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第一話

「どうもすみません。茜音さんにわざわざお越しいただいて。本来ならこちらから伺うのが礼儀ですのに」


 オリブさんはそう言うと、私に向けて頭を深く下げました。世界史の教科書でしか見たことのないような威厳のある立派な口ひげがローテーブルに被さります。


 相談主のオリブさんは、かつてこの村に水道を引いてきたとても立派な元村長さんです。しかしオリブさんはこんな未熟者の私に対してもとても腰が低く、かえってこちらが恐縮してしまうくらいです。


「そんなことありません。お呼びいただければいつでも私がお伺いいたします。これも私の務めですので、どうかお気になさらないでください」


 こんな言葉がすらすら出てくるあたり、私も社会性が身についてきたなぁ。なんて嬉しいような寂しいようななんだか複雑な気分になるのです。

 そんなことより、本題です。


「それで、ピートくんは今自室におられるのでしょうか?」


 私が尋ねると、オリブさんは後ろめたそうに目を伏せ、首を横に振りました。


「せがれは、ピートはこの五年間一度も部屋から出てきていません。私が呼びかけても顔を合わせるどころか返事すらしない。そんな生活が続いているのです」

 事態は深刻なようです。


「トイレなどは?」

「すべて部屋の中でやっているようです。外に出ることはありません」

 ……事態はかなり深刻なようです。いえ、部屋に入りたくないなぁなんて思っていませんよ。これも私の務めなのですから。誤解無きよう。


「それにしても助かりました。もう一度息子の顔が見られるなんて夢のようです。なんでも茜音さんにお頼みして解決しなかった事件は存在しないとか」


 そういって、オリブさんは涙ぐみました。泣くのは少し早いんじゃないでしょうかなんて言える雰囲気でもありません。


「とりあえずやってみないことには何とも言えませんが。それにその噂は少し誇張されているような……」

「ご謙遜を。村の者たちも口を揃えて申しておりますぞ。なんでも茜音さんは過去に一つの国の戦争をおさめた実績がおありとか」


 何の噂に尾ひれがついたらそんな荒唐無稽な話になるのだと思います?



 オリブさんと話していると疲れてしまうので、ピートさんの部屋の前まで案内していただいた後は一人にさせてもらいました。そのほうがピートさんも父親を気にせずに話せるかもしれませんしね。


 私はドアを数回ノックしてから、部屋に向かって話しかけます。


「ピートさん、こんにちは。私は市局から来た茜音と言います。今日はピートさんとお話をしようと思って参りました」


 人を動かす平和的手法は対話以外に存在しません。と言ってもこれだけでピートさんが心を開いてくださるなんておもっていませんが。


 私は自分の身分とここへ来た目的を話しました。オリブさんに頼まれて部屋から出られるようにお手伝いに来たこと。無理やり引きずり出すようなことはしないということ。

 それを話し終えるとまた明日来るという事だけを伝えてドアの前を離れました。


 その間ピートさんからの応答はなく、私は一人で話し続けました。時間としてはわずか五分ほどだったでしょうか。

 オリブさんに明日また来ると伝え、私は屋敷を後にしました。


 翌日から私はオリブさんの家へ通い詰めるようになりました。業務の合間を縫ってレンゲ畑を往復する毎日が始まったのです。


 市局本部からオリブさんの家前ではスクーターで一時間ほどです。

 他の部署では公用車を使うことができるのできっと時間短縮になるのでしょうが、私の所属する小さな部署では精々スクーターくらいしか乗ることができません。

 社会の格差というのはどんなところにもあるのです。



「今日もレンゲ畑はとてもきれいでしたよ。私はオリブさんの家に来るまで、この市にこんな素敵な場所があるなんて知りませんでした」


「今日から梅雨入りだそうです。梅雨は好きですか? 私は嫌いです」


「外はとても暑いですが、水浴びなどをしたら気持ちいいかもしれませんね」


「昨晩の雪が積もらなくてよかったです。スクーターが動かなくなったらここへも来られませんからね」



 私は毎日毎日ピートさんのもとへ通い詰めました。こっちが一方的に雑談をするだけ。

一向に距離が縮まる感覚はありません。しかし私は声をかけ続けます。


 私は基本的に、部屋に向かってとりとめのない雑談を語りかけます。ピートさんからの返事はありませんが、必ず一拍おいてから次の話へ進むのです。

 こうすることで、ピートさんが言葉を発するタイミングを作っている、ということだと思います。きっと。


 なぜそんなあいまいなのかって? 私は引きこもりの人にどう対応するのが正しいのかなど学んだことも教えてもらったこともないからです。


 市の図書館に行ってもそんなことを書かれている本などありませんし、心療内科や生活支援の専門家などはこの市には存在しないので、先生に教えを乞うことも出来ません。


ですが私はこの方法だけは知っているのです。


「私も昔、自分の部屋に閉じこもっていました。学校にも行かず、親とも顔を合わせず、外に出ることを恐れていました。そんな私に、学校の先生が毎日会いに来てくれたのです。


 私は返事一つしないのに、先生は毎日毎日放課後声をかけに来てくれていたんです。鬱陶しくて早く帰ってほしい、もう来ないでほしいと思っていました。実際紙に書いてドアの前に置いておいたこともありました。


 ですが、先生はずっと来ました。外の天気から世界で起きているニュース、先生の昔話まで。きっと先生は私と世界を断絶しないようにしてくれていたのだと思うんです。私の部屋と世界とをつないでくれていたのだと思うんです」


 私は余計なことを言っているのに気が付きました。こんなことを言ってもただピートさんのプレッシャーになるだけでしょう。


「ごめんなさい。今の話は忘れてくだ」


 私が言い終わる前に、後ろから声をかけられました。聞きなれた声です。


「茜音さん。本当にご苦労様です。私たちのためにここまで尽くしてくださるとはなんと感謝を伝えたらいいか」


 そう言ってオリブさんはティーカップと茶菓子の乗ったお盆をもって近づいてきました。いつもならもう終わっている頃なので心配になって様子を見に来たのでしょう。


 私が要らない話をしすぎたせいです。


「オリブさん、すみません。今ピートさんにお話ししている最中なので……」

「これは失礼しました。……おや? しかしランプは点いていないようですよ」


 オリブさんはドアを見ながらそう言うと、不思議そうに首を傾げた。

 そのときほど、嫌な予感というものを感じたことはありませんでした。


「あの、ランプというのは……?」

「それですよ。ドアの上のほうについている小さな窓。インターフォンが付いている間はこのランプが赤く光るんです」


 インターフォン? まさか、いや、考えたくありません。


「もしやインターフォンを使っていなかったのですか?」


 オリブさんは目を丸くしたままそう尋ねました。ええ。そうですよ。

 私のひきつった顔つきを見て、オリブさんは頭を地面にこすりつけました。


「大変申し訳ないことをした! 私が伝え忘れたばかりに!」

「ま、まってくださいオリブさん。いくらインターフォンを使っていなかったとはいえ、ドア越しでも声は聞こえるはずですよね?」


 私は藁にも縋るような気持ちで問いかけます。それは疑問というより、こうなってほしいという願望でした。


「いえ、この家の壁はすべて防音性が抜群なのです。そのためインターフォンをつけている次第です。恥ずかしながら私以前はジャズを嗜んでいたもので」


 そうなんですね……。

 私は震える指先でドアについている突起を押しました。すると隣の小窓に赤い光がともりました。


「あ、あの。聞こえますでしょうか?」


 しばしの沈黙の後――。


『誰?』

「私、茜音です。この一年間ずっと話しかけていたんですけれど……」

『は? 茜音? 一年? 何言ってるんですか?』


 その瞬間、私の一年間の努力は水泡と帰したのです。私は誰も聞いていない無にひたすら話しかけていたというのです。なんという悲劇いや、喜劇でしょうか。


「ピート、茜音さんはお前のためにずっと足を運んでくれていたんだぞ」

『げ、親父かよ。ってだから意味がわからないって』

「とりあえず、部屋のドアを開けてくれませんか?」


 私がそう言うと、ドアが開きました。こんな簡単に開くものだったんですね。ドアって。

 部屋から出てきたのは眼鏡をかけた青年でした。


「とりあえず入ってよ。親父は来るなよ」


 青年はそう釘を刺すと、オリブさんを残して部屋のドアを閉めてしまいました。

 ピートさんの部屋は、私の想像よりもずっと清潔で、ずっと広いものでした。床にはチリ一つなく、白く清潔な壁紙とカーテンのおかげで、蛍光灯だけでも部屋は十分明るく見えました。

 奥に進むと冷蔵庫と立派なキッチンがあり、いくつかのドアがあるのはトイレや洗面所であることが予想できます。


「毎日家政婦さんが掃除に入ってくれるんです」


 ピートさんはこともなげにそう言いました。


「でも、オリブさんはピートさんは部屋から一歩も出ていないし顔も合わせていないって」

「ええ、僕は出ていないですよ。でも家政婦さんや食事のデリバリーサービスの人、美容師さんは毎日この部屋に入ってきていますよ。母さんとは毎日連絡も取っているし」


 開いた口がふさがらないとは比喩表現ではなかったのだなぁと学んだ瞬間でした。


「奥の部屋にはちょっとしたスポーツジム並みの設備がそろっているんですよ。よかったらお姉さんもやってみます?」

「結構です」

「でもせっかくだし」

「ケッコウデス」


 私は部屋を出ると、オリブさんに報告しました。オリブさんはまだ泣いていて、話をするだけでも一苦労でした。

 

 オリブさん曰く、ピートさんが部屋に引きこもるようになった原因は、夜遅くまで遊びまわって帰ってこないピートさんを叱ってお小遣いを減らしたことだといいます。


 だったらもう部屋から出るもんか! ということだそうです。なんだそりゃ。


 結局、私が二人の仲を取り持ってピートさん引きこもり事件は解決しました。ピートさんも引きこもりから卒業してまともに働くといってくれました。


 私の一年にわたる長期ミッションはこうして終幕を迎えたのです。

 すさまじい徒労感を残して。


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