誘拐捜査
シグマは、満身創痍ではあったが、幸いにも、命に別条はなかった。駆けつけた獣医に診てもらい、ひとまずは、犬小屋の方で安静にしている事になったのである。
恐らく、シグマは、主人の茂が襲われそうになったのを見て、果敢に、加害者に立ち向かっていったのであろう。しかし、ボロボロになるまで戦っても、その護衛の任務を果たしきれず、その場に倒れてしまったのかも知れない。そして、茂と離れ離れになってしまったものだから、止むを得ず、自分だけ畑柳邸に引き返す事にしたのだろう。
ここまで頑張ってくれた忠犬のことを、誰一人として、責めたりはするはずがないのだ。
さらに、シグマの体をよおく調べてみると、凶器らしいトランプのカード以外にも、首もとには、丸めた紙が巻き付けられていたのが見つかったのだった。
その紙を広げてみると、そこには、次のように書かれていた。
「茂ハ預カッタ。
返シテホシケレバ、
明後日ノ夜12時、ウエノ公園ノ図書館ノ裏ニテ、
10万円ト交換シテヤル。
持ッテクルノハ、母親ノ倭文子デナクテハイケナイ。
モシ、警察ニ知ラセレバ、茂ハ、スグニ殺ス。」
まさに、誘拐犯からの手紙以外の何ものでもないのである。つまり、茂は誘拐されてしまったらしいのだ。
素っ気ないタイプ文字で書かれた手紙であった。実は、このタイプ文字の種類は、以前、岡田のアトリエでアケチが受け取った脅迫状でも使われていたものだったのだが、その事は、のちに判明する事となった。
にしても、電話を使わず、誘拐先の飼い犬を伝言役に利用するとは、何とも、変わった誘拐事件なのだ。
畑柳邸では、倭文子の夫・庄蔵が当主だった頃から、斎藤という名の若い男が、筆頭の執事を務めていた。あまりに衝撃的な事件で、倭文子が焦燥してしまい、腑抜けてしまったものだから、この先の事件の対応には、この斎藤が当たる事となったのだった。
庄蔵の部下だった頃から切れ者だった斎藤は、実に手際が良かった。倭文子のように狼狽えるような事もなく、テキパキと指示を出していった。誘拐犯の手紙の脅迫にも屈する事なく、すぐに警察にも連絡したのだ。
間もなく、警察の担当者たちが、畑柳邸へとやって来た。その指揮官は、捜査第一課のツネカワ警部であった。
「なるほど。犯人からの指示は、この手紙一枚っきりですか。その後、人質交換の方法などを何も指示してこないとは、妙にあっけらかんとした誘拐ですな」
犯人から届いた手紙に目を通しながら、ツネカワが口にした。
この手紙は、もちろん、この後、すぐ鑑識へと回されたのだが、言うまでもなく、指紋一つ見つからず、何の犯人の手がかりも出てこなかったのである。
そんなツネカワのそばに、詰め寄るように、混乱している倭文子が近づいた。
「警部さん!私、あのアケチ探偵を雇用しているのです。アケチさんを、アケチ探偵をここに呼んでください!あの人だったら、きっと、茂の事もたちまち取り戻してくれると思います!」倭文子は訴えた。
「奥さん。済まないが、アケチくんは、今、別の事件に付きっ切りでね。あいにく、こちらには顔を出せそうにないのだよ。無理は言わないでくれないかな」ツネカワが穏やかに告げた。
斎藤執事も、慌てて、倭文子を押さえつけたのだった。
「そうですよ、倭文子さま。今は、警察のことを信じてみましょう」斎藤は言った。
「その通りだ、奥さん。我々の犯人検挙率だって、なかなかのものなのですよ。こんな雑な誘拐事件でしたら、多分、そう苦労する事もなく解決できるはずでしょう。まずは、我々に任せていただけませんか」ツネカワも、倭文子に、優しく、そう話し掛けたのだった。
それでも、倭文子は、まだ心配そうな顔をしていたのであった。
だが、ツネカワの言葉も、まんざら嘘ではなかったのだ。
ツネカワ率いる第一課の担当チームは、さっそく、この誘拐事件の捜査を開始したのだった。人質交換の予定日までは、まだ二日ある。犯人の手がかりが脅迫の手紙一つだとは言っても、まだまだ出来る事は一杯あるのだ。
まっ先に行なったのは、この畑柳邸の近辺での聞き込み作業だった。すると、茂の誘拐方法について、意外な事実が分かったのだ。
多くの市民が、道を行く奇妙な小集団を目撃していた。小柄なピエロを先頭に、お坊ちゃん風の少年、大きくて温厚そうな牧羊犬、という組み合わせである。この二番目の少年というのが茂だった事は、ほぼ間違いない。だが、この余りにも奇抜な組み合わせは、とても現実味がなく、ファンタジーのようであり、まさか誘拐の道中であったのは、これを見ていた誰もが思わなかったのであった。皆は、てっきり、これら全員が仲間のコスプレか街中宣伝マンだと考えてしまった訳だ。
こうして、犯人は、白昼堂々と、まんまと茂を拐かしたらしいのだった。となれば、その誘拐の実行犯とは、先頭のピエロだったと言う事になろう。確かに、突飛な方法で、大胆に誘拐を成功させたのかもしれないが、代わりに、この誘拐にはデメリットも大きく、これほど目立つのならば、彼らの進行ルートや行き先も、全て、誰か彼かに見られているはずなのだった。
ツネカワ警部の部下の警官たちは、聞き込みを続けていった。すると、途中で、大きな壁にとぶつかってしまったのである。
ピエロの行進は、畑柳邸の門前から始まって、アオヤマ地区の方まで続いていた事が、その目撃情報より判明した。しかし、そのアオヤマのなかばで、彼らの消息はピタリと消えてしまったのだった。
と言う事は、その近辺に犯人のアジトがあったのだろうか。いや、こんなに目に付く誘拐劇をすれば、途中で姿を消すと、そこが終着点だと疑われてしまうのは、犯人だって、十二分に承知のはずである。
だとすれば、そのアオヤマ地区のどこかで、彼らは、そこに待機していた車にでも乗り込んで、あらためて自分たちの根城へと移動した、と考えるのが、もっとも無難な線であろう。
かくて、警察の聞き込みは、今度は、アオヤマ地区で見かけた不審な車の情報にと切り替わったのだった。だが、これが、なかなか目ぼしい車の情報が得られず、今度こそ、犯人追跡の情報収集は中断してしまったのであった。
人質交換の日までは、まだ丸一日ある。残念ながら、犯人からの新しい連絡は、畑柳邸には届いていかなかった。それでも、警察は、これまでに入手した僅かな手がかりだけで、粘り強く、犯人の捜査を諦めなかったのである。
聞き込みの警官の一部は、まだ執念深く、アオヤマでの犯人の足取りを追い続けていた。彼らの努力によって、ピエロ誘拐魔の消えた直前の地点までが割り出されていたのだ。
そこは、左右を高い塀によって挟まれた、人通りの少ない細道だった。ここならば、逃走用の車さえ停めておけば、誰にも目撃されないうちに、さっさと車の中に乗り込む事もできたのかもしれない。シグマも、その際に、一匹だけ置いてけぼりを喰らい、車を追いかけてこないように、瀕死の状態にさせられたのだと推測される。
とにかく、もう少し何かの情報が欲しいものだから、何人かの警官は、なおも、この地点を、しつこく、繰り返し、歩き回っていたのだった。
と、こんな寂しい道路だったのに、ずっと同じ場所に立ち止まって、うろついている怪しい人物がいるのを、警官たちは見つけたのであった。犯人は犯行現場に戻ってくる、と言われるものだ。もしや、この謎の人物は、犯人の一味ではなかろうか。
警官たちは、すぐさま、その怪しい人物のそばへ寄っていったのだ。
「君、何をしているんだい」と、警官の一人が、その人物に声を掛けた。
「あ、警察の人ですね。皆さんも、ここが一番怪しいと睨みましたか」謎の人物は、若い男の声で、明るく、警官に答えたのだった。
「怪しいって、何が?」と、警官。
「もちろん、誘拐魔の逃走ルートですよ」
「え!誘拐魔って?なぜ、それを知っているんだ?まだ、この事件の情報は一般公開していないはずだぞ。さては、お前は、やっぱり犯人の仲間なんだな」
「えええ?やだなあ。違いますよ。僕は、たままた、畑柳邸にいて、ちょうど、茂くんの誘拐が分かった現場にも居合わせただけです。倭文子さんにでも聞いてくだされば、僕の容疑は晴れるはずだと思いますよ」その若い男は、笑いながら、そう言い返したのだった。
「被害者の知り合いなのかね?君は、一体?」
「僕の名前は、三谷房夫と言います。職業は私立探偵です」謎の青年は、このように名乗ったのであった。
そうなのだ。この怪しい人物とは、まさに、あの三谷に他ならなかったのである。
「困るなあ。この事件は、まだ非公開のものなんだ。シロウトは勝手に首を突っ込んで欲しくないな。万一、犯人を刺激したら、どうするつもりだ?」警官らは、顔をしかめた。
「でも、倭文子さんの家族は、僕にとっても、まんざら他人ではないのです。少しでも力になってあげたくて」
「その気持ちは察してあげたいがね。でも、ベテランの我々でも、なかなか手こずっている事件なんだ。私立探偵だそうだが、君だって、まだ有力な手がかりは見つかってないのだろう?」
ところが、三谷は、不敵な笑みを口もとに浮かべたのだった。
「例のピエロ誘拐魔が、この近辺で姿を消した事までは間違いありません。警察の皆さんも、そこまでは突き止めたのでしょう?」三谷は言った。
「だから、犯人は、この辺に車を停めていて、ここで、その車に乗り込んだのだろう?」
「誰もが、そのように考えています。でも、それこそが、犯人の狡猾なトリックだったのです」
「君。何を言いたいのかね?」警官は、少しイラついてきたようだった。
「犯人は、すぐに車では逃げておりません。実は、このすぐ近くに彼らの隠れ家はあったみたいなのです」
「何をバカな事を。証拠でもあるのかね?」
「証拠はこれです」
そう言いながら、三谷は急にしゃがみ込んだのだった。
彼の足もとにマンホールがあった。三谷は、そのマンホールの蓋に手をかけたのである。重たいはずのマンホールの蓋は、三谷の片手でも、ひょいと持ち上がってしまったのだった。
「これは?」警官たちは驚いた。
三谷は、ここぞとばかりに、得意げな表情になったのであった。
「このマンホールの蓋は、表面だけが鉄の、木製なのです。そんなオカシなマンホールの蓋が本物だと思いますか。このマンホールは、恐らく、個人がひそかに作ったダミーなのでしょう。誰がそんなものを、この場所に設けたのか?もちろん、この道路の真ん中に抜け穴を作りたかった人物です。そいつは、このマンホールの中に潜り込む事で、皆の前から姿を消しました。つまり、このマンホールこそ、誘拐犯の真の逃走ルートだったのです」




