世界が赤く染まった日
このエピソードでは、妻の摘出手術の経過について
描かれています。
手術や医療の状況をなるべく正確に表現しているため、
映像が思い浮かぶ描写になっています。
ただし、手術や医療に関する描写が苦手な方も
いらっしゃると思います。
無理に読む必要はありません。
完結後にまとめて読む、
あるいは読み飛ばすなど、
ご自身のペースでお楽しみください。
安心して読める範囲で、手術の先にある物語を
感じていただければと思います。
手術室に入る妻を見送った時の時のワタシの心境は
「手術は絶対に成功する。
手術後の日常生活への影響が心配。」
だったのですが、
妻の心境は…
「麻酔が覚めずにそのまま死んでしまったら
どうしよう。」
だったそうです。
8時半から手術が始まり、ワタシは待合所で手術が終わるのを待つことになりました。
時間の経過がこれほど遅く感じるのは長男の出産のとき以来だったと思います。
手術開始から五時間経過した13時半、ワタシは担当医から呼び出しを受けました。
予定よりも随分と早かったので、何か悪い事でも起きたのかと慌てて診察室へと入りました。
そこには担当医と数名のスタッフが立っていました。
「癌の摘出手術が終わりました。
舌の2/3と左下顎の大半を切除しました。
リンパ腺の一部に癌細胞が浸食していたので、
ここも切除しました。
手術自体は順調に進んでいます。
摘出した癌を確認しますか?」
担当医は手術経過を説明しました。
ワタシが「順調」というフレーズに安堵していると
「摘出した癌を確認しますか?」
再び担当医から問われました。
「せっかくなので確認します。」
ワタシは質問の意味を正確に理解しないまま、
反射的に答えました。
ワタシの記憶の中でーー
その光景は色を失っています。
正確には赤と白とグレーで記憶されています。
担当医は後ろに控えていたスタッフが持っていたシャーレを受け取ると、ワタシの目の前に差し出しました。
握りこぶし大の赤い塊がありました。
その中央の切口からは、ゴルフボール大の白い塊が一部見えていました。
「赤と白。」
グレー一色の空間に、この「赤と白」だけが
強烈に脳裏に焼き付きました。
担当医が説明します。
「白い部分が癌細胞です。事前の検査よりもかなり 肥大していました。切開して目視できる癌細胞は
すべて摘出しました。」
自分の握りこぶしを左頬に当ててみて、その大きさに愕然としました。
手術は無事に終わるのか。
手術後、顔は元通りに戻るのか。
想像するだけで血の気が引き、腰が抜けそうになりました。
「今は再建手術に着手しています。
おそらく五時間ほどかかります。
手術終了まで待合室でお待ちください。」
ワタシは担当医に一言告げました。
「よろしくお願いします。」
待合室に戻ると、壁の時計の秒針がただ回るのをぼんやりと眺めました。頭が真っ白で、時間の感覚は麻痺していました。
やがて看護師に呼ばれ、ICUへと案内されました。 気がつくと時刻は19時を過ぎていました。
ベッドの上には、手術を終えた妻が横たわっていました。傍らには担当医が立ち、手術結果を説明します。
「手術は成功しました。麻酔はあと数時間で覚める と思います。二日間はICUで経過観察します。
縫合した動脈に血流不良が起きた場合は、血栓を 取り除けるよう少し長めに縫合しています。
血栓が生じなければ、そのままです。
今日はお引き取りいただいて構いません。
明日の面会時間に状況を確認してください。」
担当医が退室した後、改めてベッドの上の妻を見ました。
手術直後で、顔の下半分は大きく腫れ、鼻や首筋、両腕や脇腹にはたくさんのチューブがつながっていました。
呼吸は人工的ですが、胸部がゆっくり上下しているのを見て、少し安心しました。
あまりにも痛々しい姿に涙が溢れました。
どうやっても涙を止める事ができず、妻に
「明日また来る」
とだけ声を掛けてICUを出ました。
病院を出るとすっかり日が落ちて、雨も降っていました。
気が付くと家に着いていました。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
手術の描写が続きましたので、
少し重く感じられたかもしれません。
次回以降のエピソードでは手術描写はありませんので
安心してお楽しみください。
これからも、夫婦の日常や想いのやり取りを
丁寧に描いていきます。
赤く染まった一日を越えた、その先の時間に
引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。




