1章の2-女子高生と甘い誘惑-
昼休み明けての最初の授業が「機械力学」というのは、軽い拷問に近いものがあると私は考える。
さて、校則を侵してまでアルバイトに精を出す私だけれど。もちろん学校生活のほうも手は抜けない。
カネだけ貯まって大学落ちた、なんてのはいちばん最悪な結末だもん。ウチの親が浪人をさせてくれるとは到底思えないし、ここは国立だろうがスパッと合格できるだけの学力はつけとかないと。
と、意気込んだのはいいんだけど……
「えー、曲げモーメントの公式はかかる力と支点から作用点までの距離を乗じることによって算出できますが、この時の距離は力の方向に垂直な線上の距離で……」
教壇に立つ40半ばほどの男性教諭が、さっきから一人になったり二人になったりしている。白状しよう、すごく眠い。少しでも気を抜けば瞼が落ちてきて、思考が朝もやのように霧散してしまいそうになる。どうにもこの授業は苦手だった。
この授業が、というよりは、物理が苦手なのだ。もっといえば、数学からして苦手だ。試験になれば点は取れるから、出来ないというよりは純粋に嫌いなのだろう。
2年の選択の時には、物理じゃなくて地学をとろう。眠気への抵抗にほとんどのリソースを割いている頭の片隅で馬鹿げたことを思考しながら、ただただ機械的に板書を写す。そんな状態でまともな文字が書けるわけもなく、ノートにはミミズののたくったような字が躍ることになるが。
……最悪、試験の前に例題をやりこめばいい。理論は後でじっくり覚えるから。
最後の手段として関数電卓にプログラミングするという手も……いやいや、さすがにそれはカンニングだ。どうしようもならなくなるまではやめておこう。うん。
そんなことを考えながら、今はただ、この苦行じみた時間が過ぎ行くことを切に願っていた。
「で、どうかねすみれ君」
「きつい」
授業の合間の休み時間。机に突っ伏す私に、ニヤニヤ顔でキヌちゃんが話しかけてきた。私は顔をあげないまま、ぼそりと答える。
「新聞配達だっけ。なんでまた、そんなキツそうなのを選んじゃったわけ?」
そう。私は五日前から、近所の新聞販売店で朝刊配達を始めた。おかげで毎朝4時前起床で夜も10時には夢の中だ。なんと健康的なことだろう。
代償として、昼間は強烈に眠い。
「いやー、確かにキツいけどねー。高校生OKで時給1100円なんてさ、高岡じゃあそうそう無いんよ。朝早いから人にもほとんど会わないし……」
「でも拘束時間が2時間ぽっちならたいしたことないじゃん」
「それはまあ、そうなんだけど……」
言葉に詰まる。
キヌちゃんのいうことは一理ある。というか、私自身理解してたりするので、言い返す言葉はない。
ただ、ね……。
「一度さ、やってみたかったんだよね。新聞配達。古典的アルバイトの典型じゃん?」
「なんじゃそりゃ。あんた、目的忘れてない? 大丈夫?」
とまあ、そんな感じでキヌちゃんには盛大に呆れられてしまった。
さて、時間は過ぎる。放課後だ。
授業? 残りは現国と日本史だったからね。とても有意義に過ごせました。何で私理系の高校に通ってんだろう。
ともあれ、放課後だ。今日はクレープ屋のシフトが入ってないので、新たなバイトの面接に向かう。
面接の約束は5時に取り付けてあって、場所は学校から2キロほど離れた飲料メーカーだ。
で、現在4時半。急げば間に合う感じではある。柔道部へ向かうキヌちゃんと別れ、私は足早に教室を出た。
「岡嶋さん」
ところで、出鼻をくじかれた。
なんで急いでる時に限って呼び止めるかな。若干の苛立ちを感じながら振り向くと、そこには大場君がいた。大場哉太は、われらが電子機械科の学級委員長である。
頭髪を簡潔なショートカットにまとめ、詰襟の制服を一切着崩すことなく完璧に着こなした、まさに真面目一徹を絵にかいたような男の子だ。固い表情に前時代的なごつい黒縁メガネの組合せが、その「いかにもな真面目さ」に拍車をかけている。
「えーと、なに? 委員長」
急いでんのよ、と言外ににじませながら聞くと、委員長は澄ました顔で一枚の紙を渡してきた。学校で配られるプリントの類ではない。どこかチラシ風の……
「あ゛っ」
それはあまりにも乙女としてあるまじき濁音だったが、それを繕う余裕はすでに無かった。
「これ、君の名前が書いてあるけど。落し物か?」
「あ、ありがとう」
かろうじて謝辞を述べながらも、冷や汗が一筋頬を伝うのがわかった。
委員長が差し出したのは、一枚のチラシだった。近所のスーパーの安売りを知らせる、ごくごく普遍的なものである。
問題は、その裏面だ。
……まあ、察しの良い方ならもうおわかりだろうけど、つまり今日面接に行く会社の連絡先やら略地図やらが、メモしてあるのだ。そんな大事なものを落としてしまうとは、何たる失態か。そして、それを真面目一辺倒を地で行く委員長に拾われるなどと、何と間の悪いことだろう。私は心中で瞑目した。
ああ、わたしの短い高校生活、終わったなって思った。
「……教師に見つからなくて、よかったな」
「へっ?」
「廊下は走るなよな。それじゃ」
委員長はメモを私に渡すと、それだけ言って教室を後にした。確か生徒会執行部の雑用をやってるらしいから、そこに向かうのだろうか。
しかし、先ほどの言葉である。どうやら委員長はこのメモに書いてある内容についてある程度察しがついているようだが、それをどうしようということはしなかった。
真面目一辺倒だと思ってたけど、結構融通効くところもあるのかな。私はその背中が見えなくなったことで、ようやくほっと一息つけた。
そして私は廊下を全力ダッシュで駆け抜け、マッハで靴をはきかえ、一息に駐輪場から自転車を引っ張り出すと、猛然とペダルをこいだ。約束の時間まで、25分を切ろうとしていた。
で、
「結構早く着いちゃったなー……」
件の飲料メーカーの倉庫を見上げながら、私はぼそりとつぶやいた。そりゃそうだ。自転車を全力で漕げば、よほどの山道でもない限り2キロなんて10分もあれば着く。
約束の時間までまだ15分はある。約束の時間より早く押しかければ迷惑だろうし、されどあんまり倉庫のまわりをうろうろしているのもよろしくない。学校関係者に見つかるリスクも増える。
「どうしようか……」
「あれ、岡嶋っち。どしたの、こんなとこで」
「わぁっ!?」
軽く思案に暮れていたところに唐突に声を掛けられて、飛び上がる。振り向くと、そこには見知ったイケメンがいた。
「沙葺さん?」
「やぁ」
沙葺さんである。彼は人好きのする笑顔を浮かべながら、片手を上げて軽く挨拶をした。私もあわてて会釈する。
「なんでこんなとこに」
「それ、さきに俺が聞いたんだけど。……あー、そっか。アレだね、岡嶋っちはバイトの面接か」
沙葺さんは時計をちらと見て、私を見て、背後の会社を見て、ポンと手を打っていきなり正解をぶち当てた。
「は、はい。よくわかりましたね」
「うん。バイト志望が一人来るから、面接してくれって昨日言われてたからね」
「え、沙葺さんって、ここの社員さんなんですか?」
私はもう一度、某飲料メーカーの倉庫を見上げる。地方の支社とはいえ、誰でも知ってるような超有名企業だ。そんな企業に勤める人が、なんで場末のクレープ屋でバイトなんてしてるんだろう。
「いやいや、別に社員じゃないよ。ただのバイト。てか、俺まだ大学生だしね。面接はアレだよ。ここのバイトも長いから、妙に信頼されちゃってるみたいでね」
「いいんですか? それ」
「あんまりよくはないんじゃないの?」
沙葺さんは、実にあっけらかんと答えた。ここはズッコケるところかと一瞬思ったけれど、やめとこう。傍からみたら滑稽すぎる。
「うーん、でもバイト志望の子って岡嶋っちだったのか。女の子にはキツイと思うよ? ピッキング作業」
「ピッキン……泥棒ですか?」
「違う違う。まあ俺も最初はそっちがよぎったけどね。ピッキングってのは、簡単に言ったら出荷の手伝いだよ。ここだったら、箱詰めされた缶ジュースとかをトラックに積み込む作業だね」
「あ、はい。力には自信あるんで」
まあ、こっちも調べて面接申し込んでるわけだから知っててボケたのではあるが、沙葺さんは丁寧に説明してくれたので微妙にリアクションがとりづらい。ボケ殺しだ。
とりあえず腕まくりをして、力こぶを作るポーズをとって見せる。実際に力こぶなんてできないけどね。気分。
「うーん、意欲は買うけどなあ。……よし、じゃあちょっとタダ働きしてみようか。実際やってみて、できそうだったら採用ってことで」
「え、いいんですかそんなんで」
「まあ、あんまりよくはないんじゃないかな」
やっぱり沙葺さんは、あっけらかんと言ったのだった。
そうして、なんやかんやで小一時間後。
「で、どうかな。やっていけそう?」
「け、結構キツイ、です……」
沙葺さんの監督のもと荷物の積み降ろしを体験させていただいたのだけど、正直こんなにきついとは思わなかった。
缶ジュースが満載された段ボール箱がうず高く積まれている山をちびちび切り崩してカートに積み込み、トラックのところまで持って行って、積み込んでもらったらまた山を崩しにいくという単純作業ではあるんだけど、往復回数が半端ないおかげでたったの小一時間ですっかり消耗してしまった。これはかなり体力ないと無理だ。
なにより、これで時給800円は割に合わない。
「まあ、そうだよねえ。今回は縁がなかったということで……」
「ハイ……」
沙葺さんが、実に申し訳なさそうに告げた。
人生で初めて聞いた「今回はご縁が」だったけど、これ結構悔しいな。私は、落胆の色を隠せないながらも、何とか返事を返した。
「……そういえばなんだけど」
そんなとき。重くなった空気を払拭するように明るい声色で、沙葺さんが切り出した。
「紹介できそうなバイトがひとつある」
「!!」
私は少し下を向いていた顔を跳ね上げて、沙葺さんを真正面から見据えた。いつものイケメンスマイルが、このときばかりは菩薩の笑みに見えたのは仕方の無いことだ。
「うまくやると結構な稼ぎになる。俺もやってるんだけど、ちょうど先週ひとり辞めちゃって欠員があるんだ。岡嶋っちがいいなら、紹介しようか?」
「……その、うまくやると、っていうのは?」
捨てる神あらば拾う神ありとはこのことか! まあ捨てたのも拾ったのも沙葺さんだけどそれは置いておいく。
だけどあからさまにがっつくのはカッコ悪いので、ひとまず慎重な自分を装って気になった点に探りを入れてみることにする。
「ま、歩合制ってことだね。俺は先月あんまり成績よくなかったんだけど、それでも20万ほどは収入あったかな」
「にじゅっ……!」
絶句である。沙葺さんは大学生だし高校生とは待遇の違いもあるのだろうが、ひと月で20万なんてそこそこの優良企業の初任給レベルじゃないか。作者の月給よりも高給だ!
これは願ってもないチャンスだ。私は確信した。
「や、やりたいです! よろしくお願いします!」
今の私、たぶん目が¥になっているような気がする。つぶらな瞳と言っておけば恰好はつくだろうか。
沙葺さんはどこかに短く電話をかけ、あとは終始ニコニコしていた。
と、まあそんなわけで、沙葺さんのシフトが終るのを待ち、二人連れだって件の「稼げるバイト」先まで移動してるんだけど……。
あれー、これちょっとまずかったかなあ……
現在歩いてるところが、高岡駅前商店街から二つほど裏に入った通り。まあ所謂飲み屋街なんだよね。ちょっと裏手にはおそらくそういった用途に供するための宿泊施設なんかが建ってたりして、時間帯的に人もまばら。
沙葺さんの軽トラ(イケメンなのに意外なチョイスだ)に自転車を積んでここまでやってきたので、もしそういうアレでアレな状況になっても、私には有効な逃亡手段がない。ちょっとこれはまずいかもしれない。
そもそも沙葺さんの話、もう少し疑ってかかるべきだったかも。「歩合制でうまくいけば大金が手に入るバイト」なんて、ちょっと考えれば……。
しかしそうなると沙葺さんはどういうことなんだろう、中継ぎとかとりまとめとか、そんなだろうか。どうしよう、犯罪のにおいが……
「ははは、そんな怯えないで大丈夫だよ。あんまり女子高生が闊歩するような場所じゃないけど、君に悪さする輩なんてこんな田舎にはいないさ」
私の心中での焦りを知ってか知らずか、沙葺さんがそういって笑った。田舎ではって、都会だと悪さされるってこと? 怖いなあ、都会。
「いやあの、沙葺さん、そのぉ、バイトって……」
私は周囲の店舗を眺めながら沙葺さんに尋ねる。我ながら、なかなかに切羽詰まった声だった。すると沙葺さんは、
「ああ、最初はちょっと怖いかもしれないけど、慣れれば楽しくなってくるから。あんまり心配しなくていいよ」
と、満面の笑みでいうのである。これはアレだろうか、アレ確定ってことで認識していいんだろうか。……勘弁してくれ、私はまだ自分の体を安売りする気はないぞ!
「あ、あの! 私、きゅ」
「うん、着いた」
急用ができた、と逃亡を図ったが時すでに遅し。目的地に到着してしまっていた。
「いやあ、やっぱりこういうのって私には早いって言うか……」
などとじりじり離れようとしたのだけど、
「? さ、遠慮しないで入った入った」
「わ、わあ!?」
最後の逃亡のチャンスも、沙葺さんに背中をトンと押されてふいになった。
瀟洒な扉をくぐって倒れこむように店内になだれ込むと、澄んだ鐘の音色が頭上で聞こえた。
見渡せば、そこは落ち着いた古いジャズの流れるハイセンスでレトロモダンなバーだった。
黒檀だっけ、しっかり磨きこまれたやたら高級そうな木製のカウンターの向こうには、上品な装いで恰幅の良い壮年の女性が優雅にタバコを燻らせている。
どうにも、「そういうコト」が行われている現場にしては全体的に上品すぎるな。そんな気がして、私は数歩たたらを踏んだ後、きょとんとしてしまう。
「あらあらお嬢ちゃん、ここは未成年が遊びにくるようなところじゃないわよ。ちゃんとお酒の味がわかるようになってから、またいらっしゃいな」
おそらく店主と思しき女性はそう言って、手元の灰皿でタバコをもみ消した。
……その声色が実にやさしく暖かみと親しみにあふれていたので、やはり私を戸惑わせた。
「やあママ。この子だよ、さっき電話した補充要員」
「あら、そうなの沙葺くん?」
私の後ろから入ってきた沙葺さんが微笑みながら言うと、ママさんはすぅっと細めた目で私を見た。なんだか全部が全部を見透かされてしまっているようで、妙に居心地が悪い。
「あなた、お名前は?」
「えと、岡嶋すみれです……」
数秒そうやって観察の視線に耐えていると、ママさんは私を見つめたまま問いかけてきた。たったそれだけなのに、妙に迫力がある。私はたまらず、さらっと本名を名乗ってしまった。
「すみれちゃんね、いいお名前だわ」
ママさんは私の名を聞くと、細めていた眼を笑みの形に崩した。同時に、あの得体のしれない迫力も霧散していった。
「どうですか。岡嶋っち、結構素質あるでしょ」
「そうねえ。沙葺くんが連れてきた子の中じゃ、一番かもしれないわね」
一部始終を見ていた沙葺さんが、にこにこしながら私の肩にポンと手を置いた。これはセクハラになるんじゃなかったっけ……。
って、そうじゃなくて。
「あ、あの。素質ってなんですか? そもそも私、バイトの内容もまだ……」
「あら、沙葺くん、まだ話してなかったの? 私はてっきりみんな話してるものだと思っていたんだけど?」
「いやあ、あんまり人のあるとこで話せる話でもないかなって」
私が戸惑っていると、ママさんは困ったような視線を沙葺さんに向けた。視線を向けられた当の沙葺さんも、ちょっと困ったように頭をかいている。
いや、二人して困ってないでさ。間に挟まれた私が一番困ってるんだけど。
「そうねえ、じゃあすみれちゃん。私からここのお仕事を説明するけれど、自己紹介を先にしちゃうわね」
ママさんはそういうと、名詞を一枚取り出した。名刺なんてもらったの初めてだから作法もわからず、とりあえず受け取る。
「このお店、「BAR夢谷」の店主の戸部睦美といいます。よろしくね。みんなには「睦美ママ」って呼ばれているから、あなたも呼び方が見つからなかったときはそう呼んでちょうだいね」
「あ、はい。よろしくお願いします」
頂いた名刺(なんかすごくお洒落)を眺めていると、睦美ママがグラスにノンアルコールのブドウジュースを注いで、カウンターの席とともに勧めてくれた。
とりあえず座った。
私はこわごわと会釈して、一口。なめるようにして口をつける。すがすがしい甘味と芳醇な果実の香りが口腔内を満たした。
「そして、こっちも渡しておくわね。すみれちゃんに手伝ってほしいのは表のお店じゃなくって、こっちのお仕事なの」
「へ、あ、はい」
そう言って睦美ママが差し出してきたのは、またもや名刺だった。再び恭しく受け取る。今度のはお洒落さとはかけ離れた実利一辺倒って感じの白くて四角い普通の名刺。
「WWOジャパン 高岡支部 支部長……?」
肩書を読み上げてみたけど、さっぱりわからない。聞いたこともない会社名だ。思わず首をかしげる。
わざわざ「ジャパン」ってついてるから国際的な会社なのかも知れないが、それ以上は皆目見当がつかない。あとは、支部長っていうからには結構偉い人なんだなってことくらいかな。
名前はさっきの名刺とおんなじだった。
「それじゃ、すみれちゃんにやってもらうお仕事の説明を始めるけれど、いいかしら」
「は、はい。お願いします」
とは言ってみたものの、頭の中では一つも整理ができていない。
「いいお返事ね」
こっちの気を知ってか知らずか。睦美ママは柔らかな微笑を湛えたままである。
「すみれちゃんには、すごく大雑把に言って、異世界人の地球侵略を阻止するお仕事をやってもらいたいの」
「あ、異世界人ですか。最近多いですよねー、異世界からの侵略」
あー、異世界ね。なるほど、最近多いもんね。王道っちゃ王道だけど、ちょっと使い古されてる感があるというか、食傷気味な感はあるよねー。異世界モノ。
…………。
「……うぇえっ!? 異世界人!?」
「今日のおかずはハンバーグよ」くらいの軽いノリで放たれた睦美ママの言葉は、思わず「やったねママ、明日はホームランだ!」的なノリ突込みをかましてしまうくらいに突拍子もなかった。
「実は今現在、この地球……というよりも4次元世界は、意外と危機的状況に立たされているの。いわゆる異世界、5次元世界からの侵略によってね」
思わず立ち上がってしまったのを着席するように促され、私は少しばかり真剣みを増した。
睦美ママは、いつのまにかあの得体のしれない迫力を醸し出している。
……ってか5次元世界ってなんだ、ジャーク帝国?
「あ、5次元世界って言っても、ジャーク帝国じゃないからね。……って、さすがに知らないか」
隣に腰かけている沙葺さんが冗談めかして言ったのだけど、ばっちり知っていた私は曖昧な笑みを返しておいた。あ、なんのこっちゃって方は、「絶対無敵ライジンオー」で調べてみてね。90年代ロボット史に残る大傑作だから。
私もいつか学校が変形するんじゃないかって期待を抱いていたクチなんだけど、まさかこんな形でかなうとは思わなかったわ……。
「それで、黙って侵略されるわけにもいかないでしょう? だから、国連と私たちWWOで連携して、防衛を続けているわ」
「えっとその、WWO……ってなんですか?」
再び耳馴染みのない単語が飛び出してきた。先ほどの名詞にもあった名前だ。国連がどうこう言っていたし、字面からして、たぶんWHOとかそんな感じの国際的機関っぽいんだけど、いったい何の略なんだろう。とりあえずガンダムじゃなさそうだ。
私が首をひねると、睦美ママは続けた。
「ワールド・ウィザード・オーガナイゼーション……日本語でいうと、世界魔法機構」
「……ウィザードだったら、魔法使い機構じゃないんですか?」
なんだ、魔法って。半ば思考放棄した私は、どこか頓珍漢なところにひとまず突っ込んだ。
「本当はそうなんだけど、ゴロが悪くてねえ」
睦美ママは、そういってコロコロと笑った。私もつられて、なるほどハハハと苦笑した。いやハハハじゃないよ。魔法って何? いや、魔法って何!?
「ま、最初は驚くよね」
隣を見れば、沙葺さんが曖昧な笑みを浮かべていた。
睦美ママが話を続けたそうだったので、ゴクリと唾を飲み込んで少しか気持ちを落ち着けた私は、うなずく。
「最初に5次元世界の侵略が確認されたのが、1999年の夏。すみれちゃんも多分、覚えてるんじゃないかしら。あの年に、なにがあったか」
「え、それってもしかして……」
それ、「何があった」っていうより、「何もなかった」アレの事か……?
「そう、ノストラダムスの大予言。WWOも予言に備えて用意する時間がたっぷりあったから、何とか退けることができたの。おかげで、大予言は回避できた」
「だから、何も起こらなかったってことですか? MMRがあんなに騒ぎ立ててたのに、大して何の問題もなく21世紀を迎えられたのは、魔法使いのおかげだったってことですか……?」
ンなアホな。私は呆れ全開の顔で尋ねた。さっきから話が突拍子もなさすぎるせいで、さっぱり信じられないんだけど。
「ええ、そうよ」
睦美ママはこともなげに、しっかりと頷いた。マジかよ。こんどMMR読み返そう。
なんでも、ムーとかで一般公開されてる情報はよっぽど一部だけで、ほとんどはWWOに流れて保管されてたらしい。ノストラダムスだけじゃなくって、たとえばヨハネの黙示録だとか、マヤのカレンダーだとか、そういうのをまるっと収集して、未来に起こるとされてた大きな災害や戦争なんかを、WWOの水面下の暗躍で「本来の歴史」より大分マシな形に事態を治めてきたんだって。本当かよ……
「ていうか、そもそも魔法ってなんなんですか? 予言とか、ちょっとオカルトすぎてついていけないんですけど……」
まだ5次元世界からの侵略ってだけなら無理やり理解はできた。まだ科学の領域だ。ぎりぎり現実感がある。ないけど。
でも魔法ってなると、ちょっと、ねえ……?。私、SFは好きだけどファンタジーやオカルトはからっきしだから。あ、UFOやUMAはぎりぎりSFの範疇だと思ってるよ。
「うーん、ちょっと難しい質問ねえ。魔法って言っても、よくある手から火を出したり雷を出したりするものじゃないの。"異なる世界から情報を引き出す能力"のことを、私たち魔法使いは"魔法"と呼んでいるわ」
「異なる世界の情報……?」
まあたワケのわからない単語が出てきた。もう私オウム返しくらいしかできないよ。
「魔法っていうか、一種の超能力だよ。超能力。PSIとか、ESPってやつ」
すかさず沙葺さんがフォローに入った。超能力、超能力かあ……。超能力なら、ギリギリSFだよね。うん。まだ飲みこみやすい。
「ここでいう"世界"っていうのは、あくまで4次元世界内だけの話になるのだけどね。この世界は常に分岐を繰り返していて、その結果として数えきれないほど並列した世界を内包しているの」
「並行世界……パラレルワールド、ですか?」
私がそう尋ねると、睦美ママは静かにうなずいた。並行世界。なるほど、まだわかる。SFのガジェットとしても、よく用いられているからね。私もおぼろげに存在するんだろうなあって思ってたくらいだし。
「私たち魔法使いは、膨大な世界の同一存在……つまり「別の自分」から、様々な情報を取り寄せるの。熟練の魔法使いなら、燃え盛る炎の中にいる「別の自分」から「炎に囲まれている」という情報を引き出して周囲に炎を発生させたり、「別の自分」の位置情報を取り出して自分の位置情報を書き換えたりなんて事もできるわ。こんなふうに」
睦美ママが指をぱちんと鳴らすと、何もない空間からタバコが一本手の中に現れ、口に咥えたところで不意に小さな火が揺れた。ママは紫煙をたっぷり吸いこんで、吐き出した。
私は唖然としたまま、何も言う事が出来なくなる。こうもまざまざと見せつけられては……
「とはいえ、ここまで具体的な情報を取り出せるのは一部の本当に才能のある魔法使いだけで、ほとんどの魔法使いは漠然とした、概念のようなものしか引き出せないわ」
ひと吸いしただけの煙草を贅沢に灰皿に押し付けながら、睦美ママは語った。
「概念……」
「そう、概念。たとえば「別の自分」が「この世界」よりはるかに進んだ世界の科学者だったなら、高度な"技術"が情報として引き出せるわ。「この世界」の発展、特にブレイクスルーなんて言われるような技術革新の陰には、WWO、ないしは在野の魔法使いが絡んでいることが多いの」
フルメタかよ。
突っ込みそうになるのを、すんでのところで踏みとどまる。まさか魔法使いが昨今の科学文明を作り上げた立役者だったとか、そうやすやすと信じられるもんじゃないぞこれは。
「いや、でもそんな話、何の根拠もないじゃないですか。ちょっと私には信じられませんよ。さっきのは、ほら、手品かも知れないし」
自慢じゃないが、手品のタネを見破れたことなんて生まれてこのかた一度だってないのだ。とはいえ、苦しい言い分なのも理解している。
理解しているからこそのカラ強気でキッと睦美ママの目を見つめ返すと、ママは少し困ったような顔をした。
「そう? うーん、そうよねえ。確かに信じにくいわよねえ……。どうしようかしら」
「じゃあ、実際に体験してみればいいんじゃないですかね? ママなら3人、いけるでしょ」
「……そうね。それがいいわね」
どうやったら私を納得させられるか、という点にウンウンうなってた睦美ママに、どうやら沙葺さんが助け舟を出したようだった。睦美ママがにっこりとほほ笑んで、ポンと手を打つ。
「ちょっと待っていてね、今準備をするから」
そういってママがぱちんと指を鳴らすと、戸外でカランという乾いた音がした。何事かと思って振り返ると、入り口のドアの上からロールカーテンが落ちてきて、玄関灯が消灯した。ガチャリという音は、たぶん玄関の鍵がかかった音だろう。突然の事態に私は目を白黒させるばっかりだ。
「それじゃあ、いきましょうか。ごめんなさい、はじめてはちょっと気持ち悪くなるかもしれないわ」
「はひっ?」
私が変な声とともに再び睦美ママに振り返ると、彼女は実に柔和な笑みをたたえたまま、再び指をぱちんと鳴らした。
そして……
「は、へ、は? あれっ?」
気が付くと私の周囲の風景は、あのオシャレなバーから無機質な会議室風の部屋に移り変わっていた。あまりにも一瞬のことで、正直訳が分かんないんだけど。
救いを求めるように傍らの沙葺さんに目をやると、彼は実にさわやかなイケメンスマイルで答えてくれた。
「ようこそ、岡嶋っち。われらがWWO日本北陸方面第4支部……高岡支部へ」
どうしよう、さっぱり答えになっていなかった