塾帰りの帰り道、オレンジ色の街灯の下で僕らは――昭和五十年代の恋と、十数分の永遠
昭和五十年代の初頭、私が住んでいた地方都市の町外れには、まだ舗装されていない砂利道が残っていた。
夕刻になると、家々の軒先からは味噌汁の煮える匂いと、サンマを焼く煙が立ち上り、遠くの通りを走る豆腐屋のラッパの音が、妙に哀愁を帯びて響いていた時代だ。
当時、中学二年生だった私には、誰にも邪魔されない「聖域」があった。
それは、学校の裏手にある古い民家で営まれていた、個人経営の学習塾だ。
「先生、こんばんは」
「おう、来たか」
引き戸をガラガラと開けると、土間の向こうから、煎餅布団のような座布団に胡座をかいた塾長の低い声が返ってくる。
六畳一間の教室。天井からは煤けた裸電球が一つぶら下がり、頼りない黄色い光を落としていた。部屋の隅には、誰が弾くとも知れない足踏みオルガンと、うず高く積まれた古雑誌の塔。そして、煎り大豆のような乾いた匂いと、インクの匂いが混じり合った独特の空気。
この塾の生徒は、私一人だった。
先生は元高校の数学教師だという噂だったが、今は隠居同然の暮らしをしており、近所付き合いで私だけを教えてくれていたのだ。
マンツーマンと言えば聞こえはいいが、実際は、先生が新聞を読んでいる横で、私が黙々とプリントを解き、分からないところがあれば聞きに行くだけの時間だった。
だが、私はその孤独な時間が好きだった。
学校という騒がしい集団生活から離れ、裸電球の下で、ただ数式と向き合う静寂。そこは、思春期特有の自意識を持て余していた私にとって、完璧に守られた城だったのだ。
――彼女が現れるまでは。
秋風が吹き始め、陽が落ちるのが早くなってきた頃のことだ。
いつものように引き戸を開けると、そこに「異物」があった。
ちゃぶ台の向かい側に、ちょこんと座る小さな背中。
私が入ってきた音に気づき、その背中が振り返った。
「……こんばんは」
蚊の鳴くような声。
私は息を呑み、立ち尽くした。
見覚えがあった。同じクラスの女子、田所さんだった。
彼女は、クラスでも目立つ存在ではなかった。
当時のアイドルのような華やかな髪型でもなければ、男子の目を引くような派手な美人でもない。
肩くらいまでの黒髪を二つに結び、少し野暮ったい眼鏡をかけ、いつも教室の真ん中あたりで、仲の良い女子数人と静かに笑っているような、そんな「普通の」女の子だった。
「今日から入ることになったんだ。お前の同級生だろ? 仲良くやれ」
先生は、新聞から目を離さずにそう言った。
私は「はあ」とも「ええ」ともつかない間抜けな声を出し、彼女から一番遠い場所に座布団を敷いた。
私の聖域は、崩壊した。
男一人、女一人。そして無関心な老人一人。
六畳間という密室に、異性がいるという事実だけで、空気の密度が変わってしまったようだった。
私は、自分の靴下の穴が空いていないか気になり、詰襟のフックがきついのを我慢して留め直し、プリントをめくる音さえも慎重になった。
チラリと横目で彼女を見る。
彼女は背筋を伸ばし、真面目な顔で教科書を見つめている。その横顔は、教室で見かける時よりも大人びて見えた。
裸電球の薄暗い光が、彼女のうなじの産毛を金色に縁取っているのを見たとき、私は喉の奥がカラリと乾くのを感じた。
それから、奇妙な共同生活ならぬ「共同学習」が始まった。
会話はほとんどなかった。
私が来る時には彼女はもう座っていて、私が席に着くと、小さく会釈をする。
帰る時は、「お先に」と私が言い、彼女が「お疲れ様」と返す。
それだけの関係だった。
学校では、私たちは一言も話さなかった。
当時は、男子と女子が親しく話すだけで冷やかされる時代だ。私たちは廊下ですれ違っても、あえて目を逸らし、他人を装った。
けれど、その「無視」こそが、私たちだけの秘密の共有であるような気がして、私はすれ違った後の残り香にすらドキドキしていた。
十一月に入り、夜の闇はいっそう深くなった。
木枯らしが窓ガラスをガタガタと鳴らすある夜、塾の終了時刻になった。
「よし、今日はここまで」
先生が時計を見上げた。午後八時。
外は完全な漆黒だ。街灯もまばらなこの辺りは、月明かりがなければ自分の足元すら見えない。
私が鞄に教科書を詰め込んでいると、先生が唐突に言った。
「おい、田所くんを送っていってやれ」
「えっ」
私は手を止めた。田所さんも、驚いたように顔を上げた。
「最近は物騒だからな。女の子一人で帰すのは危ない。お前の家、途中だろ。大通りに出るまででいいから、ついててやれ」
先生は、それが当たり前のことのように言い放ち、奥の部屋へと引っ込んでしまった。
土間に残された二人。
心臓が、早鐘を打っていた。
「……ごめんね、悪いから、私一人で」
田所さんが遠慮がちに言った。
「い、いや! 先生に言われたし、ついでだから! 全然、ついでだから!」
私は裏返った声でそう言い、逃げるように引き戸を開けた。
冷たい夜気が、火照った頬を叩いた。
塾から大通りに出るまでの道は、大人の足で歩けば十分もかからない距離だ。
しかし、その夜の私にとって、それは永遠にも等しい長さに感じられた。
砂利道を踏みしめる音。
ザッ、ザッ、ザッ。
私の安物のスニーカーの音と、彼女の革靴の音が、微妙にずれたリズムで重なる。
距離は、二メートル。
並んで歩くのは恥ずかしい。かといって離れすぎるのも不自然だ。
私は彼女の斜め前を歩き、彼女は私の影を踏むような位置をついてくる。
会話はない。
何か話さなければと思うのに、言葉が出てこない。
「寒いね」と言えばいいのか。「今日の数学、難しかったね」と言うべきか。
頭の中でいくつものシミュレーションをしては、その全てがキザで不自然な気がして、飲み込んでしまう。
沈黙が痛い。
けれど、その沈黙は決して不快なものではなかった。
むしろ、言葉がない分、感覚が鋭敏になっていく。
背後に彼女がいるという気配。
風に乗ってふわりと漂ってくる、彼女のシャンプーの匂い。それは当時の安っぽいフルーツの香りだったけれど、私にとってはどんな高級な香水よりも芳しかった。
ふと、民家の玄関先にあるオレンジ色の街灯の下を通った。
私の影が長く伸び、その上を彼女の影が追い越していく。
一瞬だけ、二つの影が重なった。
ただそれだけのことで、私は全身の血が沸騰するような興奮を覚えた。
彼女も、今、同じことを考えているだろうか。
この沈黙を、気まずいと思っているのか、それとも心地よいと感じてくれているのか。
彼女でもないのに。
ただのクラスメイトなのに。
この暗闇の中、二人きりで歩いているという事実が、私を「デート」という甘美な錯覚に落とし込んでいく。
「……あの」
不意に、背後から声がした。
私は飛び上がるほど驚いて、立ち止まった。
「は、はい!」
振り返ると、田所さんはマフラーに顔を埋めるようにして、私を見上げていた。暗がりで表情はよく見えないが、眼鏡の奥の瞳が光っている。
「歩くの、速い……かな。ちょっとだけ」
「あ……ご、ごめん!」
私は赤面した。緊張のあまり、競歩のような速さで歩いていたのだ。
私は慌ててペースを落とした。
彼女が小さく笑った気配がした。
「ありがとう」
その一言が、冬の夜空に白く溶けていった。
その瞬間、私は確信した。
これは恋だ。
そして、図々しくもこう思ったのだ。
彼女もきっと、僕のことを悪くは思っていないはずだ、と。
その夜を境に、「送っていく」ことが暗黙の了解となった。
週に二回。帰り道の十数分。
私たちは少しずつ、話をするようになった。
「今日、国語の時間に当てられてたね」
「うん、答えられなくて恥ずかしかった」
「あの先生、意地悪だからな」
たわいない会話。中身なんて何もない。
けれど、私にとっては、その一言一言が宝石だった。
彼女が私に向かって言葉を発している。私だけが、彼女の「素」の顔を知っている。
その優越感が、私の自尊心を満たし、恋心を肥大化させていった。
私は、塾に行く前に髪を整えるようになった。
父の整髪料をこっそり使い、鏡の前で何度も角度を確認した。
靴下の穴にも気をつけたし、襟元から見えるシャツの汚れも気にするようになった。
彼女もまた、変わったように見えた。
ある日、彼女が赤いリボンのついた髪ゴムをしていた時、私は勝手に「僕のためかもしれない」と思い込んだ。
塾の休憩時間に、彼女がくれた飴玉の包み紙を、捨てずにポケットに入れて持ち帰った。
私は完全に、夢の中にいた。
彼女との距離は縮まっている。あと少しで、何かが始まる。
この帰り道が永遠に続けばいい。大通りについても、わざと遠回りをして帰りたい。
そんな妄想を抱きながら、私は彼女の隣(いつの間にか、斜め前ではなく、隣を歩くようになっていた)を歩いた。
手をつなぎたい。
何度もそう思った。
私の手の甲と、彼女の手の甲が、歩くたびに触れそうになる。
その数センチの隙間に、強烈な電磁場があるようだった。
もし今、私が手を出したら、彼女は握り返してくれるだろうか。それとも、軽蔑した目で私を見て、走り去ってしまうだろうか。
怖くて、できなかった。
この曖昧で、甘くて、安全な「勘違い」の中に留まっていたかったのだ。
季節は巡り、二月になった。
私立高校の受験が終わり、公立高校の受験を控えた、最も張り詰めた時期。
そして、この塾に通うのも、あとわずかという時期だった。
その夜は、珍しく雪が降っていた。
牡丹雪のような、湿った重たい雪が、音もなく世界を白く染めていく。
いつもの帰り道。雪明かりのせいで、夜道はいつもより明るかった。
雪を踏む音が、キュッ、キュッ、と鳴る。
吐く息が白い。
傘を持っていなかった私たちは、肩をすぼめて歩いていた。私の学ランの肩にも、彼女の紺色のコートにも、白い雪が積もっていく。
「寒いね」
「うん、寒い」
そんな当たり前の言葉を交わした後、沈黙が落ちた。
今日こそ、言おうと思っていた。
好きだ、と。
付き合ってほしい、とは言えなくても、せめて「高校に行っても、会いたい」と。
大通りの交差点が見えてきた。
あそこまで行けば、彼女とは別れなければならない。タイムリミットが迫る。
心臓が痛いほど脈打つ。喉が張り付く。
「あのさ、田所さん」
私は意を決して声をかけた。
「ん?」
彼女が立ち止まり、こちらを向いた。
雪のせいだろうか。彼女の頬は赤く染まり、眼鏡が白く曇っている。
その表情が、たまらなく愛おしくて、切なくて。
「……高校、別々になっちゃうけど」
「うん」
「その……また、どこかで」
言いかけたその時だった。
大通りの向こうから、一台の車がヘッドライトを照らして近づいてきた。 白いセダン。彼女の家の車だ。迎えに来ていたのだ。
「あ、お父さんだ」
彼女の声が弾んだ。
私の言葉は、ヘッドライトの光にかき消された。
「ごめんね、迎えに来てくれたみたい」
彼女は私のほうを見て、申し訳なさそうに、でもどこかホッとしたように微笑んだ。
「ここまで送ってくれて、ありがとう。……助かったよ」
助かった。
その言葉が、私の胸に刺さった。
ああ、そうか。
彼女にとって私は、暗い夜道を一緒に歩いてくれる、ただの親切な同級生だったのだ。
「ボディーガード」代わりの、便利な存在。
そこには、私が抱いていたような、熱っぽい特別な感情はなかったのかもしれない。
あるいは、彼女なりの淡い好意はあったのかもしれないが、それは私が夢見ていた「恋」とは、少し色の違うものだったのだ。
車のドアが開く。
彼女が乗り込む。
私は立ち尽くしたまま、動けなかった。
「じゃあね、元気でね!」
窓から顔を出して、彼女が手を振った。
私も反射的に手を振り返した。
「……うん、元気で」
車は雪を巻き上げて走り去った。
赤いテールランプが、雪の向こうに滲んで消えていく。
残されたのは、私と、降りしきる雪と、静寂だけ。
私の隣には、もう誰もいない。
ただ、彼女が立っていた場所に、雪が踏み固められた小さな足跡だけが残っていた。
結局、私は彼女に想いを伝えることはできなかった。
私たちは別々の高校に進み、自然と疎遠になった。
風の噂で、彼女が高校で彼氏を作ったと聞いた時も、私は不思議と泣かなかった。
ただ、あの冬の夜、塾からの帰り道で見上げたオレンジ色の街灯の光だけが、私の心の中でいつまでも点滅し続けていた。
あれから五十年近くが経った。
あの砂利道はもう舗装され、コンビニが立ち並び、夜でも昼のように明るい場所に変わった。あの古い塾も、とうに取り壊されて駐車場になっている。
今の若者たちは、スマホ一つで簡単に繋がり、簡単に別れていく。
暗闇の中で、手探りで相手の心を探り合うような、あんなもどかしい時間は、もう存在しないのかもしれない。
時折、ふと思うことがある。
あの時、私の勘違いは、本当に「勘違い」だったのだろうか。
あの十数分の沈黙の中で、私たちが共有していた空気、触れそうで触れなかった手のひらの熱。
あれは幻だったのだろうか。
いや、幻でもいい。
答え合わせなんて、しなくていいのだ。
美人でもない、どこにでもいる普通の女の子。
けれど、あの昭和の夜、裸電球と星空の下で、彼女は間違いなく私の「世界」そのものだった。
私は今でも、冬の匂いを嗅ぐと、あの果物の香りのシャンプーと、砂利を踏む音を思い出す。
それは、老いた私の胸の奥底にしまわれた、二度と取り出せない、けれど決して色褪せることのない、セピア色の宝石だ。
「送ってくれて、ありがとう」
記憶の中の彼女が、また雪の中で微笑む。
私はそっと目を細め、あの日の少年に戻って、呟くのだ。
――こちらこそ、ありがとう。僕に、恋を教えてくれて。




