1章の4-女子高生の決断-
「はぁ……」
「なあに、帰ってそうそう辛気臭い」
「別にぃ……」
台所のテーブルにべったりと突っ伏して溜息をつく。夕飯の仕度をしているばあちゃんのうっとおしそうな声にやる気のない返事を返しつつ、頭の中ではついさっきまで巻き込まれてた超常的な話を整理しようと必死だ。
……まあ、結局まとまらないままぐるぐるしてるんだけどね。知恵熱出して寝込みたい。
「そういえば、今日はどうだったの。アルバイト、決まった? ……ま、その調子じゃ、答えは見えてるけどねえ」
そう思うなら聞かないでほしい。
今現在そのアルバイトについて盛大に悩んでいるところなのだ。いや、ばあちゃんの思ってるバイトとは別の話だけどさ。
「んー、保留。とりあえず、答えは明日ってことになった」
「……まあ、元気出しなさいな。バイトなんてそれこそ星の数ほどあるんだから」
私が死にかけの蛙のような声を絞り出すと、ばあちゃんは生暖かい視線を向けて慰めてくれた。いや、そうじゃないんだ。
「先方は雇う気満々なの。保留してんのは私」
「あら、そうなの? なら雇ってもらえばいいじゃない。えり好みできる立場じゃないんだから」
「そりゃねー。そうなんだけどねー」
そう簡単なものでもないのだ。この一件は。下手打つと、私の将来に多大な影響を与えかねない重大な一件なのである。ばあちゃんは倉庫番の仕事だと思ってるだろうから仕方ないのだが。
かと言って、家族においそれと相談することもできない。帰る寸前に沙葺さんに言われた一言が、ずっしりと頭にのしかかっていた。
少しばかり回想に入ろう。あれは知恵熱でくらくらする頭を押さえながら基地から睦美ママの店に戻ってきたときのことだ。帰り際、沙葺さんがやけに真剣な表情で私にこう言ったのだ。
「岡嶋っち。今日見聞きしたことは、国際的な機密事項だ。だから、友達とか家族とかには喋っちゃいけないよ。もちろん、インターネットなんかに書き込むのもNGだ」
そんな重大な機密を一介の女子高生かつ、ただの小娘の私に話しちゃってよかったのかよ。
「えーと、もしも誰かに喋っちゃったら、どうなるんです……?」
恐る恐る聞いてみると、沙葺さんは若干遠い目をして、
「岡嶋っち、MIBって映画知ってる? ウィル・スミスとトミー・リー・ジョーンズの」
と言った。
「あっ」
察した。
映画については、無論知っている。名作SF洋画だ。ちなみに私は無印が一番好きだ。
「ちなみに、処置には一人につき5千円かかるからね、実費で」
最後ににっこりと笑ってそういった沙葺さんは、性質の悪い悪夢のようだった。
回想終わり。
と、まあそんなわけで、悶々と机に突っ伏しているのが現状だ。
「はいはい、晩ご飯だからいい加減起きなさい」
「うー」
私はゾンビさながらのうなり声をあげて、机から体を剥がした。悩みは尽きないが、いかなる悩みも食欲には勝てない。悲しいかな、ヒトの習性だ。もしくは、思春期の特権だ。
ちなみに今日の夕飯は牛蒡と鶏肉の煮物だった。ばあちゃんの十八番で、私の好物でもある。美味しかった。
晩御飯を終えて台所を追い出された私は、すごすごと2階の自室へと退散した。
自室といっても、弟との相部屋だ。「男女七歳にして席同じうせず」とはなんだったのか。私はそろそろ17だぞ。
まあ、どんなありがたい言葉も、貧乏には勝てないというなんだろう。
そんな具合なので、私の完全なプライベート・スペースというと、無理やりカーテンをつけた二段ベットの上段くらいなものだ。使用歴10年近くのかなり年季の入ったベッドであるから、寝ている間に強い地震でも来たら確実に死ぬだろうなと常々思っている。その時は下段の弟も道連れだ。
まあベッドより先に家が崩れそうだけどね。ウチは工務店の癖に、現行法規にまるで適ってない築40年のオンボロ住宅だ。まさしく紺屋の白袴ってやつ。
そもそも富山は地震がほとんど起こらないから、そこまで心配してはいないけど……
やめよう、そこは考えてもどうしようもない部分だ。
小学校に上がった時から使い続けているOAチェアにどっかりと腰を下ろすと、つい1か月前にバイトの初任給をはたいて購入した25インチブラウン管テレビのスイッチを点けた。近所の電気屋さんで在庫処分新品1万円だったので、迷わず購入した一品である。それまでテレビを見るには台所まで下りるか兄の部屋(兄は贅沢にも一人部屋だ)に突撃するかしかなかったので、このおかげで私の部屋は文化的に大きな躍進を見せたといってもいいだろう。
同じく初任給で買った中古のプレステ2に、兄の部屋から失敬してきたDVDをセットする。ちょっと前にNHKで放送していた、ふわっとしたSFアニメだ。
「あーあ、私も始くんみたいにのほほんと事実を受け止められる器がほしい……」
「アニメ見ながら独り言とか相当いてぇぞ」
背後から突然声を投げかけられて、私は飛び上がりそうになった。
「あ、ムリョウじゃん。姉ちゃん、最初から見ようぜ」
「なんだ、ヒロか。……てか、帰ってきて開口一番その言い草? まずはただいまでしょ」
弟の寛志だった。驚かさないで欲しい。
今年中学3年生の弟は受験を控えて早々に部活を引退し、付け焼刃で塾通いをしている。ちなみに狙いは高専だそうだ。
「んだよ、小学生じゃあるまいし。……ただいま」
「ん、おかえんなさい」
盛大なため息を伴ったそれに鷹揚に頷いて返すと、心優しい私はビデオを頭出しした。自分でいうのもなんだけど、なんだかんだ言っていいお姉ちゃんなのである。
しっかしデジタルなビデオソフトは頭出しが楽でいいよね。VHSは巻き戻しが面倒だもん。
「ねえヒロ」
「あん?」
弟が自分の椅子に腰かけたのを見計らって、私は切り出した。
「あんたさ、もし本物の巨大人型ロボットに乗れるとしたらさ、どうする? 乗る?」
「はぁ? そりゃ、乗るだろ」
それはあまりにも突飛な質問だったというのに、寛志は何を当たり前のことを聞いてくるんだ、と言わんばかりの顔で即答した。
「そーよねー、あんたならそう言うよねー」
まあ、私としてもこの返答は織り込み済みである。弟は私に輪をかけてロボオタクだし、なにより弟にとっては、あくまでフィクションの話なのだから。
「てかさ、なんでそんなこと聞くん? 何の脈略もないんだけど」
「んー? まあ、なんとなくよ」
「なんじゃそりゃ」
もちろん本当の事なんて言えるわけもないので、適当にはぐらかす。
それきり会話が途切れたので、私はアニメに集中することにした。ちょうど画面の中では、シングウが宇宙人のメカをやっつけるシーンに差し掛かっていた。
「おーっす、ただいま。お、ムリョウじゃん。最初からみよーぜ」
で、そんなときにノックもなしに部屋に入ってきた我らが長兄は、名を菖蒲という。女の子みたいな名前だというとキレるので、そこんところ注意が必要だ。カミーユかよ。
なんでも生まれてくる直前まで両親が女の子だと思ってたらしく、ちょうど庭に菖蒲が咲いていて、湿地を好まない性質が良いねってことでつけた名前なんだそうだ。
男児だってわかった時点で考え直せよ、と思わざるを得ない。
ちなみに兄は現在23歳。父さんの知り合いの設計事務所に勤めているが、こんな早くに帰ってくるのは久しぶりだ。
「おかえり。兄ちゃんは毎度タイミングわりーな」
「おかー。はじまってそんな経ってないんだから、ちょっとくらい我慢してよ」
「それ、俺のビデオなんだけどなあ……」
兄は少しふてくされたように呟いてから、部屋の隅に立てかけてあるパソコン用の折りたたみ椅子を出してきて腰かけた。まあなんだかんだ言って、兄は私以上にいい兄してる。文句こそいうが、最終的に私たちを立ててくれるからね。ホント、いい兄を持ったものである。
「それにしてもさ、兄ちゃん今日早かったよね。クビ?」
「縁起でもないことを言うんじゃないよ。立て込んでた仕事が片付いたから、今日は早めに切り上げられたの」
兄はそういって、ビールの缶を開けた。
「あ、ビール。ちょっとちょうだい」
「ダメだ。ハタチまで待て。それに、そんなうめーもんじゃねえぞ」
私のおねだりをぴしゃりとはねのけて、兄はよく冷えた缶ビールを煽った。ものすごく表情を顰めて、そのままごくごくと缶の中身を胃に押し込む。
「うえへー、まっずいなァ」
心底まずそうだ。兄は下戸である。アルコールは何より苦手だった。
「じゃあ飲まなきゃいいのに」
私が言うと、弟もウンウンとうなずく。ビールがもったいないとは思わないのか。
「練習だよ練習。世の中よ、大人になっちまうと、「下戸です」で乗り切れない局面ってのがどうしてもあんだよな……」
兄は心から嫌そうな顔と声で、遠い目をしながら情感たっぷりに言ったのだった。
苦労してるんだなあ、兄ちゃんも。
「ところでさ、兄ちゃんはさ」
「あん?」
「もし、人型ロボに乗って戦うチャンスが降ってわいたらさ、兄ちゃんだったらどうする?」
だらだらと駄弁りながら2時間ほど経ったころ。私は兄にも同じ質問をしてみることにした。すると兄は数秒考えて、
「乗らないだろうな、たぶん」
と答えた。
「えー、兄ちゃん、それでもロボオタかよ! そこはふつう、乗るでしょ!」
私が言葉を発する前に、ヒロが兄に食って掛る。
兄はまた数秒考えてから「ちょっと語らせてくれ」と前置きしたので、私たちも無言で頷く。その様子を見てから、兄はゆっくりと話し始めた。
「さて、まず寛志。ロボオタって言葉はそうひけらかすように使うもんじゃねえ。別に恥ずかしいこっちゃあないが、誇るようなことでもねーからな」
「お、おう」
ヒロは神妙に頷いた。兄は「よろしい」というと、さらに続けた。
「俺はロボが好きだ。それはもう、誰にだって恥ずかしげもなく言いきれるくらいには好きだ。だけどな、"好き"には方向性があるんだよ。俺は「ロボットが好き」なんであって、別段「ロボに乗って戦いたい」わけじゃねーんだ。獅子舞とか、納涼祭とかと似た感じだな。客としては楽しみたいが、主催者側にはまわりたくない」
「あー、なるほど」
なんとなくだけどわかる。横を見ると、ヒロも納得したように頷いていた。
「それに、巨大人型ロボってのは夢の産物じゃん? 俺はそんな夢の産物が、戦争とかに使われちゃうのは悲しいな。スターダストメモリーの小説版だったかでコウ・ウラキも言ってたと思うけど、兵器ってのは戦争さえなけりゃ芸術品なんだよ。俺は、芸術品には芸術品のままでいてもらいたいね。たとえその存在意義があやふやになったとしてもさ」
「SEEDのアズラエルは使わなきゃ意味ねえっていってたぜ?」
「その辺は見解の相違やね。現実問題としては、アズラエルのほうが正しい意見だろうが」
兄はそこで一度言葉を切り、まずそうな顔でビールの残りを干してから、
「まあ、創作と現実は違うからな」
としみじみ言った。
なるほど、確かに。兄の考えは一理あるし、納得もできる。
でもこれ、悲しいけど現実の話なのよね、私にとっては……。
さて、そんなわけで兄と弟を交えたロボ談義から少し時計が進んで、翌日。
「んん~~……」
「どしたん、今日はため息じゃなくてうなり声?」
「あ、キヌちゃん」
昼休みである。食堂組とパン組が一目散に教室を飛び出し、半分ほど残った連中が気の合う仲間同士で弁当を広げる、いつものブレイクタイムだ。
かくいう私も、いつもキヌちゃんと額を突き合わせて弁当をつつくのが常であるのだが、相方のキヌちゃんがやってくるまでそれをすっぱり失念する程度には行き詰っていた。
「こんどはどしたん? またバイトのこと?」
「まあね……」
バイトの部分を小声で言ってくれるあたり、キヌちゃんの優しさを見て取れる。私はそんなキヌちゃんの心遣いに感謝しつつも、言葉を濁した。沙葺さんに釘を刺されてなければ、速攻で白状ってしまいたい気分だった。
「ふうん……まあ、なんか困ったことがあったら何でも言いなよ? 聞くだけは聞いてあげるからさ」
「うん、さんきゅ」
一瞬、キヌちゃんも「こっち側」に引きずり込んで情報共有しちゃおうかという考えもよぎったが、さすがに憚られた。私はそんなよこしまな考えを振るい落とす勢いで数回ぶんぶんとかぶりを振ると、手早くランチのセッティングに取り掛かる。キヌちゃんのどこか心配そうな目が、心に刺さる。心配8割哀れみ2割ってとこかな……
「お、今日のすみれランチはなかなか豪勢ですなあ。から揚げ一個ちょーだい」
「キヌちゃんランチだってなかなかのもんじゃん。卵焼きふたきれでトレードしようじゃないか」
「ひときれ半で……!」
「……よかろう」
実に尊大な芝居口調で私が言うと、どちらからでもなく笑いがこぼれた。茶番の応酬の末に私はキヌちゃんの弁当箱から卵焼きひときれを頂戴する。同時にキヌちゃんの箸がスッと伸び、私の弁当箱からから揚げをひとつとって行った。手作りの卵焼きと冷凍食品のから揚げ、どちらの価値が高いかは悩みどころである。
「でもさー、キヌちゃんはえらいよねえ。お父さんの弁当も作ってるんでしょ? それで朝稽古にまで出てんだからさ」
いいながら、キヌちゃんから頂いた卵焼きを口の中に放り込む。キヌちゃん謹製の卵焼きは砂糖がたっぷり入った甘めの仕上がりで、ひときれで元気が出る気がする。ただ甘いだけじゃなく、絶妙の醤油加減がたまらない。
「まあね、でも慣れたよ。5年……いや、もう6年か、そんだけ続けてりゃね」
「あ……なんか、ごめん」
キヌちゃんが一瞬、寂しそうな笑みを見せた。キヌちゃんは6年前にお母さんを亡くしている。少し、デリカシーがなかったかもしれない。
「んーん、気にしないで。もうその辺は割り切っちゃってるからさ。さ、しんみりしてないで、ご飯食べよう、ご飯」
「そうだね。うん。……モノは相談なんだけど、このから揚げとその卵焼き交換しない?」
「ふふふ、よかろう」
さっき私がしたのと同じように、キヌちゃんが芝居がかった声で応じる。しかしホントにおいしいな、今日の卵焼き。
「冷凍食品ってなんかこう、いかにも「僕は体に悪いです!」って味がいいよね。美味しくて」
キヌちゃんが、レンジでチンする必要すらない自然解凍のから揚げを口に運んで言った。
「なにそれー。私はキヌちゃんの卵焼きのが百倍美味しいと思うよ。健康的だし」
「果たして醤油と砂糖がたっぷり入ってる卵焼きは健康的なんだろうか」
まあ、それは置いとこう。私の言葉は実に本心だ。
私が今広げている弁当は私が作ってきたものだが、まあ作ってきたというよりは解凍して詰め込んできたというべき代物で、キヌちゃんの弁当と比較すると明らかに見劣りしてしまう。いや。彩り自体は鮮やかなのだけど、鮮やかすぎて毒々しいというか、いかにも人工物くさいのだ。
キヌちゃんの弁当は彩り自体は地味だが、堅実さとそれに裏打ちされた確かな美味しさを感じられる。
「で、今度は何で唸ってたワケ? 溜息よりも気になるよ、アレ」
「マジ?」
「マジマジ。なに、うまく行ってないの? 非合法活動のほうは」
「嫌な言い方だなあそれ」
しかし、どうしようか。キヌちゃんに嘘はつきたくないけど、ホントのことも言えないし……
「んー、なんていうかね、すごく魅力的な業務内容なんだけどね。先方は雇ってくれる気満々みたいなんだけど、私の方で保留しててさ。どうしようか悩んでんの」
とりあえず、障りのない程度にぼやかして話すことにしよう。黙ってたらまた詮索されてキヌちゃんまで巻き込みかねないからなー……
「ふーん、魅力的な業務内容ねえ。どんなの?」
「そこ聞いちゃう? うーん、何て言えばいいんだろ……」
ぼやかそうとしてた部分を直球で切り込まれた。さすがは女子柔道部期待の新星、先鋒を任されるだけはあるな。
……関係ないか。
「なに、もしかしてヤバい感じじゃないでしょーね」
キヌちゃんの視線が、刃物のように鋭くなった。これはいけない。
「や、そんなことはないよ。なんていうのかな、ロボットゲームのテストプレイヤーみたいな感じ」
窮しつつもひねり出した答えにキヌちゃんはいくらか視線を和らげたけれど、まだ詮索モードのジト目だ。流石に納得させられてはいないらしい。
「テストプレイヤーぁ?」
語尾に不信感がにじみ出てるもん。
「えっとね、こないだのクレープ屋の沙葺さん、覚えてる?」
「ああ、あのイケメンの」
「そうそう、それそれ。なんか沙葺さんが通ってる大学で作業用ロボットを遠隔操作する筐体の研究開発してるらしくてさ、そのテスターやらないかって誘われたの。なんでも研究を客観的に見れる第三者が必要とかでさ……」
即興にしては割と筋の通った話にできた気がする。なんだっけ、嘘に少しだけ真実を混ぜると騙しやすくなるみたいなやつあったよね。この場合は「沙葺さんに誘われた」「沙葺さんは大学生」って部分が真実なんだけど……
「ふーん、面白そうじゃない。私はあんまりロボットに興味ないからそこまでだけど」
私がドキドキしながらキヌちゃんの反応を見守っていると、どうやらキヌちゃんはギリ納得してるっぽい。ファインプレーだぞ私。
よかったぁー……。今までことあるごとにロボ好きアピール(というかもはや布教)をしてきた甲斐があったよ。私はキヌちゃんに気取られないように、内心でほっと胸をなでおろした。
「で、なんでそんないい条件のバイト渋ってんの? 大学の研究に参加するってことはさ、コネができるってことじゃん。コネ。これは活用するしかないと思うんだけど」
「う、まあ、そうなんだけど……」
何で保留にしているか、という点に関してまでは考えが回ってなかった。痛恨だ。こんな破格の条件なら、悩む要素なんて微塵もないじゃないか。
「そ、そうそう、お給料がね、たいして良くなくて……」
「すみれ、あんた、何のためにバイトしてんの? 大学行くためでしょ? 目先の事と将来、天秤にかけるまでもないと思うんだけど?」
「う、いや、お金は大事……あっ、はい、ごもっともです……」
またしても苦し紛れに低賃金という設定を追加するが、キヌちゃんの大正論には太刀打ちできない。
……そういえば賃金形態とか待遇とかの話は一切聞いてなかったなあ。これはすぐにでも聞いておかないと。なんて思いながらも、私はがっくりと肩を落とし、キヌちゃんの言葉にただひたすら頷くことしかできなかった。
「……まあ、あんたの将来の事だから? 私も強制なんてできっこないけど……。でも、私は受けたほうがいいと思うな、その仕事」
「昨日ばあちゃんにもおんなじこと言われた」
説教をしめくくるキヌちゃんの言葉は、奇しくもばあちゃんに言われたこととほとんど一緒で。私はたははと笑うと、バイトがらみの話はそれで打ち切りになった。
それから昼休みが終わるまで、私とキヌちゃんは延々とゴシップを主としたくだらないおしゃべりに興じたのだった。
「ごめんくださーい」
「あらあら、すみれちゃん、いらっしゃい」
時間は過ぎて放課後、私は「BAR夢谷」の門戸を叩いた。あの後いろいろ考えたけど結局思考はまとまらなかったから、なら土壇場で決めればいいやってなもんだ。
瀟洒な佇まいのドアを開けて店内に首を突っ込むと、昨日と同じように澄んだ鐘の音とタバコを燻らせる睦美ママが出迎えてくれた。後ろ手でドアを閉める。私はおずおずと切り出した。
「あの……WWOのお仕事なんですけど」
「あら、受けてくれる気になった?」
睦美ママは、キラキラした目で私を見た。なんか知らんけど、妙に期待されちゃってるみたいで心苦しい。
「は……いえ、まだ検討段階というか、その……」
一瞬流れで「ハイ」と答えてしまいそうになったのを、あわてて濁す。それを決める前に、どうしても聞いておかなければならないことがあったからだ。
「あの、お給料とかって、いくらくらい貰えるものなんでしょうか」
我ながらいささか直球過ぎるとは思わなくもない。けれど、今の私にとってはそれが一番大事だ。突き詰めると、私がバイトをしているのは「お金のため」なのだから、今更取り繕ったりはしない。
睦美ママは私の言葉を聞いて数回ぱちくりと瞬きをした後、上品な笑い声を立てた。
「あら、そうよねえ。それを説明しないといけなかったわね。だってお仕事なんですもの」
睦美ママはニコニコしながらそういうと、カウンターの奥に据えてあったおしゃれな電話(ダイヤル式だ)を手に取った。
「わたしです。船守を寄越してちょうだい。ええ、そうよ。例の件。……ええ、お願いね」
睦美ママの物腰は実に柔らかだったが、電話の最中はどこか迫力めいたものを感じた。ほんとに結構偉いんだな、この人。
「いま、経理のものが来ます。ちょっと待っててね」
睦美ママはそういうと、ぱちんと指を鳴らしてカウンターに一杯のジュースを出現させた。魔法である。もはや隠す必要もないということなのだろう。
「どうぞ座って。遠慮しないでいいわ」
「えと、失礼します」
私は促されるままにカウンターテーブルに着くと、ジュースに口をつける。よく冷えていて、おいしかった。不思議な味わいだ。
「おいしいですね、これ。何のジュースなんですか?」
「自家製の木苺ジュースよ。お店では出してないものなんだけど、気に入ってもらえたかしら」
「ハイ。結構好きです」
「うふふ。それはよかったわ」
「やあ、すいませんね。いろいろ立て込んでいたもので、到着が遅れました」
なんて睦美ママと談笑していると、突然店の片隅のドアが開いて、中からひょろりと背の高い男が現れた。ぼさぼさの茶髪の男だった。高級そうなスーツがよれよれになっているのは、その激務ゆえか、はたまた性格か。
年は30代くらいに見えるけど、顔が日本人離れしているから正確な年のほどは推し量れない。北欧系だろうか。
ひどくくたびれた格好だというのに、角縁の眼鏡とその奥からのぞく眼光のせいで知的な印象を受ける人物だ。
「雇用条件の説明に、わざわざ経理を呼ぶ必要がありますか。人事の仕事でしょう?」
男は睦美ママに一つ苦言を呈して、私の二つとなりの椅子に隣に腰をおろした。
「ええと、WWO高岡支部の経理の船守です。よろしく」
船守さんはそういって、私に名刺を渡してきた。白地に名前と役職だけが書いてある、簡素極まりない名刺だ。フルネームは船守・R・修司さんというらしい。ミドルネームある人とか初めて見た。
「よろしくお願いします。岡嶋すみれです」
当然私は名刺なんて持ってないので、口頭で自己紹介。船守さんはひどくくたびれた顔でそれを聞くと、「ええ、よろしく」とだけ言った。なんていうか、今まで会ったWWOの人たちの中じゃ一番、覇気がない感じだ。
「それで、給与の話ですが。ヴィジットの事は聞いていますね。OSの事も」
「はい。大まかな話だけですけど」
「結構。詳しい話はこの冊子を読んでください。ざっくりとした話になりますが、WWOの戦闘部門は歩合制です」
「あ、そこまでは沙葺さんに聞きました。額までは聞いてないですけど」
「そうですか、結構」
船守さんは眼鏡をくいっと上げて、言った。
「報酬は、ヴィジット1体撃破につき日本円で2000万円お支払いします」
…………………………えっ?
なんかとんでもない額が聞こえた気がするんだけど、え、2000万円? 2千円の間違いじゃなくて? え?
私は聞いたこともないような大金に頭を混乱させながらも、さっき手渡された冊子に目を落とした。
……うん、かいてある。ヴィジット1体撃破で2000万円って書いてある。間違いじゃない、うん。
「ただし、OS課の皆さん方はWWO損害補償保険への加入が前提条件となりますので、手取り額はその千分の一……つまり、1体につき2万円となります。ここまではよろしいですか?」
私の興奮をよそに淡々と説明を続ける船守さんの言葉に、私はどうにか平静を取り戻した。2万円も結構な収入だが、それでも2000万よりはよっぽど現実的な数字だ。
だけど、その保険とやらの掛け金が撃破報酬の999/1000というわけだから……いかんせん暴利なように聞こえるなあ。
「えっと、その損害補償保険っていったい何を保障してくれるんでしょうか……?」
なので、聞いてみた。船守さんは特に表情も変えずに、「確かに暴利に聞こえるかもしれませんね」と言ってから、続ける。
「WWO損害補償保険は、ヴィジットとの戦闘で生じた損害……たとえばOSの破損などに伴う費用のうち、被契約者の負担を実費の1/1000とすることができます。また、OSの関連装備の購入費用、維持費、弾薬補給代金なども同様に1/1000負担とします。……ヴィジットを1体も撃破できずにOSを破損してしまった場合など、莫大な請求が発生しますからね。それこそ、人一人が一生働いてようやく返せるかどうかといった額です。そういったことを防ぐためにも、この保険は存在します」
あとで約款を渡しますよ、と締めくくった。
まあ、理にかなってるっちゃ理にかなってる気がする。保険の件は納得した。しかし、彼の話の中に聞き捨てならない点がある。
「あの、そのお話だと、OSの修理費用や弾薬の費用、全部私もちってふうに聞こえるんですけど……」
「ええ、そうですよ。ああ、心配なさらないでください。はじめは装備もレンタルなどがありますし、初期投資はほとんど必要ありませんよ。訓練に出席した場合はちゃんと研修扱いで固定給が発生しますしね」
私の懸念を、船守さんはあっけらかんと肯定して言ってのけた。
「給与の締日は毎月20日です。前月の20日から今月の20日までの報酬と支出を一括して計算し、毎月25日……その日が土日でしたら、その前日が給料日ですね。基本振り込みです。郵便局の口座は持ってますか?」
「あっはい」
「結構。WWOは郵便局さんで振り込みやってるんで、なかったら作ってもらう必要がありましたが、どうやらその手間は省けたようですね」
船守さんは、淡々と話を進める。どこで相槌打っていいかもよくわからないから、どうにもやりづらい。
「で、これが契約書になります。大して書くところはありませんが、ここ、名前と住所を書いてもらって、あとは口座番号くらいですかね。これを記入されると同梱の就業規約に同意したものとみなされるので、ちゃんと規約は読み込んでおいてくださいね。提出はできるだけ早めにお願いします」
「えと、はい」
「それと、これはOS用装備の申請書類です。リストはこちらの冊子に記載があります。リストは2か月ごとに更新されますから、届けていただければ都度頒布します。こちらは無料で」
「うわ、厚ぅ」
手渡されたリストは、冊子なんてレベルじゃなかった。辞書クラスの厚みがある。アスクル2冊分くらいかな。
しかし、これにぎっしりロボット用装備が記載されてるとするなら、これはこれで楽しめてしまいそうだ。自然とほほが緩む。
「さて、私からは以上ですね。何か質問はありますか?」
リストの表紙を食い入るように見つめ、期待に目を輝かせている私を華麗にスルーして、船守さんはトントンと書類をまとめ始めた。この人もなかなかマイペースな人だ。
「えーと、私未成年なんですけど、その、保護者の同意書とかは出さなくていいんでしょうか」
少なくとも、クレープ屋の時は提出した。あんな小さな個人商店でもそうなのだから、今回も必要かと思ったので聞いてみる。確か、今貰った書類の中には無かった。
「必要ありませんよ。未成年の就業に関しても、国から許可を頂いています。なにぶん非常事態ですから。むしろ、ご家族にも話してはいけません。それだけ機密性の高い組織なものでね」
「あ、話しちゃダメっていうのは沙葺さんに聞きました。そのぉ、記憶を消しちゃうぞ、とも」
「そうでしたか。それは結構。ちなみに記憶消去措置は一人につき5000円負担になりますから、ご注意ください。これは保険の補償の対象外……というか、罰金的なものだと思っていただければよろしいでしょう」
「わ、わかりました」
私はゴクリと唾をのんだ。簡単に記憶を消す事ができるっていうのも怖いが、それよりも今は罰金5000円が怖い。絶対に口外すまいと固く心に誓う。
「よろしい。質問が無いようでしたら、私はこれで失礼しますよ。まだまだ片付けなきゃいけない仕事が山になっているんでね」
船守さんはそういって席を立った。最後の方は睦美ママに非難じみた視線を向けてだったが、ママは完全に、あからさまにそれをスルーしてた。……何か思うところはあるんだろうな。
「お忙しいところ、ありがとうございました」
「いえいえ。今後のご活躍を期待してますよ」
お辞儀で見送る。船守さんは来た時と同じように、バーの片隅のドアに消えて行った。
「なんだか、お仕事受ける体で話が進んじゃってたわねえ。ごめんなさい、彼、少しせっかちなところがあるから」
「あ、いえ。大丈夫です」
船守さんがいなくなったのを見計らっての睦美ママに、私も恐縮しながら返す。
「それで、どう? 心は決まったかしら」
「……はい」
睦美ママの問いかけに少しだけ間をおいて、私はしっかりとした声で答える。もう、次の言葉は決まっていた。
「これから、よろしくお願いします」
いろいろ理由はあったけれど、ぶっちゃけ、2000万に目が眩んだ。