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浴場の怪人

 岡田が部屋を出ていったあと、三谷としず子は、無意識のうちに抱き合っていた。

 どうやら、今の興奮するような出来事の数々が、彼ら二人の感情を、勝手に高めてしまったようなのである。そもそもが、しず子は、岡田よりは三谷にと、かなり心が向いていたのかもしれない。

「岡田さん、大丈夫かしら」しず子が不安そうに呟いた。

「あいつだって、子供じゃないのです。少し時間が経てば、きっと、頭も冷えるでしょう」三谷は冷静に言った。

 二人は、これまで以上に、身を寄せ合う存在になってしまったようなのであるが、どうやら、まだ意識はしていないみたいなのだった。

「ところで、しず子さん。あなたは、今、僕たちの妻には絶対になれない、とおっしゃいましたね?それは、なぜですか?僕は、あなたの事を、あまりにも知りません。ここに湯治に来ていた事しか分かっていないのです。てっきり、あなたは未婚者だと思っていたのですが、実は違ったのですか」三谷は、落ち着いた口調で、しず子に尋ねた。

「いえ。今の私には、確かに、夫も恋人もおりません。しかし、だとしても、あなたたちに身を預けるような事はできないのです。あなた方だけではなく、他の一切の殿方にも」しず子は、戸惑いながら、答えたのだった。

 そんな時、廊下の方から、ドタバタ走る音が聞こえてきたのである。その足音は、どんどん近づいてきた。

 それから、この部屋の入り口にと、再び、岡田が姿を現わしたのだ。

「やい!しず子、それに、三谷!」と、岡田は乱暴に怒鳴った。その顔は血走っていたが、先ほどまでの、恥辱にまみれた狼狽は消えていた。

「岡田さん!なぜ、戻ってきたのですか。あなたは、自分の負けを認めたのと違ったのですか!」三谷も、強気の口調で、岡田に言い返した。

 しず子の方は、すっかり怯えてしまい、がっちりと三谷にしがみついていたのだった。しかし、そんな彼らの仲睦まじい姿は、今の岡田を、より激昂させた可能性があったのだ。

「オレが負けただと?ああ、恋については、負けた事にしてやってもいいさ。だが、オレは、しず子を完全に諦めた訳ではないからな。こうなったら、可愛さ余って憎さ百倍だ。これからは、オレは、復讐の鬼となって、お前たちに干渉し続けてやる!お前たち、もう二度と、枕を高くして寝れると思うなよ!」

 岡田は、とんでもない事をベラベラと訴え始めたのだった。

「岡田さん!あなたは、どこまで心の醜い人なのですか!」しず子も、身震いしながら、思わず、そう言い放ってしまった。

「何とでも言え!おい、しず子。最後に、オレからのプレゼントを受け取れ!さらばだ、畑柳夫人」

 そう怒鳴って、岡田は、しず子の方へ、小さな箱を放り投げたのであった。片手に乗るほどの小箱である。そして、それだけの用を済ますと、岡田は、再び、廊下へ出て行ったのだった。それっきり、彼は、今度こそ、もう戻っては来なかったのである。

 しず子は、小箱を受け取り、岡田のこの怪しい置き土産を、しばらく、ためらいながら、眺めていた。

「何でしょう、この箱の中身は?」彼女は、不安そうに言った。

「まるで、指輪を入れる箱みたいですね。もしかしたら、岡田さんは、あなたに求婚する気まんまんで、すでに、婚約指輪も購入していたのかも知れません」三谷が推測した。

「じゃあ、この中に、その指輪が?」

「未練がましく、指輪だけ、よこしたのかも知れませんね。とりあえず、箱を開けてみましょう」

 二人は、すっかり、箱の中身は指輪だと思い込んでしまっていた。だから、まるで警戒せずに、箱の蓋を開いてしまったのだ。

「きゃあっ!」と、しず子は、目を見開いて、悲鳴をあげた。

 箱の中には、なんと、大きな女郎蜘蛛の死骸が入っていたのである!

 しず子は、思わず、小箱を床に投げ落としてしまった。その中に詰め込まれていた蜘蛛の死骸も、床の上に放り出されたのである。

 この不気味なプレゼントを前にして、驚いた三谷としず子は、またもや、強く抱き合ったのだった。

「なんて奴だ!貴婦人にこんなものを贈りつけるなんて!」三谷は、熱くなって、叫んだ。

「怖い。私、怖いわ!」しず子も、泣き顔で訴え続けた。

 そして、二人は、ますます激しく、互いの体を抱きしめ合ったのである。


 岡田の脅迫は、皮肉にも、三谷としず子の絆をより深めてしまったみたいだった。

 岡田が姿をくらましたその日のうちに、三谷は旅館の受付の方に確認をとってみた。すると、確かに、岡田は、あの時に立ち去ってから、これまでの宿泊代の勘定をすぐに済ませていたのだった。つまり、少なくとも、彼は、しず子のそばに未練がましく居続けるような真似だけはヤメてくれたみたいなのである。

 とは言え、あれほど粘着的な嫌がらせを仕掛けてきた岡田のことだ。あのままスンナリ引き下がってくれたとは、にわかには信じ難かったのである。

 よって、岡田に対するしず子の不安や恐怖心は、とうてい薄れそうにもなく、彼女は、旅館の中にいても、四六時中、岡田の影に怯え続ける事になったのだった。

 ここで、彼女のナイトとして名乗り上げたのが、三谷である。今の段階では、警察に護衛を頼むのも難しいし、ならば、三谷が自らしず子のボディガードを引き受ける事にしたのだった。三谷も、岡田の脅迫はじかに目撃していた訳だし、むしろ、彼ほどの理解者、適任者はいなかったかも知れない。

 三谷は、終始、しず子のそばに居て、彼女に危害を加えるものが現われないかどうかを見張り続けてくれた。しず子の泊まっていた部屋で、入り浸りで寝ずの番をしてくれたし、彼女の行く場所へは、どこへだって付き添った。でも、しず子を慕う三谷にしてみれば、それは、大変どころか、実に幸せな任務だったのであろう。

 そう、この時だって、三谷は、しず子の奔放なワガママにも、何一つ意見もせずに、付き合ってくれたのだった。彼女は、夜の遅い時間帯に大浴場に浸かりたいと言い出して、ただし、その場に他の入浴者がいなければ怖かったものだから、三谷へと同行を求めたのである。そして、三谷は、このお願いにも、全く嫌がる事もなく従ってくれたのだった。

 二人は、旅館内の真夜中の大浴場へとやって来た。もちろん、三谷は女湯に入る事はできない。よって、彼は、女湯のすぐ外の廊下で、しず子の入浴が終わるまで待機している事になったのである。

 脱衣場は、女湯の一番手前にあったので、外の廊下とは、引き戸一枚しか離れていなかった。だから、脱衣場と廊下の間では、十分に声が通って、会話もできたのだ。しず子が着衣を脱いでいる最中は、三谷とも、しばらく、おしゃべりを続けていたのであった。

「しず子さん。あなたにお話すべきかどうか迷っていたのですが、やはり、伝えておく事にしますね」廊下にいた三谷が、脱衣場のしず子へと話し掛けた。

「何か、あったのですか」と、しず子も、怯えた口調で、三谷の声に答えた。

「つい先ほど、地元の警察に探りを入れて、教えてもらったのですが、あの男、岡田道彦が自殺を図ったそうです」

「何ですって!」

「この旅館の近くの滝つぼのそばから、彼の書いたものらしき遺書が見つかったと言うのです。その中には、しず子さんへの未練がましい恋の思いもたっぷり書かれてあったそうです」

「えええ!で、岡田さんは?亡くなられたのですか?」

「分かりません。遺書だけで、遺体そのものはまだ発見されていないのです。捜索願が出ている訳でもありませんし、警察としても、どこまで本腰を入れて、この遺書と取り組んだらいいか、困っているみたいです」

「では、それって、岡田さんの狂言自殺の可能性もあると?」

「そうです。これも、僕たちへの嫌がらせの一つなのかも知れません。自殺を装っただけで、岡田は本当は死んでおらず、僕たちが戸惑っているのを、どこかから見て、あざ笑っている可能性もあるでしょう」

「嫌だわ。ほんとに自殺していたら気の毒ですが、もし、イタズラだったとしたら」

「岡田は、本職が彫刻家らしいですね。芸術家は、得てして、特殊な感性を持ちがちであり、だから、蜘蛛の死骸をよこしたりもしたのでしょう。自分の自殺を演出する事だって、平気で思いつき、実行するかも知れません」

「だとすれば、なんて人なのかしら。そして、私は、どうしたら良いのでしょう?」

「まあ、気になさらなければいいのです。そもそもが、全て、あいつの勝手な逆恨みなのですから。たとえ、岡田が実際に自殺していたとしても、あなたが責任を感じる必要はありません」

「それだったら良いのですが」

 そして、脱衣場の方からは、浴場への引き戸がガラリと開く音が聞こえてきたのだった。しず子は、服を脱ぎ終えたので、予定どおり、浴場へと入ってしまったのである。

 これでは会話の方も終了なのだ。三谷も、おとなしく、口を閉じたのだった。そのまま、しばらく、女湯の前の廊下で佇んでいたのである。

 突如として、しず子の悲鳴が響き渡った。浴場の方からだった。どうやら、浴場の中で、しず子が大声で叫んだらしいのだ。

 三谷はハッとした。こうなると、女湯だろうが、関係ないのである。彼は、身を翻すと、急いで、女湯の中へ飛び込んだのだった。

 三谷は、一直線に、無人の脱衣場の中を駆け抜けた。続いて、浴場に通じる引き戸に手をかけると、それをガラッと勢いよく開いた。

 浴場には、しず子が一人っきりだった。彼女は、洗い場のタイルの上に、へなへなと横たわって、倒れていた。言うまでもなく、今のしず子は全裸なのだ。三谷にしてみれば、初めて目にした、愛しき人のヌードだった。それは、想像した通りの色香と美しさだったのである。

 だが、三谷は、そんな雑念に惑わされる事なく、今は、すぐに、愛する女性のそばに走り寄ったのだった。

「しず子さん!何があったのですか!」三谷は、力強く、しず子に声をかけて、彼女の体を抱き起こした。

「あ、あそこに。化け物・・・化け物が!」今にも失神しそうなしず子は、たどたどしく、そう言い放ったのだった。その顔は、恐怖で真っ青なのである。

 彼女は、右腕を伸ばし、震えながら、浴場の窓の方を指さしていた。

 この場所は1階である。暗い夜中ではあったが、外には、きれいな大自然の景色が広がっていたはずだった。

 だが、それだけではなかったのだ。

 三谷もギョッとさせられたのだが、窓からは、何者かが浴場内を覗いていたのである。それは、普通の人間の顔ではなかった。ギョロリと丸い目玉に、先の欠けた鼻、むき出しになった全ての歯。それは、おぞましくも、骸骨そのものであり、確かに化け物にしか見えない顔だったのだ。

 その恐ろしい顔を、しず子も三谷も、はっきりと目にしてしまったのである。

 そして、三谷が次の行動に移る瞬間も与えずに、その怪人は、素早く、浴場の窓のそばから立ち去ってしまったのだった。怪物の顔は、窓の向こうからスッと消えてしまったのである。

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