捕まった倭文子
倭文子は、従順で素直な女だったので、三谷に言われた事を正直に守り続けていた。つまり、公園の公衆トイレの中に隠れたまま、絶対にそこから離れようとしなかったのである。
だいぶ時間が経ったように感じられた。倭文子は、手にはめていた腕時計を見た。ちょうど真夜中の12時である。図書館裏で、いよいよ、人質交換が始まったはずの時間なのだ。
周囲は、静まり返った静寂が支配していた。ほんの些細な音であっても、トイレの中の倭文子にも、とても良く聞こえるのである。
しばしの静かな時間のあと、急に、ガヤガヤと騒いでいる音が聞こえ出した。恐らくは、図書館裏の方で、何かの進展があったのだろう。しかし、公衆トイレの中に閉じ篭ったままでは、倭文子には、具体的な事は何も分からなかったのであった。
果たして、人質交換は無事に終わったのだろうか。茂は何事もなく返してもらえたのか。
倭文子は、聞こえてくる無数の声や音に耳をそばだてながら、不安いっぱいの想像を膨らましたのだった。それでも、彼女は、自ら、トイレの外へ踏み出そうとはしなかったのである。
そんな時。
「倭文子さん。倭文子さん、いますか?」そんな囁くような男の声が、トイレのすぐ外から聞こえてきたのだった。
三谷の声ではない。だとすれば、三谷の代理の人物の声なのであろう。
「はい、います!」
すでに居ても立っても居られなくなっていた倭文子は、慌てて、返事をしたのだった。
「私は三谷の代理のものです。三谷に頼まれて、あなたを連れにきました」
そのように言われて、倭文子も、やっとホッとしたのだった。
「では、ここから出ても、もう安心なのですね?」
「はい。さあ、茂くんに会いに行きましょう」
「茂は?茂は大丈夫だったのですか?」
「ええ。犯人は彼をここに連れてきていませんでしたが、でも、無事に保護されています」
それって、どういう状況なのであろうか?しかし、息子のことが心配でたまらない倭文子は、深く考えもせず、相手の言葉を鵜呑みにしてしまったのであった。
「奥さん。さあ、出てきて下さい。いっしょに行きましょう」
そう呼び掛けられて、倭文子は、すぐさま、外に出てきた。
トイレの外は、夜の漆黒にと覆われていた。三谷の代理を名乗る男も、真っ暗なシルエットにしか見えないのである。ガタイが良く、スーツを着ていたのは分かったが、鳥打帽を深く被った顔は、全く識別できなかった。
「さあ、早く。茂くんのところへ行きましょう」その男は、倭文子にささやいた。
「あのう。人質交換はうまく終わったのですか?犯人はきちんと捕まりましたか?」
「それは、順にご説明します。まずは、ここを移動しましょう。警察に見つからないように、こっそりとね。公園の外にさえ出れば、車も用意しています」
「え?なぜ、そんな隠れるようにして移動を?」
「話をややこしくしたくないのです。あなただって、早く茂くんに会いたいのでしょう?」
そう言われてしまうと、倭文子も、もう返す言葉がないのである。彼女は、コソコソと隠密行動をとる代理の男のあとを、おとなしく、ついていく事にしたのだった。
そして、その時、倭文子は、この自分の前を行く男が、足が不自由だったのか、片手でステッキをついており、ひょこひょこと歩いていた事にも気付いたのであった。
さて、倭文子の身代わりになった三谷の方に目を向けてみると、彼は、ほんの少し前の時間に、見事に人質交換の交渉を成功させていて、犯人の連れてきた茂を取り返していたのだった。
その茂は、三谷も、交換の際に、念入りに確認したが、間違いなく、本物の茂であった。犯人は、身代金が手に入ると、あっさりと茂を引き渡して、実に無警戒に、来た道を去っていったのである。見たところ、犯人は、凡庸な男っぽかった。
とにかく、三谷としては、まずは、茂の身柄さえ安全に確保できたら、それでひとまずは、当初の任務は達成なのだ。彼は、弱っていた茂を抱きかかえると、意気揚々として、ツネカワ警部らが待機している警察の陣地へと走り向かったのだった。
「見て下さい!大成功です!人質は取り返しましたよ!」三谷は、ツネカワらに、元気よく報告した。
だが、ツネカワたちの方は、やや呆気にとられていたのであった。それもそのはずだ。この人質交換係の入れ替わりについては、三谷と倭文子しか知らなかったのだから。なんと、三谷は、今の今まで、完全に味方の警官たちを騙し切っており、誰からも倭文子のニセモノだとは悟られていなかったのだった。
この事をあらためて説明していたら、さらに時間がかかる。まず、一番大事だったのは、人質の茂が無事だったという事だ。次に、犯人がまだ遠くまでは逃げていないという事。さらに、人質がいなくなった以上は、警察としても、恐れる事なく、犯人を捕まえられるようになった事なのである。
「本物の倭文子さんは、今、公衆トイレの中に隠れています。誰か、早く呼んで来て下さい。すぐにでも、大丈夫だった茂くんの姿を見せてあげたいのです!」三谷は訴えた。
現状を十分に把握していないながらも、ツネカワは、部下の一人を、公衆トイレへと向かわせたのだった。
しかし、ここに来て、思わぬトラブルが起きてしまったのである。倭文子を探しに行ったあと、ツネカワらの元に再び戻って来た警官の報告によると、公衆トイレには、いくら探してみても誰もいない、という事なのであった。そう、その警官は手ぶらで帰って来たのだ。
せっかく、皆で喜べる瞬間だったはずなのに、まさか、最後の最後でこんな事になるとは。三谷の女装していた顔は、がく然として、血の気が引いていったのであった。




