二人分の食卓
深夜十一時四十五分。
オフィスの窓ガラスに映る自分の顔は、まるで見知らぬ幽霊のようだった。
目の下には濃い隈が張り付き、唇は血の気を失ってカサカサに乾いている。タイピングを続ける指先は冷え切って、感覚がほとんどない。
「七瀬、その資料明日の朝イチの会議で使うから。絶対に今日中に仕上げとけよ」
「……はい。わかりました」
背後から投げかけられた上司の無慈悲な声に、私――七瀬 実乃梨は、感情を完全に殺した声で返事をした。
私が勤めているのは、業界でも有名なブラック企業だ。毎月の残業時間はとうの昔に過労死ラインを超えている。同期は次々と心を病んで辞めていき、気がつけば部署で一番の若手は、入社四年目の私になっていた。
逃げ出したい。毎朝、満員電車に揺られながら「このまま電車が止まってしまえばいいのに」と本気で願っている。
それでも私がなんとか生きて、毎日この地獄のような職場に通い続けられているのには、たった一つの、絶対に手放せない理由があった。
カチャッ、と最後のエンターキーを叩き、時計を見る。
午前一時を少し回ったところだった。
終電はとっくにない。私は重い身体を引きずって深夜のタクシーに乗り込み、自宅のアパートへと向かった。
*****
「ただいま……」
重い鉄の扉を開けると、そこには外の冷たい空気とは全く違う、ひだまりのような温かさと、ふわりと漂う出汁のいい匂いが待っていた。
真っ暗な部屋に帰る孤独は、私にはない。
「おかえり、実乃梨。今日も遅かったね。お疲れ様」
パタパタとスリッパの音を立てて玄関まで出迎えてくれたのは、同棲している年下の彼氏、陽翔だ。
洗い晒しの柔らかいTシャツにエプロン姿。少し寝癖のついた柔らかそうな栗色の髪と、子犬のように人懐っこい、優しい垂れ目。
彼の顔を見た瞬間、私の中に蓄積されていた真っ黒な疲労とストレスが、スーッと溶けていくのを感じた。
「陽翔……起きててくれたの? ごめんね、こんな時間まで」
「実乃梨が帰ってくるまで起きてるって決めてるから。それより、早く手洗っておいで。すぐにご飯温め直すからさ」
陽翔に背中を押され、洗面所でうがいと手洗いを済ませてリビングに向かう。
ダイニングテーブルの上には、湯気を立てる美味しそうな料理が並べられていた。
今日のメニューは、私の大好物である和風おろしハンバーグと、ほうれん草の胡麻和え、そして具沢山の豚汁だ。
「わぁ……美味しそう。陽翔のご飯、本当に世界一好き」
「あはは、大げさだなぁ。でも実乃梨にそう言ってもらえるのが一番嬉しいよ。さあ、冷めないうちに食べて」
私は向かい合わせの席につき、両手を合わせた。
「いただきます」
箸でハンバーグを割ると、中からジュワッと肉汁が溢れ出す。大根おろしとポン酢のさっぱりとした味わいが、疲れ切った胃に優しく染み渡っていく。
「……ん! すっごく美味しい! お肉フワフワだね!」
「よかった。最近、実乃梨ずっと胃の調子悪いって言ってたから、お豆腐も半分混ぜてあるんだ。消化にいいはずだよ」
陽翔はテーブルに頬杖をつきながら、私が食べる様子を本当に幸せそうに見つめている。
その優しい眼差しに触れるたび、私は彼と同棲して本当に良かったと心の底から思うのだ。
「陽翔は? もうご飯食べたの?」
私がふと尋ねると、彼はニコリと笑って頷いた。
「うん、俺は先に済ませちゃった。実乃梨の帰りが遅くなるってLINE来てたからさ。でも、こうやって一緒にテーブル囲んでるだけで、俺もお腹いっぱいになるよ」
「またそんなこと言って。あ、そういえば豚汁のお鍋、もう空っぽだった? 明日の朝に少し残しておこうかなって思ったんだけど」
私がキッチンの方をチラリと見ると、陽翔は少しだけ慌てたようにパタパタと手を振った。
「あ、ううん、俺が全部食べちゃった! ごめん、実乃梨の分しか残ってなくて。明日の朝はまた別のもの作るから、実乃梨は気にせず全部食べて!」
「ふふっ、陽翔ったら本当に食いしん坊なんだから。いっぱい食べる陽翔も好きだけどね」
私は残りのハンバーグも豚汁も、綺麗に平らげた。
仕事のストレスで食欲が落ちていたはずなのに、陽翔の作る料理だけは不思議といくらでも食べられる。
彼が家にいて、私を待っていてくれる。ただそれだけで、私は明日も頑張ろうと思えるのだ。
「ごちそうさまでした。食器、私が洗うよ」
「ダメダメ、実乃梨は疲れてるんだから、早くお風呂に入って寝なさい。家事は俺の仕事でしょ?」
「でも、いつも陽翔に甘えてばっかりで……」
「いいの。俺は、実乃梨が美味しそうにご飯食べて、ゆっくり休んでくれるのが一番のやりがいなんだから。ほら、お風呂沸いてるよ」
強引に背中を押され、私は脱衣所へと追いやられた。
温かい湯船に浸かりながら、私は陽翔との出会いを思い返していた。
彼と出会ったのは、今から三年前。
当時、私は仕事のプレッシャーで完全に心を病みかけており、駅のホームでふらついて線路に落ちそうになったところを、偶然通りかかった彼に助けられたのだ。
大学生だった彼は、見ず知らずの私を心配してベンチで介抱してくれ、温かいココアを買ってきてくれた。
その時の彼の優しさと、太陽のように温かい笑顔に惹かれ、私から連絡先を聞いたのが始まりだった。
付き合って二年が経ち、陽翔が大学を卒業するタイミングで、私たちはこのアパートで同棲を始めた。
彼は現在、フリーランスのイラストレーターとして在宅で仕事をしている。だから、激務で家事を一切する余裕のない私の代わりに、料理や掃除、洗濯の全てを完璧にこなしてくれているのだ。
「本当に、私にはもったいないくらいの彼氏だな……」
湯船の中で、私は小さく呟いた。
彼を守るためにも、私がしっかり働いて、二人で暮らしていくためのお金を稼がなければ。
そんな決意を胸に、私はお風呂から上がった。
*****
翌日。金曜日の昼休み。
私は会社の近くにあるコンビニで、サラダとサンドイッチを買って自分のデスクでかじっていた。
休憩時間すら満足に取れないのがこの会社の常だ。
「七瀬さん、お疲れ様です。……あの、ちょっといいですか?」
ふと声をかけられ顔を上げると、一つ後輩の佐藤が、どこか心配そうな顔をして立っていた。
「佐藤さん、どうしたの?」
「いえ、あの……七瀬さん、最近ちょっと疲れてるのかなって思って。昨日も夜遅くまで残業してましたよね。ちゃんと寝てますか?」
「うん、ありがとう。でも平気だよ。家に帰ったら、彼氏が美味しいご飯作って待っててくれるから。それ食べたら、疲れなんて全部吹っ飛んじゃうの」
私が微笑んでそう言うと、佐藤の顔に奇妙な影が落ちた。
「……彼氏さん、ですか?」
「うん。同棲してるって、前に話したよね? 彼、本当に料理が上手で。昨日の和風ハンバーグもお店みたいだったんだよ」
私が嬉々として話すと、佐藤はなぜか、ひどく言いにくそうに視線を泳がせた。
「あの、七瀬さん……。その、変なこと聞くんですけど……」
「ん?」
「七瀬さんって、一人暮らし……じゃないんですよね?」
「だから、彼氏と同棲してるってば。もう一年くらいになるかな」
私は少し不思議に思いながら答えた。
佐藤はコクリと唾を呑み込み、周りの社員に聞こえないように声を潜めて言った。
「……この前、休日にスーパーで七瀬さんを見かけたんです」
「え? 本当? 気づかなかった、声かけてくれればよかったのに」
「その……七瀬さん、お一人だったんですけど……買ってる食材が、どう見ても『一人分』だったなって……。お肉も一番小さいパックだったし、お野菜もバラ売りで一つとか。……同棲してるなら、二人分買うんじゃないかなって、少し不思議に思って……」
佐藤の言葉に、私はきょとんとした。
「ああ、なんだそんなこと。うちは彼がよく食べるから、私が休日に買い出しに行く時は、ちょっと足りない分を買い足すくらいなんだよね。メインの買い物は、平日の昼間に彼が済ませてくれてるから」
私がそう説明すると、佐藤は「あ……なるほど、そうだったんですね。すみません、変なこと聞いて」と無理やり笑って見せ、そそくさと自分のデスクへと戻っていった。
(変なの。私が何を買おうと勝手じゃない)
私は少しだけモヤモヤした気持ちを抱えながら、冷たいサンドイッチを飲み込んだ。
確かに、私がスーパーで買う食材の量は少ないかもしれない。でも、それは陽翔が私の負担を減らそうと、自分がスーパーに行ける時はなるべく買いだめしてくれているからだ。冷蔵庫にはいつも、彼が作ってくれた常備菜のタッパーが並んでいる。
陽翔は本当に気配りのできる、完璧な彼氏なのだ。
その日の夜も、終電での帰宅になった。
アパートの扉を開けると、やはりそこには温かい光と、食欲をそそる匂いが満ちていた。
「おかえり、実乃梨。今日は少し早かったね」
「ただいま、陽翔。……ん? カレーの匂い?」
「正解! 今日は金曜日だから、実乃梨の大好きなシーフードカレーにしてみたよ。エビもイカもたっぷり入ってるからね」
リビングに入ると、テーブルには大皿に盛られたカレーライスと、彩りのいいコールスローサラダが用意されていた。
私は急いでシャワーを浴びて、スウェットに着替えてからテーブルについた。
「いただきます! ……んんっ、美味しい! 魚介の旨味がすっごい出てる!」
「ふふっ、よかった。スパイスも少しこだわってみたんだ」
陽翔は向かいの席に座り、ニコニコと私の顔を見つめている。
ふと、私は昼間の佐藤の言葉を思い出した。
「ねえ、陽翔。今日、外に出た?」
「え? ううん、今日は一日中家にいたよ。イラストの納期が近くて、ずっとパソコンの前に座りっぱなしだったから、ちょっと肩凝っちゃった」
陽翔は首をコキコキと鳴らして笑った。
「そうなんだ。……あのさ、陽翔って、いつも私が帰ってくる前にご飯済ませてるじゃない?」
「うん。実乃梨の帰りが遅いから、待ってるとお腹空いちゃうし」
「でも、たまには一緒に食べたいなあって思って。休日も、陽翔は朝早く起きて一人で朝ごはん食べちゃってるし……二人で一緒に『いただきます』ってしたいなって」
私が少し甘えるように言うと、陽翔は少しだけ困ったように眉を下げた。
「ごめんね、実乃梨。俺、食べるペースが人と違ったりして、一人で食べる方が気楽なところがあって……。でも、こうやって実乃梨が食べるのをずっと見てるのも、俺にとってはすごく幸せな時間なんだよ。俺も一緒に食べてるのと同じくらい、心が満たされるんだ」
陽翔の手が、テーブルの上に置かれた私の手にそっと重なる。
彼の掌は、少しひんやりとしていたが、確かな愛情を感じる温もりがあった。
「……そっか。わがまま言ってごめんね。陽翔がそう言うなら、いいの」
「ううん、実乃梨の気持ちはすごく嬉しいよ。ありがとう」
私はカレーを一口頬張りながら、彼の顔をじっと見つめた。
本当に、嘘みたいに優しくて、完璧な彼氏。
この幸せな日々が、いつまでも続けばいい。彼とこの部屋で過ごす時間だけが、私にとっての世界の全てなのだ。
だが、ふと私の視線が、キッチンのシンクに落ちた。
綺麗に磨かれたシンクの中にある、水切りカゴ。
そこには、私が今朝飲んだコーヒーのマグカップが一つと、昨日私が夕飯を食べたお皿が一枚だけ、ポツンと置かれていた。
(あれ……?)
陽翔は、先にカレーを食べたと言っていた。
なら、彼が食べたカレーのお皿は、どこにあるのだろう?
彼は食べた後すぐに洗って棚に片付ける几帳面な性格だっただろうか。いや、いつも「実乃梨の分と一緒に後で洗うよ」と言って、そのままにしておくことが多いはずだ。
それに、ゴミ箱の中を見ても、エビやイカの殻などの、シーフードカレーを作った時に出るはずの「生ゴミ」の形跡がない。
(……陽翔、お昼にスーパー行ったわけじゃないのに、この新鮮なシーフード、いつ買ったんだろう?)
「実乃梨? どうしたの、スプーン止まってるよ」
陽翔の声にハッとして振り返る。
彼は小首を傾げ、心配そうに私を見つめていた。
「あ……ううん! なんでもない! ちょっとボーッとしちゃって」
「無理しないでね。明日から土日だし、ゆっくり休もう? 俺、明日の朝は実乃梨の大好きなフレンチトースト焼くからさ」
「本当!? 嬉しい! 陽翔のフレンチトースト、ふわふわで大好きなの!」
私は心に浮かんだ小さな違和感を、無理やり心の奥底へと押し込んだ。
疲れているだけだ。仕事のストレスで、細かいことが気になってしまっているだけ。
陽翔が私のために美味しいご飯を作ってくれて、こうして優しく微笑んでくれている。それ以上の真実なんて、私には必要ないのだから。
*****
土曜日の朝。
目を覚ますと、部屋の中はすでに甘いバニラエッセンスとバターの香りで満たされていた。
「あ……よく寝た……」
時計を見ると、時刻は午前十時を回っていた。平日の睡眠不足を取り戻すように泥のように眠っていたらしい。
ベッドから体を起こし、リビングへのドアを開けると、キッチンに立つ陽翔の背中が見えた。
「おはよう、実乃梨。ちょうど焼けたところだよ。顔洗っておいで」
フライパンを持ったまま振り返った陽翔が、太陽のような眩しい笑顔を向けてくる。
洗面所で顔を洗い、ダイニングテーブルに向かうと、そこには約束通り、こんがりと焼き色のついた分厚いフレンチトーストが二枚、大皿に盛られていた。
粉砂糖が雪のようにまぶされ、その上から黄金色のメープルシロップがとろりと掛けられている。
「うわあ……お店みたい! すごく美味しそう!」
「一晩しっかり卵液に漬け込んだからね。中までフワフワのはずだよ。熱いうちに食べて」
「いただきます!」
フォークで切り分け、口に運ぶ。
じゅわっと染み出す卵と牛乳の優しい甘さ、バターの塩気、シロップの濃厚な香りが口いっぱいに広がった。
「ん〜っ! ほっぺた落ちそう! 陽翔、やっぱり天才だね!」
「あはは、喜んでくれてよかった。……ほら、口の端にシロップついてるよ」
陽翔が身を乗り出し、私の口元をペーパーナプキンで優しく拭ってくれる。
その自然な優しさに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
仕事の辛さも、平日の疲労も、この土曜日の朝のひとときがあるだけで、全て報われるような気がした。
「……ねえ、陽翔。フレンチトースト、一枚食べる?」
私がフォークを差し出すと、陽翔はやはり困ったように微笑んで、首を横に振った。
「俺は朝早くにパンをかじったから、お腹空いてないんだ。実乃梨がいっぱい食べて」
「そっか。……じゃあ、遠慮なく全部もらっちゃうね」
私は少しだけ胸の奥に引っかかるものを感じながらも、フレンチトーストを平らげた。
食後のコーヒーを飲みながら、私はふと立ち上がった。
「今日はせっかくの休みだし、私、洗濯機回すね。平日ずっと陽翔に任せっきりだったから」
「えっ、いいよ実乃梨! 洗濯くらい俺がやるから、座ってテレビでも見てて!」
陽翔が少し慌てたように立ち上がったが、私は「いいのいいの」と彼を制して洗面所(脱衣所を兼ねている)へと向かった。
洗濯機の前にある脱衣カゴを覗き込む。
そこには、私が今週着たブラウス、インナー、ストッキング、そして部屋着のスウェットなどが山盛りになっていた。
「あれ……?」
私は、カゴの中の洗濯物を一枚ずつ手で掻き分けた。
私の服。私の下着。私のタオル。
……陽翔の服が、一枚もない。
「陽翔、洗濯物、もう洗っちゃったの?」
洗面所から声をかけると、リビングから「うん! 昨日天気が良かったから、俺の分は先に済ませちゃったんだ!」という明るい声が返ってきた。
「そっか……」
私は洗濯機に自分の服を放り込み、洗剤をセットしてスタートボタンを押した。
洗濯機が低いモーター音を立てて回り始める。
その音を聞きながら、私は洗面台の鏡の横に立てられた、二本の歯ブラシに目をやった。
ピンク色の歯ブラシと、青色の歯ブラシ。
私のピンクの歯ブラシは、今朝使ったばかりでまだ少し濡れている。
私は無意識のうちに手を伸ばし、陽翔の青い歯ブラシの毛先に、そっと指で触れた。
「……乾いてる」
毛先は完全に乾ききり、少し硬くなっていた。
まるで、もう何ヶ月も水に濡らしていないかのように。
昨日も、今朝も、彼はここで歯を磨いたはずなのに。
ドクン、と。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
昨日、後輩の佐藤が言っていた言葉が脳裏に蘇る。
『お肉も一番小さいパックだったし、お野菜もバラ売りで一つとか。……同棲してるなら、二人分買うんじゃないかなって』
ゴミ箱に捨てられていないシーフードの殻。
水切りカゴに残された、一人分のお皿。
そして、決して私と一緒に食事を口にしない彼。
「……実乃梨? どうしたの、洗面所でずっと立って」
不意に背後から声をかけられ、私はビクッと肩を震わせて振り返った。
洗面所の入り口に、陽翔が立っていた。
いつもと同じ、優しくて、少し心配そうな、垂れ目の笑顔。
「あ、ううん! なんでもない! ちょっとボーッとしちゃって……ごめんね、今行く!」
私は慌てて笑顔を作り、陽翔の横をすり抜けてリビングへと戻った。
怖い。
これ以上、何かを確かめるのが怖い。
この完璧で幸せな生活に、決定的な「亀裂」が入ってしまうことが、何よりも恐ろしかった。
*****
月曜日。
私の精神状態は、最悪のどん底にあった。
週末に感じた奇妙な違和感が、頭から離れないのだ。
休日の間、陽翔はずっと私のそばにいてくれた。一緒にテレビを見て笑い合い、肩を並べてソファで眠った。
だが、彼が私の肩に触れた時の『感触』や『体温』が、どうしても思い出せないのだ。まるで、薄い膜を一枚隔てているかのように、彼の存在がひどく希薄に感じられた。
その集中力の欠如は、当然のように仕事での大きなミスを引き起こした。
「七瀬!! お前、この見積書の桁、一つ間違えてるぞ!! クライアントに送る前に俺が気づいたから良かったものの、そのまま送ってたら大損失だぞ!!」
オフィスに、上司の怒鳴り声が響き渡る。
周囲の社員たちが、一斉にこちらを見て息を潜めているのが分かった。
「も、申し訳ありません……すぐに修正いたします……!」
「最近のお前、ずっと心ここにあらずって感じだぞ! 入社四年目でこんな初歩的なミスするなんて、気が緩んでる証拠だ! やる気がないならさっさと辞めちまえ!!」
上司の容赦ない罵声が、私の心をガンガンと殴りつける。
私は何度も頭を下げ、逃げるように自分のデスクに戻った。
パソコンの画面が、涙で滲んで見えない。
もう嫌だ。辛い。苦しい。
今すぐ家に帰りたい。家に帰って、陽翔の作った温かいご飯を食べて、彼に「頑張ったね」と頭を撫でてもらいたい。陽翔だけが、私を肯定してくれる。陽翔だけが、私の味方なのだ。
震える手でキーボードを叩いていると、そっと隣から声がかけられた。
「……七瀬さん。大丈夫ですか?」
顔を上げると、後輩の佐藤が、悲痛な顔をして私を見下ろしていた。
「佐藤さん……ごめんね、お騒がせして。大丈夫、すぐ直すから」
「七瀬さん、もう無理しないでください。……私、見ていられません」
「え……?」
佐藤は、周囲の目を気にするように声を潜め、私のデスクに両手をついて身を乗り出してきた。
「七瀬さん……先週、私が『彼氏さん』の話を聞いた時、どうしてあんなに不自然な受け答えをしたのか、休日にずっと考えてたんです。それで、同期の子とかに昔の話を聞いて回って……私、思い出したんです」
「思い出した……?」
「七瀬さん、私が入社したての頃、一度だけ話してくれましたよね。……七瀬さんが、昔、駅のホームで倒れそうになった時、助けてくれた大学生の男の子がいたって」
その言葉に、私の全身の血の気が一気に引いていくのを感じた。
「やめて」
「その男の子……七瀬さんを突き飛ばして助けた代わりに、自分が電車に轢かれて……亡くなったって」
「やめて!!」
私は思わず立ち上がり、両耳を塞いで叫んだ。
周囲の社員たちが、何事かと驚いて一斉にこちらを振り返る。
「嘘よ! 陽翔は生きてる! 今も家で、私の帰りを待ってるの! 私のためにご飯を作って、笑ってくれてるの!! あなた、なんて酷い嘘をつくの!?」
「嘘じゃないです! 七瀬さん、現実を見てください!! あなたはずっと、一人暮らしの部屋で、一人で会話して、一人でご飯を食べてるんです!! 最近の七瀬さん、デスクでも誰もいない隣に向かってブツブツ話しかけたりしてて……みんな、心配を超えて怖がってるんです!!」
佐藤の目から、ボロボロと涙がこぼれ落ちていた。
彼女は本当に私を心配して、残酷な真実を突きつけてくれているのだ。
だが、私の脳はそれを完全に拒絶した。
『陽翔が、死んだ?』
そんなはずがない。だって、私は昨日も彼と話した。彼の作ったフレンチトーストを食べた。彼の笑顔を見た。
「違う……違う、違う違う違う!!」
私はデスクから鞄をひったくり、そのままオフィスを飛び出した。
「七瀬!! どこに行くんだ!! 勤務中だぞ!!」という上司の怒鳴り声も、今の私には全く届かなかった。
*****
外に出ると、いつの間にか冷たい雨が降り始めていた。
傘もささず、ヒールのままアスファルトを蹴り、私は自宅のアパートに向かって無我夢中で走った。
雨が顔を打ちつけ、視界を奪う。
息が切れ、肺が焼け付くように痛い。
それでも、私は走るのをやめられなかった。
確かめなければ。
陽翔が、私の愛する陽翔が、ちゃんと部屋で待っていてくれることを。
佐藤の言葉がただのたちの悪い嘘であり、私が狂ってなどいないということを。
「はぁっ……はぁっ……!」
アパートの前に着き、震える手で鍵を開ける。
重い鉄の扉を押し開けた。
「……陽翔ッ!!」
玄関で、私は彼の名前を叫んだ。
いつもなら、パタパタとスリッパの音を立てて、「おかえり、実乃梨」と笑顔で出迎えてくれるはずの彼。
出汁のいい匂いが、ふわりと漂ってくるはずの空間。
しかし。
扉の向こうに広がっていたのは、むせ返るような生ゴミの悪臭と、冷え切った、真っ暗な部屋だった。
「……え?」
私は濡れた靴のまま廊下に上がり、リビングの電気のスイッチを押した。
チカチカと点滅してから灯った蛍光灯の光が、部屋の惨状を無慈悲に照らし出した。
ダイニングテーブルの上には、和風ハンバーグでも、シーフードカレーでもない。
食べかけのまま放置されたコンビニ弁当のプラスチック容器。
賞味期限の切れた菓子パンの袋。
飲みかけでカビの浮いたペットボトル。
それらが、まるでゴミ溜めのように積み上げられていた。
「うそ……なに、これ……」
私はフラフラとキッチンへと歩み寄った。
シンクの中には、洗練された彼がいつも綺麗に磨き上げていたはずのシンクではない。
水垢とカビに塗れ、コンビニでもらった割り箸やスプーンが散乱し、異臭を放っている。
コンロには、火を使った形跡すら何ヶ月もないように、分厚いホコリが積もっていた。
私は震える手で、冷蔵庫の扉を開けた。
そこにあるのは、綺麗に並べられた常備菜のタッパーではない。
腐って黒く変色した野菜の切れ端。
賞味期限が半年も前に切れた、未開封の豆腐。
そして、半額シールが貼られたままの、一人分の安価なスーパーの惣菜の数々。
「あ……ああ……」
膝の力が抜け、私はキッチンの床に崩れ落ちた。
これが、現実。
これが、私の部屋の本当の姿。
私は、誰もいない真っ暗な部屋に帰ってきて、一人でコンビニ弁当を電子レンジで温め、ゴミ溜めのようなテーブルに向かって「美味しいね、陽翔」と虚空に話しかけていたのだ。
フワフワのお肉だと思っていた和風ハンバーグは、冷え切ったコンビニ弁当のレトルトの肉。
魚介の旨味だと思っていたシーフードカレーは、ただのカップラーメン。
休日のフレンチトーストは、パサパサの菓子パン。
ブラック企業での過労とストレス。
そして、自分を庇って死んでしまった大学生の彼に対する、耐えきれないほどの罪悪感。
それらが私の精神を完全に破壊し、私を守るための防衛本能として、『陽翔』という完璧な彼氏の幻覚を生み出していたのだ。
「ああああああああっ!!」
私は床に顔を押し当て、喉が裂けるほどの悲鳴を上げた。
狂っている。私は完全に狂ってしまった。
一人分の食卓。一人分の買い物。干からびた青い歯ブラシ。
「実乃梨」
不意に、頭上からあの優しく温かい声が降ってきた。
ビクッとして顔を上げると、ゴミ溜めのようなキッチンの真ん中に、陽翔が立っていた。
いつもと同じ、柔らかいTシャツにエプロン姿。
しかし、その体は蛍光灯の光を透かし、足元は輪郭がぼやけて、まるで蜃気楼のように揺らいでいる。
「陽翔……っ」
「ごめんね、実乃梨。気づかせちゃって」
陽翔の幻影は、悲しそうに眉を下げ、私の目の前に膝をついた。
「君があまりにもボロボロで、死んでしまいそうだったから。俺、君の心の中で、君を守るための都合のいい『彼氏』になるしかなかったんだ」
「違う……違うよ、陽翔はここにいるじゃない! 私と話してるじゃない!」
「俺は三年前、あの駅のホームで死んだよ。実乃梨の代わりにね。……君がずっと自分を責めて、心を壊しちゃったから、俺の幻影が生まれたんだ」
陽翔がそっと右手を伸ばし、私の頬に触れようとする。
しかし、その手は私の頬をすり抜け、何の感触も、何の温もりも残さなかった。
ただ、冷たい空気がそこにあるだけだ。
「もう、終わりにしよう、実乃梨。こんな幻を見て、ゴミみたいなご飯を食べてたら、本当に君の体が壊れちゃう。俺は君に、生きてほしくて助けたんだから。明日、会社を辞めて、ちゃんと病院に行って……新しい、君だけの人生を生きて」
陽翔の輪郭が、少しずつ薄れていく。
彼自身が、この狂った同棲生活の終わりを告げていた。
現実に戻れと。私という幻覚を捨てて、前を向けと。
本来ならば、ここで私は涙を流し、彼に感謝を告げて、現実と向き合う決意をすべきなのだろう。
でも。
「……嫌だ」
「え?」
私は、すり抜けるはずの彼の腕を、両手で空を切るように強く抱きしめた。
「嫌だよ、陽翔。行かないで」
会社を辞めたところで、私に何が残る?
心を病み、履歴書に傷がつき、誰からも必要とされない惨めな女が、孤独な現実世界に放り出されるだけだ。
毎日一人で冷たいコンビニ弁当を食べ、誰の「おかえり」もない暗い部屋に帰る。
そんな地獄のような現実に、なんの価値があるというのか。
「実乃梨……ダメだ、目を覚まして! 俺はただの幻だ! 君を愛してくれる本物の人間じゃない!」
薄れゆく陽翔が、必死に私を諭そうとする。
しかし、私は満面の笑みを浮かべて、彼の言葉を遮った。
「ううん、陽翔は本物だよ。私が、本物にするの」
私は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。
そこにある、黒く変色した野菜と、賞味期限の切れた豆腐を取り出し、カビだらけのシンクに置かれたまな板に乗せる。
「実乃梨! 何をしてるの! それはもう腐ってる!!」
「ふふっ、今日は陽翔が疲れてるみたいだから、私がご飯作るね! 陽翔が好きな、お豆腐のお味噌汁でいいかな?」
私は包丁を握り、腐臭を放つ豆腐を切り刻み始めた。
鼻を突く悪臭など、私には全く感じられない。
だって、ここは陽翔と二人で暮らす、温かくて幸せな愛の巣なのだから。
「やめて……やめてくれ、実乃梨……!!」
背後で、私を助けようとした恩人の幻影が、絶望に顔を歪めて泣き叫んでいる。
しかし、その声は次第に遠ざかり、私の脳内では、温かいテレビの音と、出汁のいい匂いに書き換えられていった。
「できたよ、陽翔。温かいうちに食べよう?」
私は、泥水のようなお湯に腐った豆腐を浮かべたお椀を、向かい合わせのダイニングテーブルに二つ並べた。
一つは私のため。
もう一つは、目の前の空間で絶望の表情を浮かべたまま固定された、永遠に年を取らない美しい彼氏のために。
「いただきます」
私は、誰も座っていない椅子に向かって、この世で一番幸せな笑顔を向けた。
二人分の食卓の向こう側で。
私の愛する陽翔は、今日も優しい笑顔で私を見つめ返してくれている。
もう二度と、私を一人にはしないと誓うように。




