1節 宰相になった理由(ワケ) ①
全ての始まりは、春と初夏の境目頃、彼の二十五歳の誕生日のことだった。
「チッ、あのクソジジイ……」
閑散とした住宅街を、一人の草臥れたリーマンが悪態を吐きながら、早足で突っ切っていく。
「よりによって……今日は休日だってのに!」
この日は土曜日。仕事が終わっていないからと、休日出勤を強要された、しかも、明日には誕生日を控えているのだ。折角の誕生日、仕事疲れで丸一日寝て無駄になんてしたくない。ゆっくりのびのびと、好きなことをしたかった。そんな思いで、昨日の内に、今まで中途半端なところまで進めていた仕事、それぞれの最後の詰めを片付け、定時に帰れると思っていたのに。
「手抜きだの、生意気だと……? 誰の所為だと思ってやがる! 仕事の効率化を図って何が悪い。楽はズルではない‼︎」
そんな抉じつけで、昨日の終業直前に、無意味に思えるような面倒臭い仕事を押し付けられた。その日も残業した挙句、今日も形骸化した定時を三時間超えて、漸く退社。
「何が、いつまで経っても成長しねえ、だ。最近は仕事ミスってねえだろ。報連相は……まあ、最近は減った! それにどうせ聞かねえし……成長してねえのはアンタ等だろうがよ」
愚痴くらい喚き散らしたくもなる。それに、点々とある街灯以外、彼の文句を聞く者もいないのだし。
「そら見たことか……pythonのソルバーに、AIツール使えば一瞬。FAXに印鑑とか……pdfすら碌に使えん時代錯誤め、これだからジジイは嫌いなんだ」
人の目が無くなってから、ツールを使って作業効率を倍以上に。それでも真っ暗。時間にして22時半。
「しかも、相も変わらず間が悪いときている」
駅までの道で半分以上の信号に捕まり、駅を視界に捉えた瞬間、遅延でダイヤが変わりでもしていたのか、二十分に一本の電車が目の前で発車。次に来た電車は、駅途中トラブルで十数分立ち往生。不幸中の幸いは、席が空いていたことか。
「ふぅ……苛立つだけ体力の無駄だ。奴等にこれ以上の体力割いてやるもんか」
逆に、苛立つだけの元気が残っていた自分に驚いてさえいるほどだ。
「はぁ、漸くだ。良いことなんて一つもない、これがオレの人生かよ」
駅から大股の早足で十分。やっと住処のマンションが見えてきた。部屋は三階だが、その三十段が異様に面倒臭かった。
「ただいま、だ」
誰も居る筈のない1Kに挨拶をすると、スーツを雑に脱ぎ捨て、まずはユニットバスへ。湯船に浸かりたいところだが、時間も手間もガス代も惜しい。シャワーだけをさっと浴びて、部屋着兼寝巻きのスウェットを着ると、てきとうに洗濯機を回す。
そのルーティンを済ませて、漸く愛しの狭い自室に戻ってこれた。
しかし__
「妙だな……」
部屋がいやに片付いている。見回してみると、ベッド前のローテーブルの上に、母親からの誕生日プレゼントと思われる赤ワインがあった。メッセージカード付きだ。きっと日中にでも、この部屋に置いていったのだろう。
「お袋は、何を感じたんだろうかね」
残念ながら、如何わしいものなんて何もない。ハードワークで、精力など枯れ果てた。
「コルク抜きコルク抜き……そうだ、ケーキねえかな」
冷蔵庫を開くと、フルーツショートケーキが。そして引き出しを漁り、全く使っていないコルク抜きを苦戦しながら引っ張り出す。それを手にリビングに戻ると、メッセージカードに目を通し、もう寝ているであろう母に感謝のメッセージを打つ。親離れは済ませた筈なのに、まだ世話になることに恥ずかしさと申し訳なさを感じながら。
「これがオレの誕生日か……」
先程よりは少し明るい声音で、ワインの栓を開ける。キュポンという小気味良い音と共に豊潤な香りが広がり、酒にやや疎い彼でも高級なものだと判った。ここまで頑張った自分へのご褒美とばかりに、グラスをグイッと呷る。彼好みのフルーティな甘口だった。そして、ケーキをちまちまと食べ始める。
「これで、酔えればよかったんだがな」
アルコールが体に入り、顔が火照るのを感じる。しかし……気分の高揚は得られなかった。
「……少し飲み過ぎたか? ああ、マジか……もう日付変わるってなんなんだよ」
ボトル三分の一くらい飲んで止めることにした。そして次の仕事を考え、憂鬱な気分のまま布団に入る。
「二年間……頑張ったじゃないかオレ。そろそろ辞めてやるか。死ぬよかニートがマシってな」
フラッシュバックするのは、約一年前の出来事。入社二年目を間近に控えて、半端な正義感を発揮してしまったがために受けた、あの仕打ち。
『お前左遷されるんだってな。しかも、あの総務にwww』
異動させられた時の、顔も思い出せない年上後輩の言葉がチラつく。その数ヶ月後、中途採用だった奴は、繁忙期とモラハラに耐え切れず首を吊ったのだったか。同期は三割が去り、一割はこの世にいないと聞いた。
そんな嫌なことを思い出した所為だろうか、寝ようとして……寝付けない。余計にイライラとしてくる。
「はぁ……お〜い、聞いてっか、異世界の神様よォ」
右手を上げ、掌を天井に翳す。
「この哀れなオレさんに、超能力でも寄越して、異世界でのやり直しでもさせてください! ってな。はは……いつまでオレはガキなのやら」
年甲斐のない、厨二くさい痛い妄想。そんなことは分かっていたが、縋らずにはいられない。彼は、自分でも異常が分からなくなる程に、精神が追い詰められていた。
「あぁ……明日は久しぶりに実家にでも帰るか? 母の日でもあるし、な……」
唐突に来る睡魔。これを逃せば、きっともう寝られない。そう考えると、彼は深い闇の中へ意識を落とした。




