夜歩く妙子
翌日の午前中に、花崎親子は、何事もなく、玉村邸から帰っていった。たまたま宿泊した日に、あのような事件が起きるとは、彼ら親子にとっても、忘れられない出来事となった事であろう。
「コバヤシくんにも、良い妹弟子ができたじゃないか」と、アケチ探偵は笑って言った。
「もう!からかうのは、よしてくださいよ」コバヤシ青年は、慌てて、言い返すのだった。コバヤシにしてみれば、マユミの面倒をみるのは、本当に大変だったようなのである。
それはさておき、次の日からは、また、玉村邸を厳重に警護する日々にと戻ったのだった。
ナカムラ警部は、警官隊を引き連れて、さっそく、時計塔をあらためて捜索しまくった。当主の善太郎は、少し迷惑そうな顔つきをしていたが、警察の本腰を入れた家宅捜索となれば、さすがに反対もできないのである。
そして、時計塔を警察チームが占拠してしまったものだから、アケチ探偵のグループは、少しも、時計塔の調査をできなかったのだった。つまり、警察としても、国家機関の威信にかけて、私立探偵なんかに先を越されずに、自分たちの方が先に手柄を立てたい、と言う思惑があったのだろう。
アケチやコバヤシは、このような功名争いに巻き込まれるのは慣れたものだったのか、さほど気にかけた様子は見せていなかったのだが、二郎だけは違っていた。
「何だよ、あのナカムラって警部!鬼火の秘密に最初に気が付いたのは、俺たちなんだぞ。それなのに、なんで、俺たちは時計塔の調査をさせてもらえないんだよ」二郎は、そう不平をこぼすのであった。
「まあ、慌てる事もないでしょう。まともに捜索して、何かが見つかるのでしたら、それはすでに発見できているはずです。僕たちも、一度は、あの時計塔には上ってみて、調査はしたのですからね。でも、すぐに見つかったものは何もありませんでした。今は、もう少し、十分な情報が必要なのです。時計塔を調べるのは、そのあとでも遅くはないでしょう」アケチは、そのように言って、二郎をなだめたのだった。
かくて、警察の捜査チームは、昼間はずっと時計塔のあちこちを調べ続けて、夕方になると、波が引くように、いっぺんに撤退したのであった。でも、それだけで終わった訳でもなかった。さらには、玉村邸の警備体制は、時計塔を中心にして増強される事になり、夜には、一晩中、鬼火の出現を見張っている監視係も置かれるようになったのだ。
このような警察の厳戒な警備の状況については、その夜、アケチ探偵とコバヤシ青年も、自分たちの宿泊部屋でくつろぎながら、いろいろと意見を述べあっていた。
「こんな事でしたら、まだ、鬼火の話は皆に公表しない方が良かったかもしれませんね」と、コバヤシ。
「どうして?」アケチは聞いた。
「もし、鬼火が人為的なものだとすれば、あんなに厳重に守られてしまった時計塔では、もはや、誰も鬼火を光らす事など出来ないでしょう。あるいは、鬼火が自然現象だったとしても、それを見たあとに、賊は今まで通りには行動を起こしづらくなったんじゃないかと思います」
「確かに、そうかもしれないね」
「鬼火が予兆として機能しなければ、次の犯行のタイミングも分からなくなってしまいます。いっそ、鬼火が出なくなる事によって、賊も、これ以上の犯行は断念してくれたらいいんですけどね」
「まあ、そう上手くも行かないだろう。本当の正念場は、これからさ。こちらに時計塔の鬼火のカラクリを気付かれて、敵は次はどう動くかだ」
「ナカムラさんたちは、あんだけ、時計塔を調べまわって、少しぐらいは成果はあったのでしょうかね?」
「それもどうだろうね。食堂の手形については、結局、新しい事実は何も見つからなかったらしいよ。あの赤い手形には、指紋がなかったそうだ。もしかすると、手袋で押した手形だったのかもしれない。とは言え、そのへんは、最初っから十分に予測できていた話なのだが」
こうして、アケチと会話している最中も、コバヤシは、チラチラと窓の外に目をやっているのだった。
「気になるのかい」と、アケチ。
「え、ええ」コバヤシが口ごもった。
「じゃあ、ちょっと見回りに行ってきてもいいんだよ。だけど、くれぐれも、危険な状況だったら、深追いはしないようにね」
「はい」コバヤシは、嬉しそうに、立ち上がったのだった。
コバヤシ青年は、師のアケチの許可を得たものだから、さっそく、玉村邸の敷地内の巡回警備に出たのであった。
本来なら、夜の見回りは、他の専門の警備員たちに任せていたのだが、昨晩から色々あったものだから、コバヤシもまだ体が熱いままであり、今日は、朝からウズウズしていたのである。
懐中電灯で、暗い野外を照らしながら、コバヤシは、玉村邸の敷地内を、ゆっくりと歩き回った。
やはり、これまでとは、常駐警備員の配置されている場所が、かなり変更されているのである。時計塔周辺には、その玄関をはじめ、各所に、新たな警備員が番兵として立っていたが、代わりに、その他の場所からは、今まで見張っていた警備員が居なくなっていたのであった。恐らくは、時計塔を集中してマークしようという、ナカムラ警部の采配みたいなのだ。
「ああぁ。これじゃ、もし、時計塔以外の場所に賊が現われたら、人手が足りなくて、賊に逃げられてしまうかもしれない」コバヤシは、不安そうに呟いた。
彼は、敷地内をさらに歩き続けた。せめて、自分だけでも、手薄になった区域にも、きちんと目を配ろうと言う腹づもりなのである。
全く警備の人の姿を見かけない区間も多かった。特に、塀のすぐそばには、ほとんど常駐の見張りは置かれていないのだった。多分、頂上に電流の流れている塀を、賊が乗り越えて侵入する見込みはまず無い、と判断されたからなのだろう。しかし、だからこそ、逆に、もし、一度でも賊に敷地内へと侵入されてしまうと、誰にもバレずに敷地内を移動するルートも、ラクに組み立てられそうなのであった。
そんな無人の区域ばかりを、わざと探して、コバヤシは、よおく注意しながら、歩き回っていた。
ふと、そんな見張りのいない区域で、コバヤシの懐中電灯は、いきなり、人影を照らし出したのだった。時計塔と玉村本邸をつなぐルートからも外れており、むしろ、塀の方に近い場所で、それゆえにか、重要視されずに、見張りも置かれていなかったらしき地点である。
最初、その人影を見つけた時は、コバヤシもギョッとしたのであるが、まずは、警備員の可能性を疑った。
しかし、その人影は、どうも、警備員らしい服は着ていないのだ。体も小柄で、屈強な警備員のようには見えないのである。どうやら、この人物は女性のようであった。ただし、この屋敷の使用人で、警備に携わっている女はいなかったし、そもそも、こんな夜中に、危険な野外を、女性が一人で歩いているのは、たいへん危ないのだ。
「ちょっと、君」と、コバヤシは、とっさに声をかけてしまった。
コバヤシの呼びかけと、謎の女性にコバヤシの懐中電灯の光が当たったのは、ほとんど同時だった。
なので、その女性の方も、いきなり他人と遭遇して、思いきり驚いたみたいなのだ。彼女は、コバヤシの方に素早く背を向けると、そのまま、駆け出したのだった。
「待って!何か、用事をしていたのでしたら、手伝いますよ」コバヤシは、その女のあとを追いかけながら、そう怒鳴った。
お人好しのコバヤシは、この女性のことを、屋敷内の人間の一人だと信じ込んでいて、まるで疑っていないらしく、あくまで親切心から、そんな事を言ったのである。だって、これまで起きた事件から考えると、あんな大胆なアクロバットの犯行は、てだれた頑丈な男の仕事としか思えないではないか。こんな平凡そうな女が賊であるとは、とても考えられないのだ。
しかし、この女性は、急いで、コバヤシから逃れようとしていた。慌て過ぎたあまり、彼女は、とうとう、つんのめってしまい、てっ転んでしまったのだった。
彼女が地面に倒れた事で、コバヤシは、ようやく、彼女に追いついた。コバヤシは、手を貸して、彼女のことを立たせてあげようとした。
「大丈夫ですか」と、コバヤシが優しい声をかける。
この時、立ち上がろうとした相手が、チラリとコバヤシの方にも顔を向けた。
その顔を見て、コバヤシは、思わず、躊躇したのだった。
そう。この女性は、玉村家の令嬢の妙子だったからである。暗がりとは言え、彼女の美しい顔を見間違えるはずがない。だけど、そうなると、なぜ、妙子はこんな夜間に出歩いていたのであろうか。
そんな事を考えて、コバヤシが戸惑っている隙に、妙子は、また走り出した。今度は、彼女も、かなり本気で、早く走っていた。コバヤシが、僅かにためらって、出遅れた何秒かのうちに、彼女は、あっと言う間にどこかへ駆け去ってしまったのだった。
コバヤシは、完全に相手の姿を見失ってしまった。彼一人だけが、その場に取り残されてしまったのである。コバヤシは、そんな状況になっても、まだしばらくは、キョトンと立ち尽くしていた。
果たして、妙子は、こんな夜中に野外で何をしていたのであろうか。
コバヤシは、念のために、巡回の帰りのルートでは、本邸にある妙子の部屋のそばを横切ってみる事にした。
妙子の部屋は、1階にあった。彼女の部屋には、大きなグランドピアノが置かれていたので、その搬送の都合もあって、1階の部屋の方が良かったのである。のみならず、ピアノを出し入れしやすいように、窓も大きな掃き出し窓になっていた。壁についた窓というより、ほとんど、全面ガラスの玄関なのだ。
コバヤシは、そんな妙子の部屋の外にまで、やって来た。
さすがに、掃き出し窓の内側には、隙間なくカーテンが閉められていた。だが、部屋の中には、まだ明るく電灯が光っていたのだった。時々、部屋の中にいた妙子らしき姿も、カーテンにと影絵となって写った。その妙子の動きは、とてもユッタリしていて、ほんのさっきまで外を走り回っていたようには、とうてい思えなかったのだった。
妙子の部屋の中を覗いた事で、コバヤシは、ますます合点のいかぬ表情となったのである。