ふりがなさんによるイジメの構造 イジメる側が悪いのか、それともイジメられる側が悪いのか
こんにちは、ふりがなです。
数あるイジメ問題の中でも、虐められる方も悪い所がある論は、ある意味でネットを賑やかにする、良い命題と言えます。
何故、多くの人が、虐められる方も悪い所がある論に大きな魅力を感じるのか。
世の中には多くの謎がありますが、これも魅力的な謎の一つです。
従来の私の場合だと、因果応報的な、虐められる側も何かしら悪い事をしているから虐められるのだという、公正世界仮説を取って来ました。
今回、虐められる側も悪いのだという人達は、単に順序立てて考えてないからだという仮説を立てまして、とりあえず、イジメを段階的な構造に落とし込んで説明してみます。
イジメを段階的な構造に落とし込んだ後に、虐められる側も悪いのだという人は残るのでしょうか?
今回はそんなテーマになります
一段階目
イジメニーズの発生
※個人の暴力性の発露
いったん暴力性の発露の原因を何にするかは決めずに、イジメ側の暴力性の発露の値を仮に値Nとします、
Nはとにかく手段を問わずイジメをしたいというニーズの値です。
二段階目
イジメニーズとイジメサプライ
※そのいじめは、実際に可能なのか
イジメ側のイジメ実行能力を仮に値Sとします。
イジメられる側のイジメ対処能力を仮に値Lとします。
イジメ側の実行能力の値Sに対して、イジメられる側の対処能力の値Lが劣っている時に、イジメの発生する条件が整います。
しかし、対処能力Lを実行能力Sが超えても、必ずしも、イジメは発生しません。
仮に身近にイジメ対処能力が劣る人がいても、イジメの意志がなければ、イジメはそもそも発生しないからです。
また、仮にイジメ側のイジメ実行能力が突出して高すぎる場合には、あらゆるイジメられる側は対処が不可能になり、この場合には、イジメ側は対象を選ばずイジメが可能という事になります。
まぁ、書くまでもなく自明ですね。
三段階目
倫理観点的なイジメ側の忍耐力が試されている状態
イジメの成立条件が達せられていて、かつ、仮にイジメのニーズのある状態でも、必ずしもイジメは発生しません。
それは、イジメ側が自身の暴力性の発露を自覚していても、我慢さえすれば、イジメは起こらない問題だからです。
イジメ側の忍耐力の値を仮に値Mとしましょう。
四段階目
イジメ側による、イジメられる側の対処能力Lの確認
※イジメの試し行為
イジメ側の忍耐力の値Mを、イジメ側の暴力性性の発露の値Nが上回ってしまいました。
よってイジメ側は実力行使に移ります。
しかし、イジメられる側の対処能力の値Lは、複数回に渡り、実際にイジメて確認してみなければ解りません。
必然的に、忍耐力に劣る精神性の未熟な暴力性のある個人がいる場合には、周りの人間にとりあえず喧嘩を売ってみて、総当たりの試し行為で相手の対処能力を調べてみると考えられます。
イジメ側による、イジメ対象の捜索です。
現実的に考えれば、急いで集団から隔離すべき段階と言えましょう。
五段階目
イジメニーズとサプライの一致
※社会的問題と言われるイジメの発生
イジメ側は、イジメ側の忍耐力の値Mを上回る、個人の発露暴力性の発露の値Nというニーズに従い、自分のイジメ実行能力の値Sより、イジメられる側のイジメ対処能力の値Lが少ない個人を、トラブルがない限りは、身近な相手から総当たりで探し出します。
そして、対処能力の低い相手を見つけ出し、イジメを実行します。
これが社会問題的なイジメの構造です。
イジメがここで解決出来ない場合には、総当たりの試し行為に従い、イジメニーズとサプライの一致が複数だった場合に、必然的にイジメは見つけた順番に段階的に次から次へと発生します。
これは集団を相手にしないためのリスク軽減のためです。
では、イジメ側が悪いのか、イジメられる側が悪いのか、どちらが悪いのか論を、条件から適当に確認してしまいましょう。
イジメ側が確実に悪い場合。
イジメ側の精神構造から、イジメ側の暴力性の発露が、イジメ側の忍耐力を上回らなければ、あらゆるイジメはそもそも発生しません。
故に異常な暴力性、もしくは異常な忍耐力の低さを持つ個人がいる場合には、四段階目の身近な人物に対して総当たりでイジメの試し行為が100%発生します。
そこから社会問題とされるイジメが発生するかは、イジメられる側の対処能力の値Lによってではなく、イジメ側の実行能力の値Sによります。
仮に、イジメ側の実行能力の値Sが突出していて、あらゆるイジメられる側の対処能力の値Lを上回っていた場合には、社会問題とされるイジメは対象を選ばず100%発生します。
この時に誰が悪いのかとすれば、当然、異常な精神性を持つイジメ側となるでしょう。
イジメられる側には一切の対処能力がありません。
そして、異常な精神性を持つ個人が、偶々、異常に突出した実行能力を持ってしまった事は、それは、ただただ運が悪かったと言えます。
この極論のケースから言えば、イジメ側が全面的に悪いのは必然と言えます。
また、この場合は、精神的異常性からイジメ側に責任能力があるとも言えず、イジメ能力の突出した精神的な異常者を排除出来ないシステムが悪いと言えるでしょう。
では、この極論的な条件に対して、偶々、運の悪い1人が混ざっていた場合はどうでしょう?
イジメ発生までの試し行為、四段階目において、相対的にイジメ対処能力の劣る個人が仮に1人でも居れば、社会問題とされるイジメは100%発生します。
イジメ側の対処能力Lを測る行為は総当たりで試されるからです。
イジメられる側が悪いのか、イジメ側が悪いのかが問われるのは、ここからです。
出てくる値は4つ。
暴力性の発露N
忍耐力M
イジメ実行能力S
そして、唯一イジメられる側の値であるイジメ対処能力Lです。
偶々、個人のイジメ対処能力の値Lが突出して低かった場合にはどう判断するのか。
イジメ側の実行能力の値Sが突出して高かった時と同じように、ただただ運が悪かったとするのか。
それとも、イジメられる側にも原因があると見捨てるのか。
イジメ側の精神性が異常で、実行能力が突出して高かったケースから、綺麗な対称性が浮かび上がります。
暴力性の発露-N
忍耐力M
イジメ対処能力L
つまり、暴力性の極めて薄い、忍耐力が常に暴力性を上回る、かつ、イジメ対処能力の突出して低い個人は、その人が悪いから100%イジメられるべきなのかという問いです。
これまで極論的に説明してきましたが、暴力性性の発露の値Nと忍耐力の値Mは、精神的異常者でない限り、常に変動していると考えられます。
偶々、複数人で暴力性の発露Nが忍耐力Mを上回り、イジメ対象を探す四段階目の行為が、集団内で同時に発生するとします。
当然ながら、先に話した暴力性の極めて低い、忍耐力が常に暴力性を上回る、かつ、イジメ対処能力の低い人は複数人の優先的な標的になるでしょう。
本来なら四段階目の行為は総当たりでイジメ対象を探す所が、対処能力の低い人が予め解っていれば、総当たりのリスクは一気に軽減されるからです。
結果的に、イジメは1人に集中します。
これが経験的な、イジメられる人にも原因がある論の正体ではないでしょうか?
この仮説に従い、暴力性の発露の偶発的な複数の発生と、それによる標的の集中が、イジメられる人にも原因がある論の正体だとすると、イジメられる原因の正体は、運に任せた、割と曖昧な物だという事になります。
個々人のイジメ実行能力や、イジメ対処能力は、結局は相対的な物でしかない上に、複数人から優先的な標的になるかどうかは、標的になりやすいタイミングで先にイジメられたかどうか次第だからです。
ですから、イジメられる側にも原因がある論の大半は、様々な集団内で、偶々相対的にイジメ対処能力がイジメ実行能力に劣る人がいて、偶々タイミングが悪かったから、標的になるのだといった主張となります。
結論から言えば、イジメの起こる原因は集団的な特性と言えますし、イジメられない方法はそもそも存在しません。
例えば、忍耐力を常に暴力性が上回る人が居て、かつ、その人のイジメ実行能力が高くても、イジメ対処能力が相対的に劣っていれば、その人をイジメる手段はいくらでも存在します。
そして、集団が大きくなればなるほど、集団による実行能力は、容易に個人の対処能力を超えるのです。
仮に、イジメられた事が一度もないという、能力的にも人格的にも極めて優れた人がいるとします。
その人がイジメの被害者になる条件は割と簡単です。
その人より更に能力的に優れた、精神的異常性を持つ精神的未熟者しか居ない、大きな集団に参加させれば、確実にその人は集団の標的になりイジメられます。
これは大きな集団が必然的にカーストを作り出し、自明的にイジメのニーズが発生し、かつニーズを抑える物がなく、イジメ実行能力が大きく、対してイジメ対処能力が相対的に突出して低い個人が居るからです。
自明的に、相対的に学習能力の大きく劣る個人を、精神的未熟性の目立つ、能力的には普通の集団に入れれば、確実にイジメに発展すると予測出来ます。
イジメの本質的な解決策は、集団に参加する個々人の精神的な成熟であり、対処能力云々の話には帰結しないのです。
もちろん、対処能力云々の話は個人的なイジメの多少の予防にはなりますが、集団が増えるに従い、精神的未熟者の母数が増え、カーストが発生し、相対的に対処能力の劣る弱者が発生し易い状況になれば、イジメの発生自体は避けられないし、精神的未熟者が増えすぎてしまった場合には、精神的未熟者は集団となり、その場合には誰がイジメの対象になるかは解りません。
それらの全ての要素は個々人の問題ではなく、集団の特性なのです。
イジメ予防には、精神の成熟や、カーストの発生する手前まで集団を少数にしたり、精神的未熟者の集団からの隔離が必要不可欠です。
そう考えると、イジメ側の隔離される一部の欧州の教育システムはいっそう合理的であり、精神的未熟者と確定した人を放置し続ける日本の教育は、常にイジメの火花の避けられない状況にあると言えるのかもしれません。
では、暴力性の発露の値Nを大きくする条件を少し考えてみましょう。
攻撃的になる条件を検索すると、AIくんがまとめてくれます。
以下、Google検索のAIから転載
ストレスと欲求不満:
ストレスが溜まると、それを発散するために攻撃的な行動をとることがあります。また、欲求が満たされない状況も、不満や怒りを引き起こし、攻撃的な言動につながることがあります。
不安や恐怖:
不安や恐怖を抱えている人は、周囲を警戒し、攻撃的な態度をとることがあります。これは、自分を守るための行動である場合があります。
精神疾患:
うつ病、統合失調症、パーソナリティ障害など、精神疾患が攻撃的な行動の原因となることがあります。
環境要因:
家庭環境、職場環境、学校環境など、周囲の環境が攻撃的な行動を助長することがあります。例えば、暴力を振るう人がいる家庭で育つと、自分も攻撃的になりやすい傾向があると言われています。
必然的に、競争に敗北したカースト中位以下の、家庭的に問題のある精神的に不安定な若い個人は、暴力性の発露Nの値が高くなりやすく、四段階目の行為が発生するかは、その個人の暴力性の性質や、忍耐力によると言えます。
では、忍耐力の値Mを大きくするには。
こちらは継続的な目標の達成と出ます。
あとは精神的な安定と、個人の持つ倫理観といった所でしょうか。
やはり暴力性の値Nに対しても、忍耐力の値Mに対しても、家庭の安定は必須です。
ですから、暴力性の値Nに対して相関があるであろう比較的、活動的もしくは活発ともいえる性質を持つ若い個人が、中位カースト以下にあり、家庭面での不安を抱えた場合には、イジメの発生確率は当然ながら、跳ね上がるでしょう。
何故なら、忍耐力を超えた次の段階である四段階目の試し行為は総当たりで、トラブルが起こらない限りはいじめ被害者を探し当てるまで続くと思われるからです。
また、個人の悪目立ちなど、イジメニーズの根本が、そもそも暴力性の発露の値Nと関係のない、異常者を追い出すためのケースも考えられますが、今回は割愛。
ついでにイジメ実行能力の値Sを上げる条件も考えてみましょう。
これはイジメ被害者の対処能力を超えるであろう、新しいイジメの知識や道具、そして人手を無数に与えるだけで簡単に達成出来ます。
知識や金銭的能力のある協力者が居る場合には、イジメ実行能力の値Sは跳ね上がるのです。
では、イジメ対処能力の値Lはどうでしょうか?
前述のイジメ実行能力の値Sを上げる方法に対しては、個人の対処能力はいかにも限定されているように考えられます。
こちらも、知識を持つ協力者が居る事によって、イジメ実行能力に対しては限定的ですが、ある程度までは引き上げられるでしょう。
総合的に考えれば、イジメに対して確たる対処方法の一切が確立していない日本の教育現場が崩壊していない理由は、主に三つに絞られると言えます。
一つ、イジメ実行能力は精神的未熟性に逆相関するケースが多いため、イジメ実行能力が低い事が、偶々多い事
一つ、イジメに積極的に協力する第三者が多くはない事
一つ、イジメ対処能力の低い被害者が自ら教育現場から退場する事
このイジメに対応する三つの柱が、事実上、今の日本の教育現場を支えているのです。
また、加害者側のイジメ実行能力が高く、クラス崩壊に至る最悪のケースでは、単にクラスで分かれているという物理的な壁が、イジメの過剰な拡大を抑えていると言えます。
一から適当に考えてみたけどこりゃ酷いってもんじゃない。
そりゃ現場は体罰で制圧するしかねぇって言うわけだ。