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青春短編

塾帰りの帰り道、オレンジ色の街灯の下で僕らは――昭和五十年代の恋と、十数分の永遠

作者: 玻璃ヰト
掲載日:2026/10/23

昭和五十年代の初頭、私が住んでいた地方都市の町外れには、まだ舗装されていない砂利道が残っていた。

 夕刻になると、家々の軒先からは味噌汁の煮える匂いと、サンマを焼く煙が立ち上り、遠くの通りを走る豆腐屋のラッパの音が、妙に哀愁を帯びて響いていた時代だ。


 当時、中学二年生だった私には、誰にも邪魔されない「聖域」があった。

 それは、学校の裏手にある古い民家で営まれていた、個人経営の学習塾だ。


「先生、こんばんは」

「おう、来たか」


 引き戸をガラガラと開けると、土間の向こうから、煎餅布団のような座布団に胡座(あぐら)をかいた塾長の低い声が返ってくる。

 六畳一間の教室。天井からは煤(すす)けた裸電球が一つぶら下がり、頼りない黄色い光を落としていた。部屋の隅には、誰が弾くとも知れない足踏みオルガンと、うず高く積まれた古雑誌の塔。そして、煎り大豆のような乾いた匂いと、インクの匂いが混じり合った独特の空気。


 この塾の生徒は、私一人だった。

 先生は元高校の数学教師だという噂だったが、今は隠居同然の暮らしをしており、近所付き合いで私だけを教えてくれていたのだ。

 マンツーマンと言えば聞こえはいいが、実際は、先生が新聞を読んでいる横で、私が黙々とプリントを解き、分からないところがあれば聞きに行くだけの時間だった。


 だが、私はその孤独な時間が好きだった。

 学校という騒がしい集団生活から離れ、裸電球の下で、ただ数式と向き合う静寂。そこは、思春期特有の自意識を持て余していた私にとって、完璧に守られた城だったのだ。


 ――彼女が現れるまでは。




 秋風が吹き始め、陽が落ちるのが早くなってきた頃のことだ。

 いつものように引き戸を開けると、そこに「異物」があった。


 ちゃぶ台の向かい側に、ちょこんと座る小さな背中。

 私が入ってきた音に気づき、その背中が振り返った。


「……こんばんは」


 蚊の鳴くような声。

 私は息を呑み、立ち尽くした。

 見覚えがあった。同じクラスの女子、田所さんだった。


 彼女は、クラスでも目立つ存在ではなかった。

 当時のアイドルのような華やかな髪型でもなければ、男子の目を引くような派手な美人でもない。

 肩くらいまでの黒髪を二つに結び、少し野暮ったい眼鏡をかけ、いつも教室の真ん中あたりで、仲の良い女子数人と静かに笑っているような、そんな「普通の」女の子だった。


「今日から入ることになったんだ。お前の同級生だろ? 仲良くやれ」


 先生は、新聞から目を離さずにそう言った。

 私は「はあ」とも「ええ」ともつかない間抜けな声を出し、彼女から一番遠い場所に座布団を敷いた。


 私の聖域は、崩壊した。

 男一人、女一人。そして無関心な老人一人。

 六畳間という密室に、異性がいるという事実だけで、空気の密度が変わってしまったようだった。


 私は、自分の靴下の穴が空いていないか気になり、詰襟のフックがきついのを我慢して留め直し、プリントをめくる音さえも慎重になった。

 チラリと横目で彼女を見る。

 彼女は背筋を伸ばし、真面目な顔で教科書を見つめている。その横顔は、教室で見かける時よりも大人びて見えた。

 裸電球の薄暗い光が、彼女のうなじの産毛を金色に縁取っているのを見たとき、私は喉の奥がカラリと乾くのを感じた。




 それから、奇妙な共同生活ならぬ「共同学習」が始まった。

 会話はほとんどなかった。

 私が来る時には彼女はもう座っていて、私が席に着くと、小さく会釈をする。

 帰る時は、「お先に」と私が言い、彼女が「お疲れ様」と返す。

 それだけの関係だった。


 学校では、私たちは一言も話さなかった。

 当時は、男子と女子が親しく話すだけで冷やかされる時代だ。私たちは廊下ですれ違っても、あえて目を逸らし、他人を装った。

 けれど、その「無視」こそが、私たちだけの秘密の共有であるような気がして、私はすれ違った後の残り香にすらドキドキしていた。


 十一月に入り、夜の闇はいっそう深くなった。

 木枯らしが窓ガラスをガタガタと鳴らすある夜、塾の終了時刻になった。


「よし、今日はここまで」


 先生が時計を見上げた。午後八時。

 外は完全な漆黒だ。街灯もまばらなこの辺りは、月明かりがなければ自分の足元すら見えない。


 私が鞄に教科書を詰め込んでいると、先生が唐突に言った。


「おい、田所くんを送っていってやれ」


「えっ」


 私は手を止めた。田所さんも、驚いたように顔を上げた。


「最近は物騒だからな。女の子一人で帰すのは危ない。お前の家、途中だろ。大通りに出るまででいいから、ついててやれ」


 先生は、それが当たり前のことのように言い放ち、奥の部屋へと引っ込んでしまった。

 土間に残された二人。

 心臓が、早鐘を打っていた。


「……ごめんね、悪いから、私一人で」


 田所さんが遠慮がちに言った。


「い、いや! 先生に言われたし、ついでだから! 全然、ついでだから!」


 私は裏返った声でそう言い、逃げるように引き戸を開けた。

 冷たい夜気が、火照った頬を叩いた。




 塾から大通りに出るまでの道は、大人の足で歩けば十分(じゅっぷん)もかからない距離だ。

 しかし、その夜の私にとって、それは永遠にも等しい長さに感じられた。


 砂利道を踏みしめる音。

 ザッ、ザッ、ザッ。

 私の安物のスニーカーの音と、彼女の革靴の音が、微妙にずれたリズムで重なる。


 距離は、二メートル。

 並んで歩くのは恥ずかしい。かといって離れすぎるのも不自然だ。

 私は彼女の斜め前を歩き、彼女は私の影を踏むような位置をついてくる。


 会話はない。

 何か話さなければと思うのに、言葉が出てこない。

 「寒いね」と言えばいいのか。「今日の数学、難しかったね」と言うべきか。

 頭の中でいくつものシミュレーションをしては、その全てがキザで不自然な気がして、飲み込んでしまう。


 沈黙が痛い。

 けれど、その沈黙は決して不快なものではなかった。

 むしろ、言葉がない分、感覚が鋭敏になっていく。

 背後に彼女がいるという気配。

 風に乗ってふわりと漂ってくる、彼女のシャンプーの匂い。それは当時の安っぽいフルーツの香りだったけれど、私にとってはどんな高級な香水よりも芳(かぐわ)しかった。


 ふと、民家の玄関先にあるオレンジ色の街灯の下を通った。

 私の影が長く伸び、その上を彼女の影が追い越していく。

 一瞬だけ、二つの影が重なった。

 ただそれだけのことで、私は全身の血が沸騰するような興奮を覚えた。


 彼女も、今、同じことを考えているだろうか。

 この沈黙を、気まずいと思っているのか、それとも心地よいと感じてくれているのか。

 彼女でもないのに。

 ただのクラスメイトなのに。

 この暗闇の中、二人きりで歩いているという事実が、私を「デート」という甘美な錯覚に落とし込んでいく。


「……あの」


 不意に、背後から声がした。

 私は飛び上がるほど驚いて、立ち止まった。


「は、はい!」


 振り返ると、田所さんはマフラーに顔を埋めるようにして、私を見上げていた。暗がりで表情はよく見えないが、眼鏡の奥の瞳が光っている。


「歩くの、速い……かな。ちょっとだけ」


「あ……ご、ごめん!」


 私は赤面した。緊張のあまり、競歩のような速さで歩いていたのだ。

 私は慌ててペースを落とした。

 彼女が小さく笑った気配がした。


「ありがとう」


 その一言が、冬の夜空に白く溶けていった。

 その瞬間、私は確信した。

 これは恋だ。

 そして、図々しくもこう思ったのだ。

 彼女もきっと、僕のことを悪くは思っていないはずだ、と。




 その夜を境に、「送っていく」ことが暗黙の了解となった。

 週に二回。帰り道の十数分。

 私たちは少しずつ、話をするようになった。


「今日、国語の時間に当てられてたね」

「うん、答えられなくて恥ずかしかった」

「あの先生、意地悪だからな」


 たわいない会話。中身なんて何もない。

 けれど、私にとっては、その一言一言が宝石だった。

 彼女が私に向かって言葉を発している。私だけが、彼女の「素」の顔を知っている。

 その優越感が、私の自尊心を満たし、恋心を肥大化させていった。


 私は、塾に行く前に髪を整えるようになった。

 父の整髪料をこっそり使い、鏡の前で何度も角度を確認した。

 靴下の穴にも気をつけたし、襟元から見えるシャツの汚れも気にするようになった。


 彼女もまた、変わったように見えた。

 ある日、彼女が赤いリボンのついた髪ゴムをしていた時、私は勝手に「僕のためかもしれない」と思い込んだ。

 塾の休憩時間に、彼女がくれた飴玉の包み紙を、捨てずにポケットに入れて持ち帰った。


 私は完全に、夢の中にいた。

 彼女との距離は縮まっている。あと少しで、何かが始まる。

 この帰り道が永遠に続けばいい。大通りについても、わざと遠回りをして帰りたい。

 そんな妄想を抱きながら、私は彼女の隣(いつの間にか、斜め前ではなく、隣を歩くようになっていた)を歩いた。


 手をつなぎたい。

 何度もそう思った。

 私の手の甲と、彼女の手の甲が、歩くたびに触れそうになる。

 その数センチの隙間に、強烈な電磁場があるようだった。

 もし今、私が手を出したら、彼女は握り返してくれるだろうか。それとも、軽蔑した目で私を見て、走り去ってしまうだろうか。


 怖くて、できなかった。

 この曖昧で、甘くて、安全な「勘違い」の中に留まっていたかったのだ。


 季節は巡り、二月になった。

 私立高校の受験が終わり、公立高校の受験を控えた、最も張り詰めた時期。

 そして、この塾に通うのも、あとわずかという時期だった。


 その夜は、珍しく雪が降っていた。

 牡丹雪(ぼたんゆき)のような、湿った重たい雪が、音もなく世界を白く染めていく。

 いつもの帰り道。雪明かりのせいで、夜道はいつもより明るかった。


 雪を踏む音が、キュッ、キュッ、と鳴る。

 吐く息が白い。

 傘を持っていなかった私たちは、肩をすぼめて歩いていた。私の学ランの肩にも、彼女の紺色のコートにも、白い雪が積もっていく。


「寒いね」

「うん、寒い」


 そんな当たり前の言葉を交わした後、沈黙が落ちた。

 今日こそ、言おうと思っていた。

 好きだ、と。

 付き合ってほしい、とは言えなくても、せめて「高校に行っても、会いたい」と。


 大通りの交差点が見えてきた。

 あそこまで行けば、彼女とは別れなければならない。タイムリミットが迫る。

 心臓が痛いほど脈打つ。喉が張り付く。


「あのさ、田所さん」


 私は意を決して声をかけた。


「ん?」


 彼女が立ち止まり、こちらを向いた。

 雪のせいだろうか。彼女の頬は赤く染まり、眼鏡が白く曇っている。

 その表情が、たまらなく愛おしくて、切なくて。


「……高校、別々になっちゃうけど」


「うん」


「その……また、どこかで」


 言いかけたその時だった。

 大通りの向こうから、一台の車がヘッドライトを照らして近づいてきた。  白いセダン。彼女の家の車だ。迎えに来ていたのだ。


「あ、お父さんだ」


 彼女の声が弾んだ。

 私の言葉は、ヘッドライトの光にかき消された。


「ごめんね、迎えに来てくれたみたい」


 彼女は私のほうを見て、申し訳なさそうに、でもどこかホッとしたように微笑んだ。


「ここまで送ってくれて、ありがとう。……助かったよ」


 助かった。

 その言葉が、私の胸に刺さった。

 ああ、そうか。

 彼女にとって私は、暗い夜道を一緒に歩いてくれる、ただの親切な同級生だったのだ。

 「ボディーガード」代わりの、便利な存在。

 そこには、私が抱いていたような、熱っぽい特別な感情はなかったのかもしれない。

 あるいは、彼女なりの淡い好意はあったのかもしれないが、それは私が夢見ていた「恋」とは、少し色の違うものだったのだ。


 車のドアが開く。

 彼女が乗り込む。

 私は立ち尽くしたまま、動けなかった。


「じゃあね、元気でね!」


 窓から顔を出して、彼女が手を振った。

 私も反射的に手を振り返した。


「……うん、元気で」


 車は雪を巻き上げて走り去った。

 赤いテールランプが、雪の向こうに滲んで消えていく。


 残されたのは、私と、降りしきる雪と、静寂だけ。

 私の隣には、もう誰もいない。

 ただ、彼女が立っていた場所に、雪が踏み固められた小さな足跡だけが残っていた。




 結局、私は彼女に想いを伝えることはできなかった。

 私たちは別々の高校に進み、自然と疎遠になった。

 風の噂で、彼女が高校で彼氏を作ったと聞いた時も、私は不思議と泣かなかった。


 ただ、あの冬の夜、塾からの帰り道で見上げたオレンジ色の街灯の光だけが、私の心の中でいつまでも点滅し続けていた。


 あれから五十年近くが経った。

 あの砂利道はもう舗装され、コンビニが立ち並び、夜でも昼のように明るい場所に変わった。あの古い塾も、とうに取り壊されて駐車場になっている。


 今の若者たちは、スマホ一つで簡単に繋がり、簡単に別れていく。

 暗闇の中で、手探りで相手の心を探り合うような、あんなもどかしい時間は、もう存在しないのかもしれない。


 時折、ふと思うことがある。

 あの時、私の勘違いは、本当に「勘違い」だったのだろうか。

 あの十数分の沈黙の中で、私たちが共有していた空気、触れそうで触れなかった手のひらの熱。

 あれは幻だったのだろうか。


 いや、幻でもいい。

 答え合わせなんて、しなくていいのだ。

 美人でもない、どこにでもいる普通の女の子。

 けれど、あの昭和の夜、裸電球と星空の下で、彼女は間違いなく私の「世界」そのものだった。


 私は今でも、冬の匂いを嗅ぐと、あの果物の香りのシャンプーと、砂利を踏む音を思い出す。

 それは、老いた私の胸の奥底にしまわれた、二度と取り出せない、けれど決して色褪せることのない、セピア色の宝石だ。


 「送ってくれて、ありがとう」

 記憶の中の彼女が、また雪の中で微笑む。

 私はそっと目を細め、あの日の少年に戻って、呟くのだ。


 ――こちらこそ、ありがとう。僕に、恋を教えてくれて。

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