ふんぞり返る男
いつも通りの混雑した電車内。7人掛けのシートの真ん中に座った中年男性が、これ見よがしに両膝を大きく広げてふんぞり返っていた。仕立ての良いスーツを着たその男は、腕を組み、顎を突き出して目を閉じている。両隣の乗客は、男の太ももに圧迫されて肩をすぼめ、小さく身を縮めることを強いられていた。
さらに男は、混雑で乗客の体が少しでも触れるたび、「チッ」と大きな舌打ちを放つ。その横暴な態度と、男から漂う微かな香水と入り混じった加齢臭に、周囲の視線は冷たく突き刺さる。誰もがイラつき、けれど関わり合いを恐れて誰も声には出さない。満員電車のいつもの息苦しさを、自分の縄張りのようにさらに息苦しくする男。
それを少し離れたドア付近から遠巻きに見ていた、若い女性がいた。その女性が、携帯電話を持つ手を持ち替えた。その手を小さく持ち上げ、男を指さした。
それが、閉じた瞼の裏の気配として伝わったのか、男が「あ?なんだ?」と不快げに目を開けた瞬間、女性が指をパチンと鳴らした。
次の瞬間、男の傲慢なふんぞり返りがピタリと止まった。
「うわ、何このおっさん。めちゃくちゃ足広げてて邪魔なんだけど」
「自分の車だと勘違いしてんの? こんな良いスーツ着てて…育ちが悪すぎるでしょ」
「う……加齢臭きっつ。こっちに寄ってこないでほしい、イヤだってば」
「偉そうにふんぞり返ってるけど、大した役職でもないんだろうな。会社でも嫌われてそう」
「舌打ちとか、え~…マジで器が小さい。哀れなおじさん」
「こういう老害がいるから日本の満員電車は地獄なんだよ」
「毎日必死に働いてるアピール? 疲れてんのはお前だけじゃねえよ」
「リモートとか真っ先に撤廃したヤツかも、会社出てナンボだろうがっ。てか?」
「リモート自体自分がいまだにワカンナイから、コミュニケーション大事主義か…満員電車は無くならないわ」
「自分の父親がこんなところで他人に迷惑かけてたら、絶対に親子の縁切るわ」
「早く降りてくれないかな。存在自体がストレス」
「こんな狭い空間でしか威張れないなんて、私生活がよっぽど惨めなんだろうね」
「奥さん可哀そうだな…って、もう別れてたりして。くすくす」
「良いスーツなんだろうけど、何年前の?センスも昭和で止まってる。ダサっ」
車内の乗客たちが押し殺していた冷徹な本音が、津波のように男の脳内へと、どっと押し寄せてきたのだ。自分が「威厳ある社会人」ではなく、ただの「哀れで時代遅れの老害」として見下されている現実。何十人分もの強烈な拒絶と軽蔑が直接脳みそに響く恐怖に、男は顔を真っ青にさせた。組んでいた腕はガタガタと震え、広げていた両膝をあわててぴったりと閉じると、次の駅でドアが開いた瞬間に逃げるように飛び降りていった。
開いたドアから、冷えた電車内へムワッとした暑苦しい風が吹き込む。
男が飛び降りた駅は他にも降車した乗客が多く、指を鳴らした女性は、空いたシートの前にゆっくりと歩み寄り、ぽつりと言った。
「……皆の声を聞いて欲しかったのに」
それは逃げ去った男への言葉なのか、それとも、心の中で罵倒し合うだけで決して本音を口にしない、この満員電車に乗っていた乗客全員に向けられた言葉なのか。
彼女は静かに微笑み、空いた席へと腰を下ろした。




