倭文子と茂
ここは、とても豪勢な洋風のリビングである。その広さや装飾を見ただけでも、そのブルジョアぶりが、よおく分かるのである。
この素晴らしいリビングのソファーの一つに、しず子が、これまた、とても艶やかな柄の洋服を優雅に着こなして、腰掛けていた。彼女のそばには、やはり、たいへん可愛らしい、6歳ぐらいの男の子が、身ぎれいな正装で、ちょこんと座っていたのである。この男子が、しず子の一人息子の茂だった。
そして、この二人と向かい合う位置の一人用のソファーに、三谷が、ちょっと緊張ぎみに、かしこまって座っていたのであった。
「三谷さん。もっとリラックスしても構いませんのよ」しず子が、笑って、三谷に話し掛けた。
「は、はあ」と答えた三谷は、相変わらず、姿勢を崩そうとはしないのである。
「どう?驚きました?私は、実際は、このような大金持ちの人間だったのです」しず子は告げた。
「い、いえ、驚いてはいません。うっすらと、あなたがそのような身分違いの方ではないかとは気付いてはいました」三谷は、静かな声で答えた。
そう。この立派なリビングは、しず子の住む邸宅の中の一室だったのである。
「でも、私は、あなたが思っているほどの潔白な人間でもありませんのよ。私の正式な名前は、畑柳 倭文子と言います。夫とは死に別れましたので、今は未亡人です。それだけではなく、亡き夫との間の忘れ形見もいます。それが、この茂です」と、しず子、いや、倭文子は、自分の隣にいる茂に目を向けた。
「何も卑下する事はありませんよ。こんな可愛い息子さんまでいらっしゃるなんて、むしろ、幸せそのものの身分じゃありませんか」三谷は返した。
「いいえ。そうとも言えませんの。それと言うのも、私の亡き夫とは、服役中の犯罪人でしたから。しかも、彼は、最近、獄中死してしまったのです。諸事情があったらしくて、亡くなった夫の姿は見せてもらえませんでした。今の私は、犯罪者の妻であり、未亡人なのです」
ここで、倭文子は、茂が退屈そうにしているのに気が付いたのだった。
「茂ちゃん。三谷さんへのご挨拶も済んだし、もう席を立っていいわよ。お庭で遊んでらっしゃい。シグマを連れて行くのを、忘れないようにね」
母親・倭文子に言われて、茂は、嬉しそうな顔で、立ち上がった。彼は、三谷の方へペコリとお辞儀すると、待ちきれないかのように、小走りで、リビングから出て行ったのだった。
「あのう。シグマとは?」三谷が尋ねた。
「見ていたら、分かりますわ」
倭文子は、すぐそばの全面窓の方に、顔を向けた。そこからすぐ外が、この邸宅の庭になっているのである。倭文子と三谷の二人が、そちらを眺めていると、やがて、庭に、大きくて毛深い牧羊犬を連れた茂の姿が現われたのだった。この一人と一匹は、楽しそうにじゃれて、庭の中を駆け回っているのである。
「シグマって、犬のことですの。とてもよく躾けられたビアデッドコリーよ。温厚で、人懐っこくて、小さな子供のことだって、決して噛む事はありませんわ。でも、こんな可愛い見た目でも、元が牧羊犬ですから、飼い主を守る為ならば、勇敢に、悪者にでも立ち向かってくれます。人間なんかよりも、よっぽど信用のできるボディガードだとは思いませんか」倭文子は、ニッコリと微笑んだのだった。
「なるほど。あの犬と一緒でしたら、他に子守がついていなくても、茂くんは安心ですね」三谷も、感心して、頷いたのであった。
そして、肝心の茂はと言えば、いつの間にか、倭文子たちからは見えないような位置にまで、遊びふざけながら、遠ざかってしまったみたいなのだ。でも、シグマがいるから、倭文子は少しも心配していない様子なのであった。
「お話を戻しますわ。夫の死後、夫の残した莫大な財産を受け継いだ私は、それ以来、さまざまな男たちから、ひっきりなしに求愛されるようになってしまいました。恐らくは、そのほとんどが、愛のない、私の財産だけが目当ての求婚者だったのでしょう。私のことを『畑柳未亡人』と呼んだところを見ると、あの岡田道彦も、私の素性を知っていたのかも知れません」
「それは、難儀な話でしたね」三谷は、同情する口ぶりになった。
「そうした求婚の煩わしさに嫌気がさした私は、自分の正体を隠して、ニッコウの方へ、気分転換で、長期外泊をしておりましたの。茂の事も、この屋敷の使用人たちに預けてね。そして、私は、三谷さん、あなたに出会ったのです。どうやら、あなたは、私の素性を知らなくても、私のことを愛してくれたようでした。だから、私は、あなたの事を、本気で信じてみる事にしたのです」
「あなたのお眼鏡にかかったと言う事ですね。それは光栄な話です」
「いえ。私の方こそ、あなたのような方と知り合えて、本当に幸運でしたわ」
どうやら、倭文子と三谷は、すっかり、互いに心を許しあえる存在になっていたみたいなのであった。
さて、その頃、茂はと言えば、彼は、遊ぶのに完全に夢中になってしまっていたのだった。彼は、シグマとともに、広い庭のはじの方まで駆けて向かい、気が付いたら、この屋敷の門の前にまで、たどり着いていた。
そこで、茂は、不思議な人物を目撃したのである。
それはピエロだった。白塗りのメイクをして、道化服を身につけた、細身のピエロなのだ。そのピエロが、面白おかしく、屋敷の門のすぐ外の道端で踊っていたのだった。
茂は、ピタリと動きを止め、物珍しそうに、そのピエロの舞いを眺め続けていた。
すると、突然、ピエロは踊るのをヤメたのである。この人物は、まっすぐに、茂の方に顔を向けた。
「どう?あたしの踊り、楽しかった?もっと見ていたい?」ピエロが、茂に向かって喋ったが、それは意外にも、若い女の声だった。
だが、少女の声だった事が、逆に、茂を安心させたらしい。茂は、ピエロの言葉に、すぐ頷いたのだった。
「じゃあ、あたしの後をついてらっしゃい。もっと楽しいものを、いろいろと見せてあげるわ」そう言って、ピエロは再び軽やかに踊り出したのであった。
茂も、何もためらわずに、歩き出した。屋敷の門を出て、この女ピエロの方に寄っていったのである。
用心棒犬のシグマも、それを止めようとはしなかった。それどころか、シグマまで、茂の後ろからついていったのだ。どうも、茂が心を開いてしまったものだから、シグマにも、この女ピエロが悪人とは認識されなかったようなのだった。
女ピエロは、踊りながら、少しずつ移動を始めた。明らかに、畑柳邸の正門からは離れ出している。しかし、茂とシグマは、そんな事も気にせずに、女ピエロのあとを、愉快そうに追い掛けているのだ。
ただでさえ笑い顔のメイクだった女ピエロが、さらに怪しい笑みを口もとにと浮かべた。
時刻は夕方となっていた。
畑柳邸のリビングでは、なおも、倭文子と三谷が会話を続けていたのである。
「バカな女だと思われるかも知れませんが、私ったら、夫が警察に逮捕されるまで、彼が裏では悪い事をしていたのを、何一つ知りませんでしたのよ」倭文子が自嘲した。
「そんな事はありませんよ。あなたはあなたなりに、ご主人のことを信用しきっていたからこそ、何も聞かずに、彼に付き従ってきたのでしょう?」三谷が言った。
「確かに、私の夫は、悪質な犯罪者だったかも知れません。でも、私と茂への愛情だけは、紛れもない本物でした。彼が警察のお世話になっても、私たちが犯罪人の家族として世間の誹りを受けずに済んだのも、結局は、彼が、表の社会では、誠実な人間関係や社会との交流を築いてくれていたおかげなのです。この屋敷と財産だって、亡くなった夫が私たちに残してくれた大切な愛の証なのだとも言えるでしょう。だから、私も、決して、夫を裏切るようなマネだけは出来ませんの」
「あなたも、ご主人のことを心から愛していらしたのですね」
三谷がさりげなく尋ねたが、倭文子は小さく微笑んだだけで、はっきりとは答えなかったのだった。
「おや、すっかり話し込んでしまいましたね。もう、こんな時間だ。だいぶ暗くなりましたけど、茂くんはまだ外でしょうかね?」
三谷が言ったが、実は、先刻から、庭には、ずっと茂の姿は見えなかったのである。
「多分、シグマといっしょですから、問題ないとは思いますが」
その矢先、リビングの入り口に、慌てた様子の女中が入ってきたのだった。
「お、奥さま!シグマが、シグマが大変です!」女中は叫んだ。
この報告に、倭文子も三谷もギョッとしたのであった。二人はバッとソファーから立ち上がると、急いで、この屋敷の玄関の方へ向かった。
大きな玄関のドアは開けっ放しになっていた。そのドアをくぐって、傷だらけになったシグマが、ヨロヨロと中へと入ってきたのだった。シグマの長い毛のあちこちが、血で赤く染まっているのである。
「シグマ!シグマ!何があったの!茂は?茂は、一体、どこ?」倭文子は、血迷った様子で、シグマのそばに走り寄った。その顔は、すっかり蒼白なのだ。
シグマは、体じゅうに深い切り傷があって、どくどくと血を流していたが、それでも、残った力を振り絞って、この屋敷まで戻ってきたみたいなのだった。まさに、忠犬なのである。
「誰が、こんなヒドい事を。これほどの大型犬をズタズタにするなんて、かなりの使い手ですね」三谷は呟いた。
他方の倭文子は、完全に気が動転してしまったらしく、今にも気を失い、よろめき倒れそうなのである。
「あれ?」と、三谷が何かに気がついた。「これは?」
彼は、シグマの体に刺さったままだった凶器を発見したのであった。そっと手を伸ばし、三谷は、シグマの長い毛をかき分けて、その凶器をこの犬の体から抜き取った。
その凶器とは、一枚の小さな厚紙だった。正確には、トランプのカードなのである。カードの種類はジョーカーで、その片面には、毒々しいピエロの絵柄が大きく描かれていたのだ。
この奇妙な凶器を目にして、この場にいた全員が、キョトンとした表情になったのだった。




