。この感想タイムが終わるころ、朱里はどうなっているだろう。これがきっかけで優人のことが嫌になるだろうか。これからも、この地獄の時間に付き合わされていくことを考えると、ぞっとして逃げ出してしまうだろうか。
そうなれば私は万々歳だ。優人はもう朱里の話をしなくなるし、寝る直前に他の女の名前を聞かなくて済む。優人の心を独り占めできる。
そう思いながら、私は自然と、朱里のことを話す優人の姿を思い出していた。
朱里のことを話すとき、優人は感想タイム以上に、きらきらと輝いた目をしていた。その輝きは、嬉しさと恥ずかしさが混ざり合っていて、とてもきれいだと、私はいつも思っていた。朱里の魅力を語って頬を赤らめて一人照れたり、朱里の前で失敗したことを話して一人落ち込んだり。朱里の話をする間、優人の表情はころころ変わる。可愛くなったり、頼もしく見えたり。そんな姿を思い出しながら、わたしはふと、疑問が芽生えた。
朱里が優人の前からいなくなれば、優人のあの姿を見ることはもう無くなるのだろうか?
そう考えて、少しさみしい気持ちになった自分に驚いた。
朱里は、私から優人を奪おうとする、悪い女だ。優人を簡単に渡すものか。
いつも、そう思ってきた。
だが、私の好きな優人は、もしかしたら朱里なしには成り立たないものなのだろうか?
次々に表情を変えながら、きらきらした目で私に語りかける優人。
寝る前に、私のことを宥めるように、優しく撫でてくれる優人。
いつも家の中をきれいに保って、快適にしてくれる優人。
そのすべてが、朱里を土台として出来上がっているものだとしたら?
そして、そのすべてが、朱里がいなくなることによって無くなってしまうとしたら?
私は急に悲しくなった。すべて無くなってしまった優人を、私は好きでいられる自信がない。もう、一緒に暮らせない。そしたら私はまた一人になって、街を彷徨わなくてはならない。
ここまで考えて、私はようやく気が付いた。朱里がいなければ、優人は優人として成り立たないのだ。私が、優人がいなければ私として成り立たないように。 そして、その関係にあるものこそが、恋い慕う気持ちなのだ。人々が、慎重に、大切に守ろうとする、実態のない確かなつながり。
優人も、しっかり守ろうとしていたんだ。朱里への気持ち、朱里とのつながりを。そして、私はそんな優人に惹かれていたんだ。
これって、なんて言うのかしら。三角関係?優人は朱里のことが好きで、私はそんな優人が好き…。なんだかややこしい関係だ。
ただひとつ、私の気持ちは優人には届かないことが分かった。これは、恋するあなたに恋をする、世界一不毛な片思いだったんだ。
「…って思うんだよ、どう?」
優人の意気揚揚とした声で、ハッと我に返った。
時計を見ると、あれからもう二時間近く経っていた。優人の声とテンションは下がらないまま、ずっと継続されていたようだ。
意見を求められた朱里は、うつむいていて表情が分からない。
疲れてしまったのだろうか。やはり、嫌になってしまったか。これで、優人の元を去ってしまうかな。そしたら、私の恋は一体どうなるんだろう…。
私は、ドキドキしながら朱里を見つめていた。さっきまで朱里に抱いていた敵対心は、すっかり形を変えてしまっていた。
確かに、いけ好かないけれど。でも、優人にはアンタが必要で、それってつまり、私にも必要ってことだから。だから、優人のこと、簡単に諦めたりしたら許さないわよ。私のためにも、優人のためにも、いつまでも優人に好かれるいい女でいなくちゃ、許さないんだからね。
「優人くん…」うつむいたまま、朱里が言った。
優人は、期待しながら朱里の意見を待っているようだ。この様子の朱里を見ても、自分がしていることの非常識さを分かっていないところが、優人の鈍感さを表している。
だめか…と私は思った。うつむいたままの朱里を見て、やはり優人のことが嫌になってしまったと思った。
だから、耳を疑った。朱里は、パッと顔を上げると、優人に負けないくらいきらきらした目をして、こう言ったのだった。
「優人くん、すごいよ!私、そんなこと全く気が付かなかった!」
それからはもう、よく覚えていない。最初は驚いたが、よく聞いていると、どうやら朱里は優人があの映画に対して細かく分析し、面白さを見出しているところに、えらく感動したようだ。自分では全く気が付かないようなところから面白さを引き出して、熱心に感想を述べる優人に、尊敬の念さえ抱いてしまったらしい。優人はそれを聞いて、心の底から嬉しそうな顔をした。
そうだ、B級映画は、そこが面白いんだよ!自分しか気が付けない面白さを見つけられるからね!
優人がB級映画にこだわる理由と、朱里がどうしようもなく優人に似ていることに気が付いて、私は一気に疲れてしまった。
ねえ優人、私、アンタが朱里に振られるかもしれないって、心配してあげてたんだけど?
朱里も、紛らわしい態度とんないでよ、どきどきしちゃったじゃないの!
安心やら、二人への不満やらが一気に溢れ出し、もう何も考えたくなくなった私は、ソファの上で熱心に感想タイムを続けている二人の間に飛び乗った。
それに気づいた二人が話し始める。
「あれ、ユキ、ここで寝るの?珍しいね。」
「かまってあげなかったから、拗ねてるのかもよ?」
「ええ?いつもはユキの方がそっけないのに?」
「でも優人くん、ずっと喋りっぱなしだったもの。映画だってユキちゃんは分かんないだろうし、つまらなかったよね?」
「そっか、そりゃ悪いことしたなあ。今日はいつもよりいいご飯にしてあげるね。後でブラシもしてあげる。」
優人がそう言いながら私の背中を優しく撫でる。
「高級ツナ缶じゃなきゃ許さないからね、優人。」
私が返事をしたのを聞いて、優人と朱里が微笑みあう。
二人の間で丸くなり、まどろみながら、私はここに、確かな幸せを感じていた。