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誘拐魔の正体

 ちなみに、身代金を受け取りに来た犯人はと言えば、ろくに逃走手段も準備していなかったので、公園内に潜んでいた警官たちがいっせいに動き出すと、瞬く間に逮捕・拘束されてしまったのだった。彼は、公園の外へ一歩も踏み出す事さえ叶わなかったのである。もちろん、手に入れたばかりの身代金も、早々に没収されたのだった。

 この犯人の素性については、後であらためて説明するとして、この犯人逮捕の捕物には、公園に集まっていた警官たち総参加となった為、なおさら、倭文子の隠れていた公衆トイレのそばには、まるで警官たちが居なかったようなのであった。倭文子が謎の男に連れ去られてしまった時も同様だ。

 この公園に集まっていた警官たちは、犯人逮捕の瞬間の前後には、そのほとんどが、完全に、犯人か取引場所へと集中してしまっていた。逆に言えば、犯人のいない地点に関しては、すっかり警備がザルとなっていたのである。その事が、余計、トイレの中にいた倭文子の拉致を容易なものにしてしまったようなのだった。

 こうして、自ら誘拐されてしまった倭文子なのであるが、彼女を乗せた車は、ウエノ公園から出発して、南西の方へと走っていた。運転しているのは、あの謎の男で、倭文子は後部座席に座っているのである。

 倭文子をトイレの外に誘い出す時は、あれほど饒舌だった謎の男も、車内ではすっかり無口になっていた。倭文子もここに来て、ようやく冷静になって、この状況に不安を抱き始めたのだった。しかし、もう車が走り出している以上、逃げ出す事もできないのだ。まずは、この謎の男に従ってみて、様子を伺うしかないのである。

 間もなく、謎の男が運転する車は停車した。到着した場所は、やや荒れた廃屋の民家の前だった。倭文子は、この家がどこなのかは全く知らなかったのだが、実は、この廃屋こそは、アオヤマにあった、誘拐犯が一時的に隠れ場所に使っていた家だったのだ。警察は、ここはもう捜査済みだったし、今夜は取引現場のウエノ公園の方に全人員を集めていたので、この場所には見張りの警官一人いなかったのである。

「着きましたよ、奥さん。ここです」

 運転席の男が、倭文子へと降車をうながした。

「本当にこんな場所に茂はいるのですか?」

「信じたくなければ、それでもいい。代わりに、茂くんとは二度と会えないよ」

 そんな風に言われてしまうと、倭文子も素直に降りるしかないのであった。

 彼女が車の外に出た。続いて、運転していた男も車を降りた。車は、廃屋の玄関の手前に停めてあったのだが、廃屋はどこも閉鎖されていなかったので、難なく、中へと忍び込む事ができたのだった。ただし、真夜中だったし、明かりもなかったので、大変に暗かった。

「あのう、電灯はつけないのですか」倭文子が、恐る恐る、尋ねた。

「こっそりと事を進めなくてはいけないのです」男は答えた。

 そう言われてしまったら、もはや、倭文子としては、何も反対はできないのだった。今の彼女は、それこそ、茂を人質にされたかのような状態なのだ。

 男のあとを倭文子がついていく形で、二人は、ズケズケと廃屋の中に入っていった。この家は、本当に空き家であり、中に入ったところで、誰かがいる訳でもなく、家具も装飾品も置いてなくて、あちこちが埃だらけなのだ。

 男は、倭文子の前に立ち、ステッキをつきながら、ずんずんと廃屋の奥へと進んでいった。さすがに、こんな場所で茂が待っているとは思えないのである。

「ねえ、どこまで進むのですか」怯えながら、倭文子が尋ねた。

「もうすぐです」と、男は答えるのだが、とても疑わしいのである。

 この男とずっと共にいた事で、倭文子は、うっすらと、この男にデジャブを抱き始めた。この背格好や声のトーンに、なんだか見覚えや聞き覚えがあるのだ。これって、一体、誰であっただろうか?

「あ」急に思い出した倭文子が、うっかり、声を漏らした。

「奥さん、どうしましたか」男が立ち止まって、倭文子の方に振り返った。

「あ、あなた、もしかすると、岡田さんじゃありませんか?」

 男は、動きを止めたまま、すぐには答えなかった。だが、彼は、すぐに可笑しそうに笑い出したのだった。

「ほんとに、愚鈍な女だ。気付くのが遅いんだよ。ちょっと声色を変えて、変装しただけで、分からないなんてな。そうさ、オレは岡田だ、岡田道彦だ」男はうそぶいた。

「あ、あなたはニッコウで自殺したのでは?」

「自殺などするものか!あれはニセの演出だよ。お前たちを油断させる為のな!オレは言ったはずだ。お前たちに必ず復讐すると。その約束を果たす時が来たのだ!」

「い、嫌っ。それよりも、茂を、私の茂を返して!」倭文子が、ヒステリックに叫んだ。

「お前のガキだったら、今ごろ、警察に保護されているはずだよ。この誘拐騒動からして、お前をおびき寄せる事の方が真の目的だったんだからな。替え玉を立てて、騙そうとしたって無駄だ。お前らの猿知恵なんて、最初っから、オレにはお見通しだったのさ」

 倭文子は、恐怖のあまり、身がすくんでしまったのだった。

「さあ、こっちに来い!今度こそ、オレの言いなりとなるんだ!」

 岡田は、硬直していた倭文子の腕を掴むと、自分の方に引っ張ろうとした。

「やめて。やめて下さい!」

 ハッとしたように、倭文子は暴れたのだった。岡田に抵抗して、彼女は大きく手を振り回した。

 彼女の手が、たまたま、岡田の顔にと触れた。それは、本当に偶然の出来事だったのである。しかし、それが、さらなる恐ろしい真実を暴いてしまったのだ。

 倭文子の手が当たった事で、岡田の顔の表面からは、何かがズルリと取れてしまった。その何かが、ひらりと床に落ちてしまったのである。

 普通では、あり得ないような奇妙な事態なのだ。

 実は、岡田は、自分の顔の上に人工皮膚を貼り付けていたのである。さらに、その上から、厚いメイクを施す事で、その秘密を隠していたらしいのだ。

 この人工皮膚を剥がした時、倭文子の手は、うっかり、岡田の顔の地肌にも触れていた。それは、マトモな皮膚ではなく、ひどくザラザラしていたのである。恐らくは、焼けただれていて、その上に人工皮膚をつけて、今までは誤魔化していたようなのだった。

 この事実に気付いた倭文子は、さらにがく然とした。

 岡田は、倭文子の方を睨んでいたようなのだが、暗くて、その顔ははっきりとは確認できなかった。でも、きっと、その顔の半分には醜い火傷の痕があり、凄まじい形相だったはずなのだ。

「気の毒にな。オレの秘密を知っちまったか」岡田が、荒っぽく言った。

「お、岡田さん。その顔は・・・?」うろたえながら、倭文子が訊いた。

「仕方ない。オレの正体をお前に教えてあげるよ。オレの本名は、岡田なんかではない。岡田道彦は、オレの数多い偽名の一つだ。オレの世間一般にも知られた通り名はな、クモ男だ!」

 そう怒鳴って、岡田、いや、クモ男は、自分の右手の甲に彫られていた蜘蛛のイレズミを、ぐいっと、倭文子へと突きつけたのだった。

 この室内は暗かったので、果たして、倭文子に、そのイレズミがきちんと見えていたのかどうかは怪しい。だが、クモ男という名前を聞いただけでも、倭文子は十分に青ざめて、震え上がったのだった。

 ブルジョア暮らしで、俗世間に疎くなっていた倭文子でも、この「クモ男」という名前は知っていた。一昔前、首都トーキョーを大いに騒がせて、恐怖のどん底に陥れた連続殺人鬼の通称である。この恐ろしい犯罪者は、どうにか警察の御用となって、刑務所で服役していたはずだ。しかし、そのあと、脱獄して、今は行方知れずだったとも聞く。

 とにかく、この戦慄の凶悪犯が、今、倭文子の目の前にいるらしいのだ。もちろん、その目的は、倭文子を血祭りにして、自分の新たな犯罪歴を増やす事なのであろう。

「た、助けて!助けて!」倭文子は泣き叫んだ。

「馬鹿め。わめいたって、誰も助けには来ないよ。人がきちんと住んでいる家は、この廃屋のすぐ周辺には無いのだ」クモ男が、あざ笑うように告げた。「さあ、これから、お前は、オレの殺人芸術の作品の一つとなるのだ。四肢を全部バラバラにして、一つ一つを石膏にでも入れてやろうか。それとも、巨大水槽の中で溺死させて、美しい人魚にでも成ってもらおうかな」

 恐怖のあまり、倭文子は今にも気絶しそうだった。そんな有様だから、もはや、彼女には、自力で逃げ出そうとする活力さえ無くなってしまっていたのだ。

 でも、その時だった。

「ははははは。そこまでだ、クモ男。お前の犯行現場は、バッチリと押さえたぜ」

 そんな快活な男の声が聞こえてきたのだった。

「誰だ?」びっくりして、クモ男が怒鳴った。

 彼が驚くのも、無理はないのである。まさか、この屋内に何者かがいたとは思わなかったからだ。

 クモ男は、キョロキョロと周囲を見渡した。この部屋には、大きな家具は何一つ置かれてはいない。四方のドアだって、開けっ放しなのである。よって、誰も隠れていられるような場所は無かったはずなのだ。

 ならば、今の声は、どこから聞こえてきたのであろうか。

「ははは。分からないのかい?上だよ、上を見てみろよ」

 謎の男の声に、そうヒントを与えられて、クモ男もハッとしたのだった。

 彼は、急いで、自分の真上を見上げた。

 そこには、あまり高くない天井があった。でも、それだけではない。その天井には、梁をじょうずに四肢で掴む事によって、真っ黒い服を着た男がへばりついていたのだ!

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