DNA鑑定
結局、この怪しい三重渦状紋の指紋は、暗黒星の新しい脅迫道具などではなくて、そもそもの屋敷内の住人の一人であった妙子の指紋だった訳である。
ナカムラ警部は、この指紋について、さんざん失礼な事を述べてしまった件を、慌てて、妙子にと謝ったのであった。だが、すっかり機嫌を損ねてしまった妙子は、これ以上は、この会合に付き合いたくなかったらしく、身勝手に、さっさと、この食堂から出ていってしまったのである。
妙子が退席後も、話し合いは、もうしばらく、続けられた。
犯人たちの侵入ルートの謎とともに、もう一つ、大きく問題視されたのは、警護に当たっていた警備員たちの余りの非力さであった。彼らは、屋敷や住人を守っていたとは思えないほど簡単に、賊の一味に手玉に取られてしまい、今回の犯行では、まるで頼りにはならなかったのだ。
賊の告げるカウントダウンは、決して「0」になるまで安心じゃなかった事も判明した。これからは、邸宅の警備だって、もっと本腰を入れなくてはいけないのである。
ナカムラ警部は、警護用に、警察から派遣する警官の数をもっと増員する事を約束した。
これまで護衛についていた警備員や使用人だって、現状のままではダメなのだ。もっと、本格的に不審者たちと戦えるように、各々がしっかりした武器を携帯する事が提案された。さらには、警備体制や巡回ルート、見張りの配置にしても、色々と見直す事が検討されたのだった。
こうして、この日の玉村邸の防犯会議は、ひとまず終了したのである。
さて、この防犯会議には、アケチの助手のコバヤシ青年は、なぜか、参加していなかったのだが、実は、この時、彼は、屋敷内の別の場所をうろついていたのだった。
コバヤシは、師のアケチから、こっそりと、極秘の命令を受けていたのである。その指令とは、妙子がいないうちに、彼女の部屋を物色してこい、と言うものだったのだ。
心が真っ直ぐな好青年のコバヤシにしてみれば、淑女の部屋に密かに忍び込むなんて、とても気乗りしない任務だったかもしれないが、師匠の特別な指示となれば、ここは致し方ないのである。
玉村家の防犯会議が始まり、妙子も食堂の方へ出向いてしまうと、コバヤシは、さっそく、人目を盗んで、妙子の部屋の中へと乗り込ませてもらった。幸い、妙子の部屋には鍵はかかっておらず、侵入し放題であった。
アケチは、コバヤシへと、何か、妙子の髪の毛とか体液など、彼女の肉体の一部を見つけ出して、秘密裏に取ってきてほしい、と指図していたのである。
もっとも、これが、口で言うのは簡単だが、なかなか難しいミッションだったのだ。しかも、女の子の部屋に勝手に踏み入った事に対する罪悪感から、直感や行動力も鈍り、さすがのコバヤシも、いつものように手早く作業はこなせなかったのだった。
そんな風に、コバヤシがモタモタしているうちに、やがて、部屋の主である妙子が戻ってきてしまった。彼女は、防犯会議を途中で放り出して、さっさと帰ってしまったからだ。
かくて、コバヤシは、部屋漁りをしていた瞬間を、まんまと、妙子に見つかってしまったのである。
「ちょっと!あなた、何してるのよ!」
当然ながら、妙子は、真っ赤になって怒った。
コバヤシの方は、一番まずい状況を現行犯で捕まってしまい、動揺してしまったものだから、しどろもどろになって、うまく言い訳ができないのである。
そうやって、コバヤシは、しばらく、妙子にどやされ続けた末に、最後は、部屋の外にまで追い出された。でも、妙子の怒りはまだまだ収まっておらず、不法侵入を働いたコバヤシの事を、あくまで糾弾し続けて、彼の姑息な罪を大ごとにして、皆にも報告するつもりでいるのだ。
と、そんな修羅場に、防犯会議を終えたばかりのアケチとナカムラ警部が、話をかわしながら、歩いて、やって来たのだった。
アケチは、目ざとく、コバヤシと妙子がもめているのに気が付いた。のみならず、コバヤシが任務に失敗したらしい事も、鋭く察知したのである。
アケチは、急いで、コバヤシと妙子の仲介に入った。
「もう、アケチさん!一体、あなたたちは何なのよ!いやらしいったら、ありゃしない!あたしの事をジロジロ見たり、部屋の中に勝手に忍び込んだりしてさ!そんな破廉恥だったとは、思わなかった。もう!名探偵が、聞いて、呆れるわ!」妙子は、真っ赤な顔でわめいた。それほど怒っていたのである。
「まあまあ。コバヤシの無礼は、どうか許してもらえませんか。彼は、僕の命令で、あなたの部屋で探し物をしていたのです。全ての責任は、僕にあります」と、アケチは説明した。
「何を探していたのよ?」
「あなたの髪の毛か何かが欲しかったのです。あなたの遺伝情報が分かるようなものをね」
アケチの言葉に、妙子だけではなく、ナカムラ警部も、キョトンとしていたのだった。コバヤシも、アケチの意図を理解せずに命令に従っていたので、アケチの話をじっと聞いているのだ。
「その遺伝とやらが、何の役に立つのかね?」妙子に代わって、ナカムラがアケチに聞いた。
「ナカムラさん。あなたも、耳にしたことがあるんじゃりませんか?DNA鑑定という、最先端の科学捜査の方法を。実は、僕は、今回、それを試してみようと考えていたのです」
「え?DNA鑑定を?でも、なぜ、妙子さんのを?」
「今はまだ、ハッキリとは答えられません。でも、DNA鑑定を用いれば、遺留物に付いたDNAから、そのDNAが誰のものかを判明できるとも聞いています。DNA鑑定は、まだまだ開発段階の技術だとは言われていますが、二つのDNAサンプルの違いを、7割程度までは見分けられるそうなので、それだけでも、僕としては十分なのです」
「待ってよ!もしかすると、あなたは、あたしの事も、二郎兄さんを襲った連中の仲間だったんじゃないかと疑っているの?」うろたえながら、妙子が言った。
「さあて、どうでしょうね。だけど、妙子さん、あなたも、本当は、あまり大っぴらには、ほじくり返されたくない事情があるのではありませんか。違いますか?僕たちの方も、あなたのプライバシーを尊重して、できれば、それを強引に聞き出すようなマネはしたくないのです。代わりに、あなたの無実を証明する為にも、せめて、DNA鑑定にだけでも協力していただきたいのです」
妙子は、ひどく気難しい表情を浮かべていた。どうやら、アケチの言った事は当たっていたらしいのである。
「髪の毛とか、少量の血液、あるいは、皮膚のわずかな一片とかでも良いのです。どうか、自主的に、それを提供していただけないでしょうか」アケチが、丁重に、妙子にお願いした。
妙子は、しかめっ面のまま、自分の髪の毛を一本、引っこ抜いた。それを、無言で、アケチの方へと突き出したのである。
「うん。毛根もついてますね。これでしたら、問題なく使えそうです。ご協力、ありがとうございました」アケチが、入手した妙子の毛を確認して、満足げに言った。
妙子の方は、不機嫌な様子のまま、無言で、自分の部屋の中に消えてしまったのである。
「さて、ナカムラさん。こちらの髪の毛を科捜研の方へ渡してもらえないでしょうか。DNA鑑定を依頼するのです。よろしくお願いします」
「よし、分かった」ナカムラは、妙子の髪の毛をアケチから預かると、ひどく素直に、去っていったのだった。
彼は、アケチの言動には絶対の信頼を置いているので、依頼された事は、すぐに何でも引き受けてくれるのだ。もっとも、その手柄を、こっそり自分のものにしてしまう事も、よくあるのだが。
ナカムラが行ってしまうのを見送ると、コバヤシも、ようやく口を開いたのだった。
「そういう事だったのですか」
「コバヤシくん、済まない。君だけにでも、きちんと説明しておいて、それから任務を頼んだ方が良かったのかもしれないね」アケチが、コバヤシに、軽く謝った。
「いえ、いいんですけど。だけど、それにしても、こっそり採取しようとしたりせず、最初っから、妙子さんに細胞の提供を依頼しても良かったのではありませんか?」
「それで、彼女が、すんなり、こちらの頼みを聞いてくれたと思うかい?」
「ああ。それは、確かに」
「とにかく、この家の人たちは、隠し事が多すぎるよ。もっと協力的だったら、僕たちも、これほど苦労はしなかったんだけどね」
その時、ふと、アケチとコバヤシは、自分たちに向けられていた視線を感じたのだった。
よく周囲を見回すと、すぐそばに一郎が立っていて、二人の方をぼんやりと眺めていたのである。
「おっと、一郎さん。お見苦しいところをお見せしちゃいましたね。ずっと、そこに居たのですか?」アケチが、苦笑しながら、一郎に話しかけた。
「ええ。盗み聞きするつもりはなかったのですが。なにぶん、うちの妹は、あんな性格なものでして。アケチさんにも、大変、ご迷惑をおかけいたしました」一郎も、穏やかに、とても丁寧に答えたのだった。
「いえいえ、この程度、気にしませんよ。ところで、一郎さん、実は、あなたも、何か隠している事があるのではありませんか。知っている事があれば、ぜひ、もっと教えていただけたら、僕も助かるんですけどね」アケチは、けっこう大胆に一郎にと探りを入れてみたのだった。「たとえば、犯人たちが、いつも、あっさり、この屋敷の敷地内に忍び込めるのは、あなたは、なぜだと思いますか?」
「その件ですか。それでしたら、メビウスの輪ですよ。この家にはメビウスの輪があるんです。犯人はその中をくぐり抜けていたのです」それだけ答えると、一郎は、すました表情で、この場を去っていったのだった。
「なるほど、メビウスの輪か。相変わらず、一郎さんは、面白い事を言う」
それから、アケチは、隣でコバヤシが戸惑っているにも関わらず、大声で笑い出したのであった。
自分たちの部屋に戻る前に、アケチとコバヤシは、二郎の部屋へと、ちょっと、お見舞いに行ってみようと考えたのだった。
ところが、二郎の部屋のドアの近くまで来ると、いきなり、そのドアが開いて、中から、一人の若い女性が出てきた。20歳前半ほどの、質素だが、感じのいい娘なのだ。
その女性は、アケチたちとは反対の方向へ、歩いて、去っていった。アケチらも、やや驚いて、その場で立ち止まったのである。
「あの人はね、二郎くんのフィアンセで、花園洋子さんです。普段は働いていて、雑誌に旅行のルポタージュなどを寄稿しているらしいです。二郎くんが賊に襲われたと聞いたものだから、さては、お忍びで見舞いに来てくれたのでしょう」実は二郎の内情を知っていたコバヤシが、こっそりと説明した。
「なんだ。二郎さんも、なかなか隅に置けないねえ。だったら、今日は、二郎さんの事は、全て、あの子に任せておいて、我々は今はお邪魔しない方がいいかもしれないね」アケチも、そう言って、微笑んだのだった。




