風前の灯
とにかく、何もせずに諦めてしまうのだけはダメだ、とフミヨは思った。
もし、このまま、檻の中にいれば、逃げ場のない状態で虎に襲われてしまうのである。そんな最悪の事態だけは、絶対に回避したかった。よって、フミヨは、全身が十分に言うことを聞かないながらも、必死になって、檻の扉の方へと歩き出したのだった。
彼女の死に物狂いのあがきは、周囲の観客の目には、熊がやっと動き出したように見えていた。だから、彼らは、熊のフミヨに対して、やんやの声援を送ったのだ。
上半身を檻に寄りかからせて、一歩ずつ、どうにか歩いていたフミヨの姿は、観客たちには、本物の熊が後ろ足でノソノソと歩いているように写っていた。それが、殺されかけた哀れな犠牲者の最後の抵抗だったとも知らずに。
フミヨは、時間をかけて、ようやく、檻の外ヘまで乗り出す事に成功した。しかし、それには、あまりにも時間がかかりすぎていたのだ。その時には、恐ろしい虎は、もう目前にまで来ていたのである。
フミヨの熊のそばまで、傲慢な態度で接近してきた虎は、次の瞬間、いきなり、熊の首もとにと喰らいついたのだった。このどう猛な野獣は、早くも、この獲物を一発で討ち取るつもりで、襲いかかって来たのである。だが、この熊は、実際には、本物の熊などではなくて、フミヨなのだ。
フミヨは、首もとに、凄まじい痛みを感じた。しびれた状態でも分かるほどの感触だったのだから、それは相当の強さだったのだろう。でも、虎の牙が、完全にフミヨの首をとらえていた訳でもなかったのだった。
暗黒星の連中は、着ぐるみを被せたフミヨをリアルなデカい熊に見せかける為に、熊の着ぐるみとフミヨの間にあった隙間に、沢山の綿を詰めていた。そうする事で、着ぐるみの熊を太らせてみせたのである。ところが、皮肉な事に、その綿が、中にいたフミヨにとっては、防具の役割を果たしてくれたのだった。厚い綿のおかげで、外から襲ってきた虎の牙は、フミヨの体内にまでは届いていなかったのである。
とは言え、牙の先はかろうじてフミヨの肌の表面に刺さったし、虎のアゴの噛む力も半端な圧力ではなかった。それだけでも、フミヨへと恐ろしい苦痛を与えたのだ。
一発で相手を仕留められなかったと悟った虎は、いったん、熊のそばから離れた。熊の方は、相変わらず、ノロノロとヨタついているだけなのであり、虎への反撃を行なおうとはしなかったのだった。
その事が、千百もの観客たちを大いに不満がらせたのである。何しろ、彼らは、まだ、この虎と熊のことを、ロボットだと思っていたからだ。エンターティメントとしては、このような一方的な戦いはつまらなすぎるのである。もしかすると、熊のロボットは故障しているのではなかろうか。そんな事を邪推する観客もいたようなのだった。
ステージに向けて、観客の罵声が飛び交った。もっと激しい格闘をやれ、と言うのだ。対戦者たちが本物のロボットだと信じ込んでいるからこそ、彼らはそんな残酷なことも平気で要求できたのだった。
そして、この観客たちの大きな怒号は、虎をさらに興奮させて、勢いづかせる事になったのだ。この虎は、再び、ほとんど逃げもしない熊に目がけて、襲い掛かっていったのである。
今度は、虎は、熊の腹部へと噛みついた。それでも、十分な致命傷を与えられていないと感じると、次は、この虎は、熊の背中へと飛びかかっていったのだ。
幸い、分厚い棉のおかげで、熊の中にいたフミヨは、なんとか無事なのだった。もっとも、熊の表面のどこかを、虎にかじられたり、鋭い爪を刺されるたびに、彼女は激しい苦痛にと苛まされたのである。
虎にさんざん弄ばれて、今や、熊の方は、すっかり、グロッキー状態になっていた。ステージの地面の上に、うつ伏せに寝そべってしまい、ピクリとも動かなくなったのである。その熊の中では、フミヨもまた同様も、息も絶え絶えの状態になっていたのだった。
虎は、この瀕死の熊にトドメを刺すべく、ゆっくりと接近していった。それから、虎は、再度、熊の首もとへとガブリと喰らいついたのである。
虎は、なかなか、熊の体から離れようとはしなかった。グリグリと自身の首をひねって、力強く、熊の首筋をかじり続けているのである。
「ああ!熊の頭がもげるぞ!」観客の誰かが叫んだ。
まさに、その通りであった。虎に噛みつかれた熊の首が、首の骨も折れてしまったかのごとく、グラグラと揺れているのである。虎は、その熊の頭をグイグイとまだ引っ張っているのだった。
これらの猛獣がロボットだったとしても、なんて残酷な殺し方なのであろうか。動物たちの殺し合いを楽しみにしていたはずの観客たちも、これには、さすがにドン引きし始めてしまったのだった。
周囲の反応などには構わずに、冷酷な虎は自分の作業を続行していた。熊の首は異常なまでに伸びてしまっており、死んでいるのは確実で、あとは頭が完全に取れてしまうのを待つだけなのだ。
その瞬間が訪れた。ついに、虎にくわえられて、熊の頭がもげてしまったのである。だが、その事で、観客たちの間からは、恐怖とも違うどよめきが起こったのだった。
熊の死体は、想像した状態とは異なっていたのである。首が切断されたところで、血も肉も飛び散りはしなかった。代わりに、頭のない熊の胴体部からは、奇妙なものが突き出していたのだ。その頭があった場所には、熊ではなく、人間の頭がくっついていたのだった。それも、美女の首なのである。
サーカスの会場全体が、異様な空気に包まれた。歓声もなくなり、あちこちがザワついている。観客の誰もが、何が起きているのかが分からず、戸惑っているのだ。そんな中で、ステージのはしに立ったサーカス団長の大山ヘンリーだけが、露骨に、残忍な笑みを浮かべていたのだった。
その時である。サーカス会場内には、突如として、イヤらしい笑い声が響き渡ったのだ。こんな状況だと言うのに、誰かがバカ笑いしているのである。それも、とても不気味な笑い声なのだ。
ほとんどの観客は、気にかかったとしても、こんな笑い声に、いちいち、反応したりはしなかった。一部の観客だけが、この笑い声の主を探して、ついには、その姿を発見したのである。
あの天井の暗黒星の旗のすぐ近くには、天井を支える横木が一直線に伸びていた。その横木の上に、何者かが立っていたのだ。彼こそが、今の笑い声の主であった。
ギラギラとした目に、鋭く裂けた大きな口。恐ろしいケダモノの顔をした彼は、まさしく、あの人間ヒョウだった。地上にいる、もう一人の半獣人の姿を見下ろしながら、この中空にいる本物の半獣人は、なびく暗黒星の旗の横で、フミヨの断末魔を、実に楽しそうに見物していたのである。