王子と死別した悲劇の令嬢は、実はどこにもいない。
本来、自分のような男は、爵位を継承している兄の手伝いに回るか、騎士として武勲を立てて爵位を賜るかしない限りは、屋敷の主人になるような事はありえない。
特に三男ともなると両親からの熱心な教育も受けることはできないし、特別優秀であればなにかしら城の文官の仕事に推薦してもらえたりしたのかもしれなかったが、ギルベルト自身、特に頭もよくない。
そんなわけで、気の向くままに体を動かし騎士の仕事に就くと特別重要でもない王太子妃の護衛を任された。
王太子妃エーリカは、王太子に見初められるまでは伯爵家後継ぎとして育てられていたが王太子の求婚によりはれて王室に入ることになった。そんな彼女を長い事、護衛してきた。
しかし、王太子は日々の不摂生がたたり若くしてこの世を去った。
エーリカは夫を亡くした未亡人として教会に入り神に身をささげるはずだったが、献身的に王太子に尽くしていたこともあり、国王から特別に生家を支えることを許された特殊な状況にある。
そして、そんな彼女に王命で婿入りすることになったのが、歳周りも丁度良く見知った関係であった、ギルベルトだった。
今は伯爵家の領地に戻り、新婚の為に建てられた別邸で一応屋敷の主人として暮らしている。
けれども日々の習慣は抜けないし、何ならエーリカのおかげでこんな身分にしてもらったのだから、と護衛だった時と同じように毎晩屋敷を見回って、最後に彼女の部屋にも異常がないかを確認してから就寝する。
やれと言われているわけでもないが、こうして異常がない事を確認すると安心する。
いつもの通りにランタンの小さな明かりだけを頼りにして廊下を歩く。今日も屋敷に異常はない。強いて言うなら、今日は満月で比較的明るい夜だというぐらいだ。
……ランタンがなくても歩けそうなぐらいだな。
考えつつも最後にエーリカの部屋の前へと向かう。彼女に見つかると夫になったのだから、そういう事はしなくていいと言われるが、正直、彼女がギルベルトを夫だと本気で認めているとは思えない。
一番そばで見ていたから知っているがエーリカはあれほど横暴で、良い所を探す方が難しい男をきちんと愛していたし、ずっと優しかった。そんな愛情深いエーリカは両親を支える為に伯爵家の爵位を継いだに過ぎない。
王命で与えられた配偶者であるギルベルトの事も当然受け入れるが、夫面をして大きな顔をするのは違うだろう。
……。
だからこうして、自分なりの距離感を保ち、ギルベルトは新婚生活を送っていた。エーリカの部屋の前へと到着すると、いつもとは違い、薄く扉が開いている。
すぐに腰に差している剣に手を伸ばし扉を見つめるが、その扉はゆっくりと開いて、そこにはギルベルトの持っているランタンの明かりだけに照らされて、薄く微笑むエーリカの姿があった。
「ギルベルト、あなた今日も見回りをしていたのね」
しっとりとした柔らかい声が名を呼んで、少し責める様な口調で言った。それに、少しだけ罰が悪くなって、視線を逸らして「癖なんです」とそっけなく答える。
「そう……そうね。そういう事にしておきましょうか」
責めるでもなくエーリカは言って、それからゆっくりと体を翻して部屋のなかへと戻っていく。目線だけで追っていると彼女は振り返らずにいう。
「少し、話をしましょう」
誘われたというよりも、命令に近いような言葉にギルベルトは返事をして彼女の部屋へと入る。ふわりと花のような香りがして、探せば、ティーテーブルの上には可愛らしい花が飾られている。
扉をきっちりと閉めて振り返ると、窓辺においてあるソファーに腰かけ、エーリカは月明かりに照らされてギルベルトを見ていた。
彼女は隣を開けて座っていて、その開いている部分にギルベルトを座らせるつもりだと理解できたが、あまり彼女に近づくというのも、気が引ける。とりあえずは、花瓶の隣にランタンを置いてそれから彼女のそばへと寄った。
「……隣に座ってちょうだい、ギルベルト」
促すようにそういわれたが、困った顔のままギルベルトは固まった。
「あまり、そばに寄ると不愉快だと思うんですけど」
「そんなことは無いといつも言っているでしょう」
「……それでも、あまりエーリカに近いのは良くないと思います」
いつもと同じような会話をして視線を下げれば彼女は、逡巡してからはぁ、と一つため息をつく。その仕草におろしているミルクティー色の髪がさらりと揺れて、憂いを帯びた瞳はゆっくりとギルベルトを見上げる。
「そうね……あなたはきっと、ハーロルトさまへのわたしの思いを尊重したいと思っていてだからこうなのだと思うけれど……それについては何度も言ったわ、気にしなくていい事なのよ」
「……」
「ギルベルトはずっとわたしを信じてくれていたものね。わたしもあなたがとても誠実な人だと知っている」
ゆったりと話す声はとても優しげで、まるで言い聞かせるようだった。説得するつもりなのだろう。
彼女は、こうなったからにはきっとギルベルトを心の奥底で認めていなくても幸せにしようと愛そうとしてくれる。
そしてそれを実践するし、それは悪い事ではない。
……でも、今まで王宮であれだけ苦労をしながらも他人を愛してやっていたのだから、もうエーリカは無理せずともいいと思う。
「嫁入りしてからは色々あったわ。王妃殿下はわたしの事をよく思っていなかったし、嫁にはきたからにはもう逃げ出せないとばかりにとハーロルトさまもきつく私に当たった」
「……」
「それでもわたしは、王太子妃としての役目を果たしたし、彼がどんなにつらく当たっても耐えて愛してきた」
彼女の言った言葉は正しい。しかし、ギルベルトはそんな程度の言葉であの日々が言い表せているのかは甚だ疑問だった。きつく当たったとか、よく思っていない程度の事ではなかった。
「あら、不満そうな顔ね。……でも、あなたにわざわざ事のありさまを思い返して言うことは無意味だわ。過ぎ去った事ですもの」
「エーリカがそういうなら、俺も何も言いませんけど」
「ええ、そうして、それに問題はそこじゃないのよ」
……過ぎ去った事だって、こんな風に平然と言えるなんて、いつも思うけどすごい人だな。
当たり前のように話を続ける彼女に、ギルベルトはそう思う。だってそばで見ていたギルベルトの方が軽くトラウマになるような嫌がらせをされていた。
例えば、王妃殿下主催の晩餐会の席でエーリカのスープにだけなんだかよくわからない虫の死骸が浮いていたり、ハーロルトに殴られて肩を脱臼したことだってあった。
一度や二度ではない。何度もエーリカはそうして嫌がらせを受けていた。それでもハーロルトにも、エーリカを嫌う王妃にも寄り添って、大切に愛してやっていた。
結果的にはそうなったけれども、それまでの過程はひどく凄惨なもので、だからせっかく愛した人を失ったエーリカにこれ以上無理なんかさせたくない。
それがギルベルトなりの愛情であり優しさだった。
「大変な日々を送って、それでもわたしは彼を愛していた。だから、これ以上はその気持ちを押し殺したりしなくていいように、ギルベルトはずっとそうして護衛役のようにしているのでしょう」
言い当てられて、特に隠すつもりもないので頷くだけにとどめる。彼女はギルベルトを見上げながら続けた。
「あなたが無理をしてそうしているとは思わない。あなたは優しい人で、わたしも夫になったのがギルベルトでよかった」
「……ありがとう、ございます」
「……でもね。あなただからこそわたし、少し困っているのよ」
言いながら彼女は目の前に立っているギルベルトの手に触れる。そういうふれあいはするつもりはないが、振り払うようなことをすればエーリカの自尊心が傷ついてしまうだろう。
……拒絶するつもりはないから、こういう時どうすればいいのか、正直困る。
「夫婦になったのだから、触れ合って当たり前のように愛し合いたい。わたしはそう思ってしまう。けれど、それも、きっとあなたは私が無理をしてそうしていると思うのでしょうね」
「……」
柔らかな指先が、ギルベルトの硬い手のひらを撫でて、するりと絡まる。恋人のように手と手を絡めて繋がれて女性らしい小さな手のひらが、ギルベルトの手の中に納まった。
「……ギルベルト、だからわたし、あなたに少し失望されてしまうかもしれないけれど、言おうと思うの」
「何を、ですか」
「だからね。隣へきて……?」
何かを告白しようとしているそんな様子だが、ギルベルトが隣に座らない事には話をしてくれないらしい。さらにはお願いするように言われてしまうと断るにも断れない。
それに、滅多なことがない限りは、常にほんわかと笑みを浮かべている彼女が何やら少し深刻そうなことが気になって、ギルベルトはぎこちなくなりながらもエーリカの隣に浅く腰かけた。
妖精のささやきみたいな小さな笑い声が聞こえてきて、ごくっと息をのむ。ミルクティー色の髪が視界の端でさらりと揺れていた。
「……あなたは本当に、良い人。でも、良い人すぎるわ」
上機嫌な声だけれど、ギルベルトを手放しでほめているわけでもない。良い人すぎると言われるほど、何かギルベルトは察しが悪かったりしたのだろうか。
しかし、ギルベルトは彼女ほど、ほんわかしていないし、それなりに敵意や、殺意にも敏感な方だ。
少なくとも、自分を虐めた人間を愛したりはしないと思う。
「だから、これを言ったら嫌われてしまうかもしれない。そう思うと少しつらいけれど、でもあなたの事はちゃんと好きだから言うわね」
きゅっと軽く手が握られる。少し温かくて子供の手のように感じた。
「……実は、ハーロルトさまを殺したのは、わたしなのよ」
……?
なにを言うかと思えばそんな風に彼女は言った。驚いて真横を向くと、エーリカは、変わらず優しい顔で微笑んでいて「やっとこっちを向いた」とまたくすくす笑う。
「悪い冗談は……止めた方がいいと、思いますけど」
「冗談? ……冗談ね。そうよ、これは悪い冗談。あなた以外に聞かれたら怒られるような冗談よ」
「……じゃあ、言わない方が……」
「でも、あなたはわたしを怒るかしら。わたしをいじめた昔の旦那を悪く言うだけの事を許さないかしら」
問うように言っているが、言外にギルベルトはエーリカを絶対に怒れないと言っていると理解できる。
それに、そんなことを言う資格もない、だって、護衛の任を与えられていたのに真の意味ではエーリカをずっと守れていなかったのだ。
その愚痴をこぼすことをどうしてギルベルトが怒れるだろうか。
「……言いたいのなら、聞きます」
「ええ。そうして欲しいわ」
「はい」
「……あのね、ギルベルト。最初にあの人を殺してしまおうと思ったのは、実は結婚する前からなの」
ギルベルトが了承すると彼女は満を持して語り始めた。さして楽しそうという事でもなくいつもの調子で、仕事の事でも話すみたいに淡々とした口調だった。
それをギルベルトは大方、エーリカのギルベルトに対する優しさからくる冗談、もしくは事実を捻じ曲げた創作の話だと考えて聞くことにした。
だから、興味があるような顔をするのも一つの義務だろうと思い促すように聞いた。
「それはまた、どうしてですか?」
「わたしは、両親の為にこの領地を守るために研鑽を積んできた。ここは随分と王都に比べると田舎でしょう?」
「そうですね。自然豊かで」
「ええ、だから、この豊かな土地で人々と暮らす。そのために生きていたの」
「……」
「でも、ある日、避暑地へと向かう王族の一行が暑さに参って休憩をとるためにわたしの実家へと立ち寄った」
語り口調はさながら物語のようで、うんと頷けば彼女は続きを話す。エーリカの声はいつ聞いてもとても聞き心地が良くて、すんなりと言葉が入ってくる。
「暑さに参ってしまったのは王妃殿下。だから国王陛下のお相手で両親はとても忙しくしていたわ」
「……ハーロルト殿下は?」
「ハーロルトさまは誰もお相手をできる人間がいなくてとても退屈していた様子だったわ」
となれば、その時、エーリカはまだ王族の前に出られるような年齢ではなかったのだろう。ハーロルトはエーリカよりも十歳ほど年上だし、何か粗相があっては困ると両親も考えたのかもしれない。
……でも、この話をし始めたということは、そこで秘密裏に会っていたとかそういうことか?
予想を立てて、エーリカを見ると彼女はふとギルベルトに「何があったと思う?」と聞いてきた。それに、素直にギルベルトは「分かりません」と答えた。
すると、そうだろうと納得するようにうなずいてから、言う。
「退屈したハーロルトさまは、屋敷の中を散策して、使用人が国王陛下夫妻の対応に出払っていて、わたししかいない部屋を見つけて押し入って来たのよ」
「…………え」
「わたしは子供を望めない体だと知っているでしょう?」
「あ、はい」
「あれはね、まだ幼いころにハーロルトさまに無体をされたせいで体が壊れてしまったからなのよ」
「は、っ、はい?」
「出血が止まらなくて酷い有様だったそうよ。けれどそんな話は、公にするわけにはいかない。だから、責任を取って王室に入れる。そういう話になった。だからわたしは、子供も作れないのに、王太子妃となったの」
目を見開いて、エーリカを見る。彼女はなんてことのない表情で、混乱するギルベルトに続けて言う。
……避暑地に向かう途中で、エーリカを見つけて見初め、求婚をしたという話に沿った嘘? ハーロルト殿下に対するうっぷんを晴らしているだけ? いやしかし、子を望めないというのは真実で……。
「けれどね、もちろん歓迎はされなかった。特に王妃殿下からの扱いは酷いものだったわ。当たり前よね、もっと身分の高く美しい女を娶らせるつもりだったのに、こんな田舎娘を嬉しく思うはずがないものね」
ギルベルトが混乱して居ようとも話は進む。彼女は、きちんとギルベルトに説明してやる気はなく、ただ淡々と事実を述べているだけのような様子だった。
「だから、例えばあなた。歳の近い、男の護衛騎士をそばに置いて、わたしに不倫をさせようとした。常に距離を置くようにといったのにはそういう意図があったの。あの人の術中にはまらないように。ごめんなさいね」
……俺? 不倫?
「まぁ、けれどあなたは凄くいい人だから、まったく変な噂にもならなかったけれど……他にはあなたも知っての通りね。食事に何かを混ぜられたり、ドレスに針を仕込まれた時は驚いたわ」
はぁっと息をついて、子供のいたずらに頭を悩ませるような顔をしてエーリカはそういった。それになんとも言えない気持ちになりつつも、ギルベルトは頭の中を整理しようとする。
「まぁ、そういったわけもあって、殺してしまうしかないと思ったのよ」
エーリカはやっと前置きが終わったとばかりに、その話に戻り続ける。
「……それで、まずは、ハーロルトさまにたくさんのお酒を勧めたわ」
「酒、ですか」
「ええ、特に度数の強い物を」
「……それはまた、どうして」
「アルコールを飲むと人間、味覚が鈍くなるのよ。それも慢性的に多量の飲酒をしているとさらにね」
……でも、酒は、体に良いというし、たしかにハーロルト殿下は大酒飲みだったけど、そのせいで死んだとは思えないというか……。
「そうして酒に酔わせて、彼は性欲が強い方だからたくさんの女性を抱いてもらったわ。わたしだけでは満足できないだろうから、ととにかく沢山の女性を呼んで」
「……それはなんか意味があったんですか」
「ええ……わたしが用意した女性は皆、病を持っている女性だったから」
「……」
殺したなんて言っても所詮は、神に毎晩祈って呪い殺しただとか、少しだけ毒を盛ったことがあるとか、そういう話をすると思っていたのに、なんだか、毛色が違うというか妙に現実味がある。そして当たり前のようにそういう彼女にぞくっとした。
それに確かに、ハーロルトはたくさんの女性に手を出していた。それを、エーリカは容認しているのだとギルベルトは思っていた。
「何かうつるだろうと思っていたけれど結局ハーロルトさまは何で死んだのか私もよくわからないのよね」
ギルベルトが黙ったままでも話を続けて、首をかしげて、エーリカはそう口にした。
今の話を聞いた限りでは酒に酔い、前後不覚になった状態で病にかかった女性を抱いたせいで死んだのだと想像つくが、エーリカは何か腑に落ちていない様子だった。
「アルコールを飲むと、味がわからなくなると言ったでしょう?」
「は、はい」
「だから、離宮の料理をすべて彼に合わせてすごく味の濃いものにしていた。それだけでも体に悪いのでしょうし、ウイスキーにタバコの成分を移したものを入れていたから、中毒にもなっていたと思うのよね」
「……中毒、ですか」
「ええ、タバコは男性は好んで火をつけて吸うけれど、あれには摂りすぎると中毒になる成分が入っているのよ」
思い出すようにしながらエーリカは言う。それにギルベルトは釘付けになりながら聞いた。
「それは水によく溶けるから、溶かしたものを氷にしてウィスキーに入れて彼にいつも飲ませてた。それがないとしょっちゅう暴れるものだから、それを宥められるわたしに、王妃殿下も次第にあたりが優しくなっていったでしょう?」
「それは……たしかに」
「献身的に尽くしている妻に周りには見えたのかもしれないけれど、わたしが彼を壊しているんだから、当たり前よね、一番近くで見ていたかったの」
「……」
「ゆっくり殺してあげたわ。罪にも問われなかったし、日々の不摂生で死んだのだと誰も疑わなかった」
優しく彼女はしっとりとそういって「それから」と続ける。まだ何かあるのかとごくっと息をのんだ。
「国王陛下も王妃殿下も彼を溺愛していて、この国には一人しか王子がいなかった。そして次期国王の座は空席。……巻き起こる王位継承争いに、王太子の子供が出てきたら、どうなるかしら」
「それは、どういう、事ですか」
「……あのね、ハーロルトが手を出していたのはわたしだけじゃないのよ」
「……」
「取り返しがつかないほどの事をしたのはわたしが初めてだけど、当たり前のように貴族の令嬢と彼は密通していた、知っている限り、彼の血を引いた子供は三人以上はいるわね」
そうなると相当に王位継承権争いは荒れるだろう。ただでさえ国王夫妻は唯一の愛息子を亡くして未だに失意にくれているというのに、そんな騒動を抑えることが出来るのだろうか。
いや、そもそもの原因はハーロルトを育てた国王夫妻にあると思うがあまりにも大変な事態になりそうでギルベルトは、黙り込んだ。
「さらには、わたしが用意して抱かせた平民の女性たちもいるから、その子供を貴族に売り払って……なんてこともあり得るかもしれないわ」
そんなことになれば、貴族はこぞって子供を養子に入れたり、飼うことになるだろう。どこの貴族も王族の血を受け継いでいるなんて厄介極まりない。
その状態で王族は果たして権威を保てるのだろうか。なんだかひどい未来が予測できてしまって、それを狙ってやったようなことを言っている彼女に何と言ったらいいのかわからない。
それ以前に、ハーロルトを殺したという話だって、嘘ではないのかもしれない、だって彼女の言い分はいともあっけなく死んだ王太子の状態によく当てはまっていて、彼はエーリカが用意したウィスキーをいつも嬉しそうに飲んでいた。
鈴のなるような笑い声が聞こえて、エーリカは、月明かりに照らされて相変わらず女神のように美しい笑みを浮かべている。
「……楽しみねぇ……」
そういって彼女はうっとりと月を見上げた。その横顔は今まで見てきた可憐でか弱い少女の姿だ。ギルベルトが守れなかった、女性。
彼女はほんの少しだけギルベルトが知っているよりも強かで、それでもやはり美しい。
「……なんてね。酷い冗談でしょう? ……だからね。なんて言ったらいいのかしら、こんな事を言うくらい、わたしの心はあの人の元にはなかったのよ、だから……」
黙り込んだギルベルトにエーリカはそういって、ぱっとギルベルトの方へと向いて、最初の話題に戻る。
しかしもはや、ギルベルトにとってはどちらでもよかった。嘘だとするのならば、ここまでいわせてしまった。嘘でないのなら、ただそうだったというだけの事。
どちらにせよ、ただ当たり前のようにエーリカは、ギルベルトを愛して愛されてもいいと思っている。そういう決意があるという事だ。
だから、これ以上言わせることはできないと思ってギルベルトは言った。
「そこまで、エーリカが俺を望んでくれるのならば、もう避けないです」
「……そう、ならよかった。悪い冗談でも言った甲斐があったわね」
「それに、冗談でも、事実でも……俺は、嫌だとも恐ろしいとも思いません」
「……あら、嬉しいわ」
「失望なんかするわけないじゃないですか」
「……」
つながれた手を握り返す。その瞳を覗き込んでも彼女が何を考えているのかはわからない。相変わらずほんわかしていて、この手が人を殺せるだなんて信じられない。
しかし、殺せるのだとしても、ギルベルトにとって大切な存在であるということは確かだった。
エーリカはのぞき込まれて笑みを浮かべたまま、チュッとギルベルトの唇にキスをする。それに少し驚きつつもギルベルトも相好を崩した。
それから二人はそれなりに仲の良い夫婦生活を送ったが、数年後、王位継承争いで王太子ハーロルトの隠し子だと主張する貴族の子供が大量に発生し、王都は争いの炎に包まれてあの日の冗談は真実だったのだと、ギルベルトは察したのだった。
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