人質交換当日
こうして、一夜が過ぎた。ついに茂を返してもらえる日がやって来たのである。今日の夜には、茂も母・倭文子の温かい腕に抱かれる事ができるはずなのだ。
なお、その後の警察の捜査の方はサッパリだった。シロウト探偵の三谷が、賊の秘密の抜け穴を見つけたのまでは良かったのだが、それ以降は、有力な手がかりは、まるで得られなかったのである。
こうなると、あとはもう、今夜の人質交換に賭けるしかないのだ。この時こそ、上手に犯人を出し抜いて、人質の茂も無事に取り返すし、犯人もバッチリと捕まえてやるのである。そうじゃないと、警察のメンツにも関わってくるのだ。
そんな警察の意気込みに対して、倭文子はすっかり弱腰なのであった。さらに憔悴して、衰弱も進んでしまった様子だった。何しろ、もとより、犯人からは「警察に知らせれば、茂は殺す」と言われていたのだ。このように、警察が大掛かりに活動していた事自体が、彼女にとっては、ひどい気掛かりになっていたのである。
「なあに。心配いりませんよ。『警察に知らせるな』なんて脅し文句は、そもそもが、犯人のただの常套句です。我々警察が動いている事に勘づいたところで、犯人は何もしやしませんよ。なんたって、茂くんは大切な取引道具ですからね。茂くんを殺したり、傷つけでもしたら、それだけ商品価値もなくなり、犯人にとっても、立場が不利になってしまうだけなんですから」
ツネカワ警部がそのように説明してみても、倭文子の方は、相変わらず、不安がおさまらないようなのであった。
やがて、夜が訪れた。いよいよ、人質交換の時間が近づいて来たのである。倭文子をサポートしながら、警察の一行は、速やかに、取引現場へと移動したのだった。
取引場所となるウエノ公園は、つい先日まで開催されていた世紀博覧会が閉幕したばかりだったので、一気に人混みも散ってしまい、うす寂しいムードになっていた。誘拐犯人も、うまいタイミングで、この公園を取引場所に選んだものなのである。
警察としては、万全の態勢であった。ウエノ公園の図書館裏の周囲には、何人もの警官や刑事が、変装して、配置された。人質交換が無事に終わり、茂の身の安全が確認され次第、犯人側の受け子をとっ捕まえる手はずなのだ。犯人側には、万に一つも、逃げ切れる公算はないはずであった。
この作戦を成功させるには、プレイヤーの倭文子の行動も重要となってくる。彼女は、取引が終わる瞬間まで、決して、周りに警察がいる事を、犯人に悟られてはいけないのだ。不審な動きを見せてはいけないのである。その点では、彼女は、とても責任重大なのだ。
そのプレッシャーのせいか、現場に着いた倭文子は、ますます、動揺が激しくなってしまったみたいなのだった。
「あのう、ごめんなさい。用を足しておきたいのですが」おどおどしながら、倭文子が言った。
「ええ?奥さん、もうすぐ時間ですよ。急いで済まして来て下さいね」彼女の護衛を任されていた警官が、呆れ顔になったのだった。
倭文子は、はにかみつつも、このウエノ公園にある公衆トイレにと向かった。今は、彼女も、そうとう気が張っていたので、これも、仕方ないといえば、仕方のない話なのである。
護衛の男の警官は、トイレの前までついて来た。しかし、当たり前のことだが、そこで立ち止まり、女子用トイレの中までは同行しなかった。
倭文子は、暗いトイレの建物の中へと入っていき、一人で用を済ませたのだった。これで、多少は、緊張や興奮が和らいだ感じもする。倭文子は、トイレの洗面台の前で、呼吸を整えながら、手を拭いていたのであった。
その時である。
「倭文子さん、倭文子さん」突如、倭文子を呼ぶ声が聞こえたのだ。
倭文子はギョッとした。その声は、トイレの個室の方から聞こえてくるのである。倭文子もよく知っている人物の声だった。
「三谷さんですね。ど、どうしたのですか」倭文子は言った。
「良いですか。まずは、僕の姿を見ても、驚かないで下さいね」最初に、その声が念を押した。
それから、声のした個室の中から、三谷が姿を現わしたのだった。いや、すぐには、それが三谷だとは分からなかった。個室から出てきた人物は、女の格好をしていたのである。
「み、三谷さんですよね?」呆然としながら、倭文子が相手に聞いた。
「へへ。僕は、昔、芝居をやっていた事もあり、多少の変装もできるのですよ。どうです?本物の女性に見えるでしょう?」女の格好をした人物が、笑いながら、言った。やはり、その声は三谷なのである。
「一体、何のつもりなのですか?」と、倭文子。
「いいですか、倭文子さん。ここで、僕とあなたは入れ替わりましょう」
「え?」
「僕は、この人質交換は、どうも、嫌な予感がするのですよ」
「何故ですか」
「あまりにも手口が特異であり、ただの現金目的だとは思えないのです。もしかすると、犯人には裏の意図があり、その狙いとは、実は、倭文子さん、あなたなのかも知れません」
「え!」
「以前から、誰かにつけられている気がすると、倭文子さん自身もおっしゃっていたでしょう?その犯人が茂くんの誘拐魔だった可能性もあります。とにかく、あなたが人質交換の場にそのまま出向くのは、大変に危険です」
そんな事を言われると、倭文子は、がぜん心配になってくるのである。いろいろな不安な記憶が、いっぺんに頭の中をよぎり出したのだ。
「私、どうすればいいのでしょう」オロオロしながら、倭文子が言った。
「だから、僕があなたの身代わりになります。犯人がおかしな事を仕掛けてきても、僕が犠牲になります。いや、僕でしたら、うまく犯人にやり返す事もできるでしょう。あなたは、ここで隠れて、待っていてください」
「本当に、代わってくださるのですか」
「こんな格好ですでに準備していて、嘘を言う訳がないでしょう」三谷が笑った。
「じゃあ、この事を警察の皆さんにも知らせなくては」
「いいえ、それはダメです。敵を騙すなら味方から、と言うではありませんか。全員がこの作戦を知ってしまいますと、どこかから情報が漏れて、犯人にバレてしまう恐れもあります。この事は、全てが解決するまで、あくまで僕たち二人の秘密にしておくのです」
こうして、三谷と倭文子の二人は合意して、最後の仕上げとして、お互いの着ていた服も交換したのだった。
自分の服を身につけた三谷を見て、倭文子はハッとした。背格好が近かった事もあって、三谷は、ほんとに、倭文子そっくりになってしまったのである。暗がりで、顔がはっきり判別できなかったせいもあっただろうが、それを差し引いたとしても、三谷の変装は十分すぎるものだった。
「では、行ってきますね。あなたは、ずっと、ここに隠れていないといけませんよ。人質交換が終わるまで、絶対に誰とも会ってはいけません。で、あとから、僕か代理の者が、迎えに来ることにします」
それだけ告げて、三谷は、自信満々に、トイレから出て行ったのだった。安堵と不安が織り混ざった表情の倭文子を、一人だけ、この場に残しておいて。
このようにして、彼らだけが知る珍妙な身代わり作戦が、まさに実行される事となったのだった。




