お兄ちゃんの授業3
全くひどい夜でしたよ。お便所に一人籠っておりまして、窓枠に掛けられたレースのカーテン、壁にぶら下がっている布製の道化師人形、低くぶんぶんと鳴っている換気扇の音、床の上のピンクの敷物なんかに囲まれながらも、彼らは皆よそよそしく、結局我が家の洋式トイレだけが私のお友達でした。そうしてお腹がキリキリして来るとその上に座り込んだり、胸の辺りがむかむかして来るとそれを抱きかかえたり、つまりは上の方はゲロゲロだし下の方はピーピーだし―――、失礼しました。こんな、直截的に言ってしまいました。
言ってしまったことは仕方がない、開き直ることにしましょう。そうなんです、嘔吐と下痢とでもう散々でした。嘔吐と言ってももう吐くものなんてありませんから胃液が出るだけ、あれ酸っぱくて苦くて嫌なものですね。下痢と言っても正体不明の液体ばかり、身体が雑巾みたいに絞られているようで体力がどんどん失われていきます。もう動けない、便座を抱きかかえていることももはや不可能、いつの間にかひっくり返ってしまっており、狭い天井で静かにいる電灯をながめながら、だらしなく口を開けてぜいぜいと喉を鳴らしながら辛うじて光って呼吸をしつつ何とか意識を保っているのがやっとという有様。そうこうしているうちにとうとう力尽きたんでしょうな、そのまま意識を失ってしまいました。つまりは失神というやつです。
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さて、それから暫くして意識が戻ったようなんですが、皆さん、ここからの話が少々大事になってきます。先程までの下品な話は忘れていただいて結構、ただ私が風邪をこじらせて体調大幅悪化により昏倒した、ということだけ覚えておいて頂ければよいのです。で、大事な話というのはその後のこと、失われた意識が次第に戻って来る、その過程なんですね。
先ず私が目覚めた時、と言ってもこれが何時のことなのかはっきりしません。ただ気が付いたら、目の前にお便所の天井で電灯が明るく輝いているという光景が、いつの間にか広がっていたのです。またこの時の状態というのが随分と特殊でして、そこが何処で何時のことなのかという意識がまるでない。勿論、眼前の光っているものとその周囲、というのが何かということも分からないし、名前も分からない。さらに言えば、ここが一番大事なことなんですが、そもそもこの二つ、光っているもの及びその周囲――今から考えれば電灯と天井なのですが――これらの境界線もなかったのです。だからこの二つは、二つのものとして見えていなかった。全てごちゃまぜで何の差異もありません。一つの混沌としか表現できますまい。またこの時には、自分自身としての“私”という意識もなかったのです。だから当然自分がこの光景をながめているという意識も全くないわけです。ちょっと訳が分からないですよね。大変特殊な状態です。その時そこで生じていたことは、ただただ単に何かがそこに見えている、ということだけだったのです。そしてその状況では他のすべてが欠落しておりました。そこが狭い密室だということも、その時が深夜か未明かということも意識にはありません。見えているものが電灯や天井だという意識もないし、その二つの名前だって分からない。というよりも、そんな名前がどうこうなんてこと自体全く思いつきもしません。そしてこれら二つを分かつ境界線もなく、そこにあるのは端的に一つの光景、であるのです。自分がどんな状態でどんな格好をしているのか、ということにも全く注意が向いていない。それ以前に“私”という意識が全くない。だから私がこの光景を見ているという意識もないわけで、文字通りただ一つの光景がただ単に見えていた、という状態だったわけであります。
ですからその状態が始まった時点、というのも分かりませんし、自分が失神状態から目覚めたという意識もありません。ただもう、本当にいつの間にかこの状態に、ただひょいと投げ出されていた、としか言えないのです。
また先程、この光景のことを天井で電灯が光っていると言いましたが、この時の私の意識の中では天井と電灯とは分かれてさえもいませんでした。今から考えれば天井と電灯とは別々に現れていたのでしょうが、決してそれらが別々のものとして見えてはいなかった。その光景が単なる一つの光景として浮かんでいただけ。私がこの光景を見ているという意識もないのですから、“私が見ている”という状態では決してないわけです。見る私、と見られているこれこれ、という図式が成り立っていない。本当に単純にその光景が一つのものとして、ただただ浮かんでいただけなのです。またこの場合、その情景が続いていた、継続してあったという表現もよろしくない。何しろ時間というものもないのですから。また見る私、と見られているこれこれ、という関係もないのですから、空間というものもありません。ただもう実際、何の差異もない、部分もないたった一つの全体というような光景が薄い膜のようにふわりと垂れ下がっているばかりだったのです。
そんな状態がどれ程続いていたことでしょう。すると何故だか突然、私の意識の中で何の前触れもなく天井と電灯とが分かれました。つまり電灯、というか何やら明るいものがあって、それが周囲の暗いところと別のものだ、という意識が生じてきたのです。それまでは天井と電灯とが一つのものとして、何の差異もない全体のようになって見えていた、しかしその時点から、今度は天井と電灯とが別々のもの、異なったものとして見えてくるようになったのです。そうしてその瞬間以降、――目の焦点を合わせるという表現を聞いたことがおありですか――その焦点を電灯に合わせ、今度はその光をぼんやりとながめるようになっていたのです。
それまでは電灯と天井とが、別々のものではなく、と言って別段溶け合っているというような具合でもなく、確かに別々ではあったんでしょうが何故だかそれら全てが均一な状態で一つの光景として見えていた、―――訳が分かりませんね、皆さん、まあ元々はっきりしない状態を説明しているんですから、何となくぼんやりとでも了解していただければよろしい。難しいかも知れないけれど思い浮かべてみてください。いろいろなものがあるにも拘らず、それらの区別が全くなく一つのものとして見えている。見ているという状態ではなくそんな風に見えているという状態です。それから今度はいきなりそれらが別々のものとして存在し始めるわけ。“あれ”と“これ”、そう、あれとこれとは別々のもの、違うもの、それまで一つであったものに線が引かれ、あれとこれ、という二つのものが現れてきた、という光景――――。
さて、そうなるとですね、他にも分かれて来るものがある。天井と壁との境界線とか、その下の四角い窓と白いカーテン、左手の方にはピエロの人形、いろいろなものが見えて来る、ただこの時点でも名前はまだ出て来ない。それら一つ一つの区別はつくのですが名前は出て来ない。またそれらの名前が思い浮かばないということが、別段不思議とも思われない。いろいろな形のもの色のもの、様々に区別されたものが目の前に浮かんでいるだけ、そんな状態です。
それから今度はかなり重要な意識が芽生えます。いろいろなものから構成されているこの光景、これはあちら側、つまり外だ、という意識、そしてこのような光景に対峙して、こちら側で、内の方であれこれの想いが流れているところがある。あちらとこちらがそれぞれある、という意識です。つまりは、あちらが即ち外の世界、こちらが即ち自分という訳です。ただ、外の世界とか自分とか言った意識はこの時にはまだありません。単にあちらとこちらと言う意識があるだけ。けれど大切なことは、あちらとこちらが区別されたということ、あちらとこちらの間には境界線が引かれた、ということです。あちらの世界には様々に分割された各部分からなる完成したジグソーパズルのような景色があり、こちらの方には色々な想いが流れているこの場、というものがある。
次には、あちらの世界を形作っている各部分が平面的なものの集まりではなく、立体的なものどもで、さらにそれらがそれぞれ離れていたりくっついていたりと、距離的な相違があるということが意識されるようになり、そうすると今度はそれらのものどもから成るあちらの世界とこちらの方とも、やはりある一定の距離があり、離れているんだという意識が加わってきます。先程から意識されていた、あちらとこちらというものが、こうして次第に明らかになってきます。特にあちらの方ですが、どんどん細分化されていきますね。ただこちらの方ですが、ここでは吃驚するような変化が生じます。
というのは何と、こちらの中で『さっき』という意識が現れて来るのです。あちらを眺めているこちら、その次にあちらを眺めているこちら、そのまた次にあちらを眺めているこちらという連続した意識、あちら、つまりこのお便所の光景をながめているこちら、つまり私の心、ですな、このこちらはさっきのこちらとは違うものなのだ、ということが分かってくるのです。さっきというものとその次というものとの間に境界線が引かれるんですね。そうすると、こちらの中に、つまり私の心の中に『さっき』と『あと』というものが出現することになる。こちらの方には確かに、さっきあったこちら、その後のこちら、更にその後のこちら、と幾つものこちらが連続的に存在している。これらは幾つにも分けられている。そうした意識が出て来ると、さっきというものの他に『これから』というものが生まれ、ついにはさっきとこれからとの境目に『今』というものが意識の中に浮かび上がってくるのです。
ここまで来ると、ついに決定的な意識が現れます。即ち、今・ここという意識です。そしてこの今・ここという意識こそが、今・ここにいる自分という意識なのです。この今・ここにいる自分という意識こそ全ての出発点、ということに一般的にはなるようなんですが、でもね、こうして実体験から見てみると、これって随分後から現れて来るものなんですよ。
さあ、こうして私は、ある日の深夜自宅のお便所でひっくり返っている自分というものを漸く思い出したわけです。そうしたら自分の周囲のものも見極められるようになる。頭上の電灯も天井・壁のクロスも窓もカーテンも、換気扇も吊り下げられたピエロの人形も全てが見分けられるようになる。その形態・色は勿論、名前もね。いや、名前は思い出したというべきかな。それから今は何時頃だろうとか、自分の体調はどうだろうとか、こりゃ明日も動けまいなとか、まあ色々なことが頭の中で駆け巡るのです。昏倒から目覚めた頃の真っ白けの状態とはえらい違いですわ。あっと‥‥それからその時の私の身体の状態ですけれども、まあまあ我慢できる程度には回復しておりました。あの地獄のような吐き気も腹痛も何とか治まっていましたのでね。兎にも角にも皆さん、こういうときにはさっさと気絶してしまうのが一番かも知れません。ただ時と場所をお考えになっていただきたい。冬場に薄着ではますます不味いことになりますし、倒れた時にどこかに頭をぶつけたなんて日には洒落にもなりません。
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