異界の竜
狩人小屋を後にし、
再び踏み入ったイオルの森の中は、
けれどそれまでとは
全く違う場所に見えた。
そう。緑がうっそうと生い茂ったそこは、
鳥の声も動物達のたてる物音も
全く聞こえない、
異様な静けさに包まれていた。
風すら止んでいる。
……
「それで。」
と、
セアルは背のうを
背負い直し、
槍を握る手に力を込めながら
クシュを見た。
「このまま谷に向かえばいいんだな?
残りの竜の居場所はわかるのか?」
「はい。」
クシュはセアルの問いにうなずき、辺りを見回した。
それから、
セアルに手を差し伸べた。
セアルはその手を見た。
「何だ?」
「手をつないでもらえますか?」
セアルは思わず後ずさった。
「な、何で?」
「はい。魔法を使います。
飛行魔法を。」
「飛行魔法?」
クシュはセアルの動揺に
気付くことなくうなずいた。
「はい。空の上から、
谷に向かおうと思います。
長い時間は飛べませんが、
竜達の動きを、
広い範囲で追跡しようと思います。」
「わ、わかった。」
そううなづき、
ぎこちなく差し出されたセアルの左手をクシュはとった。
そして風の神ソルソネをたたえ、
その加護を望む言葉を唱えると、
杖を振った。
次の瞬間。
……
飛んだ。
「うわ!」
セアルは思わず
手足をばたつかせた。
体重を感じない。
踏みしめていた足元の地面が
一瞬のうちに遠ざかり、
森の木々がはるか下に広がるのが見えた。
「セアルさん!」
クシュがつないだ手を離すまいと、力を入れるのがわかった。
セアルは思わずそこにしがみつく。
と。
小さな悲鳴が上がった。
「あ、あの」
「ん?」
うわずったクシュの声に
セアルは目を開けると、
すぐ近くにクシュの愛らしい顔が見えた。
真っ赤になっている。
「!」
セアルははっとした。
クシュにしがみ付いた手の平の内に、
柔らかく弾む丸みを感じたから。
セアルはクシュの胸を、
乳房をつかんでいたのだ。
見た目よりはるかに豊かだった
そこを。
「す、すまな」
動揺したセアルは
思わずそこから手を離した。
落ちる。
「セアルさん!」
クシュがあわてて抱きしめるようにセアルをつかまえた。
セアルの顔がクシュの胸に
柔らかく埋まる。
「!」
甘い匂いに包まれ、
セアルは固まった。
と。
セアルを抱きしめたまま、
クシュの動きが止まった。
「?」
セアルはクシュを見上げた。
クシュは上を見ていた。
魅入られたように、
かすかに口を開けている。
その唇が動いた。
「青い……これが、空。」
セアルも見た。
真っ青な夏の空が、
2人を包み込むようにどこまでも広がっている。
セアルは、クシュのいた
霧の谷=国の魔法の研究所が、
普段は常に有害な魔法の霧に
覆われ、
空を臨むべくもなかった
ことを思い出した。
そして。
彼女はいったい
どれくらいの時間を、
あの谷の中で
過ごしていたのだろうか、
と思いをはせながら、
クシュと同様、
瞬間、青空に目を奪われた。
と。
ぽうっとクシュの杖が
赤く輝き始めた。
クシュがはっと息をのんだ。
「反応が!」
「竜か。どこだ。」
我に返ったセアルは、
下方の森に視線を走らせた。
と。
「!」
同時に、
槍を思いきり横にないだ。
鈍い音と手応えと共に、
金属をこすり合わせたような
耳ざわりな咆哮が響く。
セアルの槍に口元を
切りつけられた、
2匹目の竜の姿がそこにあった。
全長10メートルはあるだろうか。
灰色の蛇を思わせる顔と
うねる体に、
大きなコウモリに似た羽が
生えている。
胸元には、鋭いかぎ爪の生えた、鳥のような前足があった。
竜は大きく羽ばたき、
切りつけられて崩した体勢を
立て直すと、
再びこちらに向かって咆哮した。
「すみません!竜が飛ぶなんて、飛行形態をとるなんて予想外でした!」
セアルの手を引き、
竜から逃げようと飛行速度を
上げたクシュが、
うわずった声で叫んだ。
セアルはうなづき、答えた。
「仕方がないな、相手は異界の、未知の怪物だ。しかし!」
セアルは後方を見ると、
再び槍を振り払った。
鈍い音と共に、
再び襲ってきた竜のかぎ爪が
弾かれる。
「このままじゃ、らちがあかない!」
空中で踏んばりがきかず、
槍での反撃は決定打に欠けた。
クシュも飛行魔法と同時には、
槍を強化する魔法は使えないようだ。
「待って下さい!
もう少しで木々のまばらな所に
降りられます!」
そう言って高度を下げながら、
さらに飛行速度を上げたクシュに手を取られながら、
セアルは再び後方を見た。
空飛ぶ竜との距離は、広がらない。
(追いつかれる!)
セアルは意を決した。
「クシュ!降りるぞ!」
と、
クシュの体を抱きかかえると、
そのまま体をひねり、下に落ちた。
その瞬間。
「あ!」
クシュが叫んだ。
セアルに引かれ、
不意に落下したからではない。
「あれは!」
森の先、
一点に向けられたその目が、
大きく見開かれている。
セアルもクシュの視線の先を見た。
思わず顔がこわばる。
と。
衝撃を感じた。
2人の体を、
森の木々が受け止めたのだ。
セアルはさらに
クシュを胸にかばった。
ざざざざ、
というすさまじい葉ずれや枝々の折れる音に、
クシュのくぐもった悲鳴が重なる。
空飛ぶ竜は、
再び咆哮した。
そして。
2人の落下した場所を
幾度か旋回した後、
飛び去っていった。
……
「行ったようだな。」
「……はい。」
木の葉やすり傷だらけに
なりながら、
セアルとクシュは、
途中で引っかかった枝々の
隙間から、
2匹目の竜の様子をうかがった。
「あ。だ、大丈夫か?」
「は、はい。」
セアルは胸の中の、
荒い息をつくクシュを
抱きしめていた腕の力をゆるめた。
彼女の艶やかな黒髪にからんだ
小枝を、
そっと注意深く指先で払う。
「ありがとうございます。」
笑顔で礼を言うクシュに
セアルは赤くなり、
ぎこちなくうなずいた。
「……しかしあいつ、
最初の竜の時にも思ったが、
あの大きさで
まだ幼体なんだな。
あのまま森の外にも
ひとっ飛びしていきそうだが。」
「いいえ。」
話題を変えるように
再び空を見上げたセアルに、
クシュは首を横に振って答えた。
「心配ありません。
竜達は少なくとも、
この森を出ることはありません。」
「どうしてだ?」
「魔力です。」
クシュは澄んだ瞳で杖を見つめた。
「魔力?」
「はい。
竜達は魔力に引かれるんです。
第二の竜も、
飛行魔法の力に反応したんだと
思います。
それに、
霧の谷の研究所は滅びましたが、
まだ魔力の気配が残っています。
それで、今、
長くは飛べませんでしたが、でも、
もう1頭の竜の、
第三の竜の居場所もわかりました。」
「霧の谷だな。」
「はい。」
セアルの言葉に、
クシュはうなずいた。
「森と霧の谷の境に、
家一軒くらいの大きさで、
白い半球体が見えた。
クシュ(あんた)を
見つけた時には無かった。
あれも竜に
関係してるんじゃないか?」
「はい。」
クシュはさらにうなずき、答えた。
「あれは竜の『繭』です。」
「まゆ?」
「竜は成体に成長する時、
『繭』を作るんです。
第三の竜は……すでに完全体への
『変異』を始めていました。」
クシュの答えに、
セアルは息をのんだ。
「それは、
もう手遅れってことなのか?!」
「いいえ。」
クシュは首を横に振り、続けた。
「異界とこの世界では
環境が異なります。
竜が成体に成長、完全体に
『変異』するには一定の時間か、
ぼう大な量の魔力の供給が
必要なはずなんです。」
「じゃあ、
そういった助けがない限り、
今すぐに
危険なことはないんだな?」
「はい。」
「そうか。」
クシュがうなづくのを見て、
セアルはひとまず
安堵の息をついた。
そして続けた。
「ならむしろ、第三の竜の
居場所が定まってくれて
好都合だったかもしれないな。
どっちにしろ
あんたも消耗してるし、
もう空からは無理だ。
このまま下を行こう。」
セアルの言葉に、
肩で息をついていたクシュも
うなずいた。
と。
きゅるるるる、と音がした。
「あ。」
「あ。」
クシュの顔が赤くなった。
クシュのお腹の虫が鳴ったのだ。
セアルは微笑んだ。
「その前にとりあえず飯だな。
腹が減っては戦は出来ぬ、だ。」
「すみません!」
クシュは更に真っ赤になって
うつむき、
セアルの腕の中で小さくなった。
……
「おいしい!」
サンドイッチを口にしたクシュは、
そう言って笑顔になった。
セアルも笑顔を返してうなずいた。
「よかった。
やっぱり用意してきてよかった。
あり合わせだけど、
俺が作ったんだ。」
セアルのその言葉に、
クシュは目を丸くした。
「有り難うございます。
料理、とてもお上手なんですね。」
セアルは苦笑いした。
「じいさんがしないからな。
俺がするしかないんだ。」
……
木から降りた後、
セアルが背のうから取り出したのは、
猪のベーコンや羊のチーズ、
野菜を黒パンではさんだ、
彼にとっては
ありきたりなサンドイッチだった。
けれど。
クシュは大いに舌つづみを打ち、
特にそこに使われていた
ソースを絶賛した。
「おいしいし、
すごく赤色がきれいです。」
セアルはうなづいた。
「この辺りで取れる、
赤ベリーを使ってるんだ。」
「そうなんですか。
酸味がすごく良いです。
さっぱりしてて。
お肉にも野菜にも合って。」
と。
クシュははっと我に返った。
セアルが、
まじまじと自分を見ていたから。
クシュは真っ赤になって
うろたえた。
「すみません。
私、こんな時に何を。」
「謝ることはない。」
セアルはくすりと笑い、
そして続けた。
「いや。魔法使いも案外普通に、
料理に興味を持ったりするんだな、と思ってさ。」
クシュはうなづいた。
「はい。私、
本当は魔法を使うのは苦手で。
霧の谷の研究所では
下働きが主な仕事だったんです。」
セアルはかぶりを振った。
「そうは見えないな。」
「この杖のおかげです。
私が魔法を使えるのは。」
クシュは側に置いていた杖を
セアルに見せた。
30cm程の長さの、
先の細い白い杖だ。
なめらかな表面には模様が、
おそらくは魔法の言葉であろう、
が、
隙間なく刻まれている。
クシュは続けた。
「この杖で魔力を強化して、
安定させているんです。
私の場合そうしないと、
制御出来ない力の反動で
ダメージを負ってしまうんです。」
「大変なんだな。」
クシュは肩をすくめた。
「私、才能ないみたいで。
落第生だったんです。」
そう言ってはにかみながら笑う
クシュを見ながら、
セアルは革袋の中の水を飲んだ。
それから。
思いきって聞いてみた。
「……なあ。竜退治がすんだら、
クシュはどうするんだ?」
「え?」
セアルの問いに、
クシュは驚いたように
目を見開いた。
それから困ったように目を伏せ、
肩を落としてうつむいた。
「そうか。」
セアルはうなづいた。
「今は考える余裕はないか。
でももし故郷に帰るんなら、
俺が送っていってもいい。」
セアルの言葉に、
クシュの顔は明るくなった。
けれど。
「有難うございます。でも。
私、孤児なんです。
物心がつく前に、
魔法使い見習いとして谷に
引き取られたと聞いています。」
「……すまない。」
「いいえ。」
そう言って首をふるクシュを
セアルは見た。
そして。
ふと思ったのだ。
もし。
もしもクシュに、
他に行くところがないのなら。
……
「なあ。」
と、
セアルが声をかけた時だった。
クシュの杖が再び赤く輝いた。