魔術師の亡霊
取り調べを受けたあとのフミヨは、その後、オチャノミズにあるアケチコゴロウの探偵事務所で保護されていた。
フミヨは、自供はしたものの、その内容を事実と確定するには、あまりに証拠が乏しく、手続き上は、彼女は一時的に放免となってしまったのである。とは言え、彼女が今回の事件のキーパーソンである事はほぼ間違いなかったし、強盗組織の魔術団が壊滅してしまった今、彼女には帰る場所すらなかった。そこで、本人の承諾も得た上で、アケチ探偵が彼女の身元引き受け人になったのだった。
アケチは、雑居ビルの二階に、広く、探偵事務所を構えていた。そこには、応接や仕事をする部屋だけではなく、寝泊りする予備部屋も備わっていたのである。フミヨは、そこに泊めてもらえる事になったのだ。彼女は、かつての仲間の報復も恐れていたようだった。その点でも、アケチの探偵事務所は、フミヨを匿うには最適の場所ともなったのである。
フミヨの世話は、主に、コバヤシ青年が行なっていた。その日も、朝食を運びに、コバヤシは、フミヨが寝ている部屋へと訪れたのである。
「よく眠れましたか?」
と、コバヤシは、ベッドの上に座っている寝起きのフミヨへと、優しく、声をかけた。
「ええ。まあ」フミヨも、微笑を浮かべて、答えた。「あのう。アケチ先生は?」
「先生は、今日は用事があって、朝から留守にしています。でも、ぼくは、一日、この事務所にいますので、何かあったら、気軽に相談してくださいね」
「ありがとうございます」
「おや。ほんとは、よく眠れなかったんじゃありませんか?」
コバヤシの指摘どおり、フミヨは寝不足特有のヤツれた感じなのであった。
「実は、夢に、父が出てくるのです。その度に、目を覚ましてしまって。私、ここに居ていいのだろうかと、何だか、不安になってくるのです」
「フミヨさんは、ずっと、恐ろしい犯罪者に育てられてきたんですものね。そうなるのも、仕方ありませんよ。でも、あなたのお父さんは、もう死んだのです。その事を引き摺るのは、もうヤメましょうよ。そして、これからは、明るく、自分の幸せの為に生きていくべきなのです」
「コバヤシさんって、お優しいんですね」
「いえ。アケチ先生でしたら、こう言うだろうな、と思って」コバヤシも、ちょっと照れたのだった。「ああ、そうだ。きっと、部屋の中にずっと閉じ篭っているから、あなたも気が滅入ってくるんですよ。少し、外でも散歩してみませんか」
「え。いいのですか?」
「だって、ぼく達は、あなたを犯人として拘留している訳じゃありませんからね。それに、犯人の一人だったとしても、あなたは、もう逃げる気もないのでしょう?」
「でも・・・」
「さっきも話したように、あなたのお父さんは死んだはずですし、その部下の魔術団も解散しました。また、暗黒星の方も、魔術師が欠けた影響で、内部で大きな混乱が起きているらしく、新たな動向の情報が聞こえてきません。だから、あなたが、すぐに誰かに狙われるような心配は、ひとまず無いだろうとは思いますよ」
「それなら、少し、外の空気を吸ってみようかしら」
「ええ。それがいいですよ」
コバヤシの勧めで、フミヨは、ちょっと、この事務所の外を歩いてみる事にしたのだった。
アケチの探偵事務所は、オチャノミズ地区のど真ん中に建っていた。周囲は、多数のビルや建物に囲まれており、日中ならば、人通りも多かった。このような場所ならば、賊がいきなり襲ってきて、フミヨを殺したり、拉致するような事もないだろうと考えられたのである。
あいにく、コバヤシは、やりかけの仕事もあったし、事務所の留守番もしなくてはいけなかったので、フミヨに同行する事はできなかった。でも、事務所の入っているビルの周辺をグルリと回る程度に歩くのだったら、フミヨ一人で歩いても、特に危険はないだろうと判断されたのだ。
かくて、フミヨは、何日かぶりに、陽の降り注ぐ野外へと、身をゆだねてみたのだった。
大都会の中央部ではあったが、それでも、屋外の空気は、大変に清々しかった。フミヨは、大きく息を吸うと、なまっていた体を、少しだけ動かす事にしたのである。
コバヤシは安全だと保証してくれたものの、実際に外に出てみると、何となく、人目が気になって、不安が膨らんでくるのだった。フミヨは、思い過ごしだと自分に言い聞かせながら、頑張って、歩道へと足を踏み出してみた。こうやって、自身の恐怖心を克服しない事には先に進めない事を、彼女も自覚していたからである。
ビクビクしながらも、フミヨは、歩道を歩き続けた。幾人もの歩行者とすれ違い、あるいは、追い越されてゆく。だいぶ歩いたようだ。アケチの探偵事務所の窓から見える区域からも、いくらか外れてしまったようだった。
そこで、フミヨは、ハッとしたのである。
前方から、ピエロの格好をした人物が歩いてきたのだ。白塗りの顔に、目立つ道化服姿のピエロ。否が応でも、それは、フミヨに、父の魔術師のことを思い出させたのだった。
もっとも、こんなところに、魔術師が堂々と現われるはずがない。道を歩くピエロは、大きな看板を掲げていた。どうやら、近所にある商店が雇ったコスプレ宣伝マンだったらしいのだ。そもそも、この道行くピエロは、体格からして、魔術師よりも、はるかに小柄だった。よく見ると、道化服も、水玉模様で、魔術師の愛用していた服とは異なるのである。明らかに、魔術師とは別人なのだ。
これは、フミヨにとって、大切な試練だったのかも知れなかった。ピエロ姿の人間に会っても、恐れなくなれば、その時こそが、フミヨも魔術師の呪縛から解放されたと呼べるかも知れないのだ。
フミヨとピエロの距離は、どんどん、狭まっていった。フミヨが踏み止まっていた一方、ピエロの方は、躊躇なく、歩き進んできた。ついに、フミヨと相手のピエロはすれ違った。それも、かなりの近さなのだ。
その時、ピエロは、フミヨの耳元に顔を寄せ、このように、ささやいたのだった。
「お前には、この世に絶望した人間の気持ちが分かるか?そう、それが、どんな気持ちだか分かるか?」
喉から搾り出して、わざと作ったらしい、不気味な、しわがれ声であった。
こんな不気味なメッセージを、突然、聞かされたものだから、フミヨも、ゾッとして、息を飲んだのである。
肝心のピエロは、すでに、フミヨの横を通り過ぎていた。そのまま、何事もなかったように、歩き去って行く。このピエロの謎の行為は、どうやら、フミヨしか気付かなかったみたいなのだ。
フミヨは、気が動転してしまい、もはや、何も考える事ができなかった。ただ、怖さばかりが心の中で増長していくのだ。このピエロの意図は、まるで分からなかったが、フミヨとしては、とにかく、もう、これ以上は、こんな野外には居たくなかった。早く、アケチの事務所に戻って、部屋に閉じこもり、気を落ち着かせたいのである。
フミヨは、慌てて、走り出した。あのピエロとは、二度と顔を合わせたくない。だから、彼女は、まっすぐ前へと走った。アケチの事務所からは遠ざかってしまうものの、それでも、彼女は前の方へと走った。うろたえ過ぎて、グダグダな走り方だった。そうであっても、彼女は、遠回りして、アケチの事務所へと向かった。
路地を大きく回り込んで、やっとこさ、フミヨは、アケチの事務所があるビルの玄関にまで、やって来たのだった。彼女は、急いで、その玄関に飛び込んだのである。そして、バタバタと、階段を駆け上った。アケチの事務所の入り口が見えると、挨拶もせずに、その中へと走って入っていったのだった。
「おや。フミヨさん、お帰りですか」
事務室の方で、資料の整理をしていたコバヤシが、フミヨの姿をチラリと見かけて、明るく、声をかけたが、フミヨは、何も答えずに、さっさと、自分の部屋へと直行してしまった。
それから、彼女は、自分の部屋の中に入ると、バタンと入り口のドアを閉めてしまったのである。
ようやく、フミヨは、動くのをやめた。ベッドの上に、クタクタと座り込んだが、高鳴る鼓動の方は、まだ、おさまらないのである。
一体、今のピエロは何だったのであろう?ただのイタズラだったのだろうか。いや、そうとは思えない。あのピエロは、恐らく、フミヨに悪意を持っていたのだ。ピエロの格好をしていたと言う事は、父・魔術師の秘密を知る誰かなのだろうか?まさか、魔術師の幽霊だったとか?
もう、考えると、分からない事だらけで、あまりにも怖すぎるのである。そう言う点では、ピエロのメッセージも、全く意味不明だった。あのピエロは、なぜ、フミヨに、あのような言葉を投げかけたのだろう?
ボンヤリしていたフミヨは、いつからか、何となく、窓の外を眺めていた。
この部屋からは、隣のビルの側面が見えるのである。隣のビルも、雑居ビルらしかった。壁には、窓がいっぱい有って、その奥には、うっすらと、会社員らが働いている姿が見えるのだ。
一箇所だけ、カーテンが閉まっていた窓があった。フミヨの部屋からは、ほぼ真向かいにある窓である。フミヨの目は、ぼんやりと、その窓の方に向いていた。
すると、そのカーテンで閉じていた窓が、ごそごそと、動き出したのだった。そこに居た何者かが、窓を開けようとしているのだ。
フミヨは、うっかり、その様子を見続けてしまった。
そう。カーテンの窓が、20センチほど開いた時。その窓には、ヌッと、中から、人が顔を出したのだった。
その顔を見て、フミヨは、ギョッとして、背筋が凍りそうになったのだ。
なぜなら、その現われた顔とは、先ほどのピエロだったからである。ピエロは、はっきりと、フミヨの方に視線を送って、いやらしく、あざ笑ったのだ。




