再会
閉館後のリョウゴク旧国技館の通路を、人間ヒョウは、猛ダッシュで駆けていた。彼を追い掛ける人物の姿もなかったし、すれ違う人間もいなかった。
と言うのも、会館の別の場所では、今、火災が発生しており、館の係員も、配備されていた警官たちも、すっかり、そっちの方に気を取られていたからだ。逃走した人間ヒョウを追っ掛けているどころではなかったのである。人間ヒョウにとっては、それは、まさに、好都合な事態だったのだ。
ただし、国技館の周りは、すでに、大量の警官によって包囲されていた。さすがの人間ヒョウであっても、この厳重な包囲網まで力任せで突破できるかどうかは、なんとも言えないのであった。
人間ヒョウは、逃げ走りながらも、片手で、一人の人間を抱えていた。赤ずきんのロウ人形、もとい、その中に隠していたらしいフミヨである。睡眠薬で眠らされていた、可憐な女探偵のフミヨ。人間ヒョウは、今回の騒動の戦利品として、どうしても、彼女だけは、本拠地まで持ち帰りたかったみたいなのだ。
ふと、人間ヒョウは立ち止まった。彼は、怪訝げな表情で、抱えていたフミヨを睨みつけた。
次の瞬間、人間ヒョウは、そのフミヨを床へと叩きつけたのだった。彼の顔は、残忍な憤怒の表情に変わっていた。なにやら、怒り狂ったような感じになった人間ヒョウは、すぐさま、床に倒れたフミヨへと襲いかかったのだ。
そして、彼は、凄まじい怪力を発揮して、とんでもない事を始めたのだった。なんと、フミヨの体を八つ裂きにしだしたのである。恐ろしいことに、眠ったままのフミヨは、人間ヒョウの腕力によって、頭をへし折られ、四肢も引きちぎられてしまった。この恐怖の半獣人は、なんて残酷な事をするのであろうか。フミヨへ対して、それほどまでも、憎しみの気持ちの方が勝ってしまったのだろうか?
最後に、人間ヒョウは、バラバラになったフミヨの体をさんざん踏みにじると、超然と立ち尽くして、ケダモノのように激しく吠えまくったのであった。
さて、同じ頃、旧国技館の別の場所では、正確には、人目から隠れた天井のすき間の空間なのだが、そこでは、人間ヒョウとも異なる賊が、こっそりと身を潜めて、何者かと無線で連絡を取っていたのだった。
そいつは、幼児のような小さな体をしていた。だが、子供などではなかった。体格は児童でも、大人の知恵や運動能力を持った怪物、こいつこそは、あの凶賊の一寸法師なのである。
彼は、なんとも愉快そうに、無線機に向けて、話し掛けていたのだった。
「ねーちゃん。言われた通りにやったぜ。見物に来てみたら、人間ヒョウの奴は、案の定、ドジを踏んで、ピンチになっていやがった。だからさ、ねーちゃんの指示した通りに、人間ヒョウに助け船を出してやったのさ」
一寸法師は、そんな事を、無線の相手へと楽しげに喋っていたのであった。
そうなのだ。張り子の岩の中に隠れて、人間ヒョウに加勢した謎の存在とは、この一寸法師だったのである。この小悪党だったら、あの程度の芸当はお手のものなのだ。
「人間ヒョウは、無事に捕らわれの状態から逃げ出したけど、なんだか暴れ足りなかったから、おいらさ、ついでに、現場に火もつけてきてやった。そしたら、本当の火事になっちゃってさ、もう大騒ぎだ。いやあ、とっても楽しかったぜ」
一寸法師は、一人で、ケタケタと笑った。
「で、おいらは、もう、ここから引き上げる事にするよ。え?そんだけ暴れたら、今の国技館は警察に包囲されてるんじゃないかって?いやいや、何の問題もないさ。おいらのような人外だったら、正面玄関以外のルートからだって、いくらでも逃げ出す事ができるからね。換気のパイプとか下水道とか、どこからだって、おいらは脱出してみせるぜ。うん?人間ヒョウも逃げれそうかって?さあな、あいつも大丈夫なんじゃないの?だって、あいつも、いちおう、人外なんだからな」
そう言いながらも、一寸法師は、どこか、小バカにした表情を浮かべていたのであった。
そして、この後、一寸法師は、確かに、誰にも存在を知られる事もなく、この包囲された国技館から外へと、いつの間に、逃走していたのだった。
ツネカワ警部、コバヤシ青年たちは、火で燃え広がった「中世ファンタジーの世界」のブースから、間一髪で、退避していた。
すぐに消火システムなども作動して、凄まじかった火事もかろうじて鎮火したし、死者が出るような最悪の事態だけは、どうにか免れたのであった。
もっとも、今回の捕り物においての被害の方は甚大で、負傷者も多かったのだった。人間ヒョウと戦った警官たちは、いずれも大なり小なりのケガをしていたし、ツネカワ警部も、張り子の岩に隠れていた伏兵にしたたかナイフで刺されてしまったのである。ただし、警部の必死の防御とコバヤシの援護で、致命的な傷にはならなかったのだ。ツネカワは、特にひどく刺された片腕に包帯を巻いただけで、すぐに現場の指揮へと復帰したのだった。
とにかく、この想定外のボヤ騒動で、全ての段取りが狂ってしまった。こちらの火事に、皆が気を取られているうちに、人間ヒョウには完全に逃げられてしまったのである。どの方角に逃走したのかも分からず、誰もが人間ヒョウを見失ってしまったのだ。
しかし、幸い、事前にツネカワが集めていた警官隊は、すでに、この国技館の建物を包囲していた。賊の人間ヒョウは、まさに袋のネズミであり、この建物の外には絶対に逃げられないはずなのである。それだけが、かろうじて、ホッとできる話なのであった。
さて、とにかく短時間に色々と起きてしまった為、コバヤシは、すっかり精根が尽きてしまった。彼は、すぐに人間ヒョウの行方を捜索する気にもなれずに、しばらく、「中世ファンタジーの世界」のブースのそばで、ボッとしていたのだった。
すると、もう全員が避難していたと思われていた「中世ファンタジーの世界」のブースの中から、何かがゆっくりと出て来たのだ。
コバヤシは、ハッとして、とっさに身構えた。
すると、ブースの中から現われたものと言うのは、鉄仮面を被った騎士なのであった。コバヤシたちを「中世ファンタジーの世界」のブースまで誘導した、あの謎の怪人である。そう言えば、人間ヒョウに夢中になってしまい、コバヤシたちは、この怪人の事をすっかり忘れてしまっていたのであった。果たして、この怪人は、やはり、賊の一味だったのだろうか。
鉄仮面の騎士は、ゆっくりとコバヤシのそばに接近してきた。見たところ、こいつは、全くの隙だらけで、殺気も感じられないのである。やがて、騎士は、コバヤシの正面で、ピタリと立ち止まった。
「お前は何者なんだ?」コバヤシは、臨戦態勢のまま、騎士へと質問した。
すると、騎士は、静かに、自分の鉄仮面を両手で持ったのだった。自身で、鉄仮面を脱ぐつもりなのである。
鉄仮面が頭の上に持ち上がると、その中からは、長い髪がバサッとこぼれ落ちた。窮屈な鉄仮面から解放された謎の人物は、軽く頭を振ったのだった。
さあ、鉄仮面の下から現われた顔とは?
「フミヨさん!」と、思わず、コバヤシの口からは喜びの声が漏れた。
そうなのだ。鉄仮面を被っていたのは、ニッコリと微笑んだフミヨだったのである。
「良かった!無事だったんですね!ああ、本当に良かった!」
ついつい、コバヤシは、騎士の姿のフミヨのそばに走り寄り、その体に抱きついてしまったのだった。彼には、フミヨの無事が、ひたすら嬉しくて、堪らなかったのである。
「ごめんなさい、心配かけて。でも、もう大丈夫よ」フミヨは、優しく告げた。
「これまで、一体、何があったのですか?」と、コバヤシ。
「あなたも気付いたと思うけど、うちの事務所を偵察していた怪人とは、あの人間ヒョウだったのよ。私が追い掛けたら、あいつは、この旧国技館の中へ逃げ込んだの。そして、不覚ながら、私の方があいつのトリコになってしまい、この建物の配電室へと連れ込まれたのよ」
「そこで、フミヨさんは、機転を利かせて、建物の電灯でSOSを発信したんですね」
「そうなの。配電室が安全な隠れ場所でなくなってしまった人間ヒョウは、急いで、場所を移動する事にしたわ。その際、奴は、私には睡眠薬を嗅がせて、眠らせてから、一緒に連れて行こうとしたの。でもね、私は、魔術師の娘だった頃、手品の技術の一環として、息を長く止めておく練習もしていたのよ。そう、2分ぐらいなら、呼吸をしなくても平気だったわ。そうやって、私は、息を止める事で、睡眠薬は吸わないようにして、そのまま、眠ってしまったフリだけをしてやったの。そしたら、人間ヒョウは、すっかり騙されてしまい、まだ起きていた私を抱えて、配電室を離れたのよ」
「で、そこの『中世ファンタジーの世界』の部屋にやって来たんですね」
「そうよ。人間ヒョウは、この部屋に逃げ隠れて、隙を見て、外へ逃走する予定だったらしいの。だけど、コバヤシくんや警官たちが、予定以上に早く乗り込んで来てしまったものだから、完全にアテが外れてしまった訳よ。逃げられなくなってしまって、ビクビクしながら、ずっと、ここに潜んでいたって訳」
「フミヨさんが、なぜ、騎士の格好をしていたのかが、よく分からないのですが」
「それはね、最初、人間ヒョウのやつは、ちょっとした洒落のつもりで、自分は『赤ずきん』の狼の居場所に隠れて、私の事は赤ずきんのロウ人形と取り替えて、隠そうとしたのよ。会館の夜警や係員ぐらいだったら、その程度の隠れ方でも欺けると思ったんでしょうね。だけど、私は眠ってはいなかった。人間ヒョウが、隠し小部屋の中に入って、外を確認できなくなってしまうと、私も、急いで、自分の隠れ場所を変更したのよ。赤ずきんの中には眠り姫のロウ人形を押し込んで、私は外へと抜け出したの」
「ああ、そうだったのですか。だから、真実も知らずに、人間ヒョウは、赤ずきんの人形を持って、ここから逃げて行ったんですね」
「やっぱり、すり替わっておいて、正解だったのね。人間ヒョウが、きちんと私のニセモノを連れていってくれたのだったら、もう絶対に安全だわ。本物の私はね、自分のスーツを眠り姫に着せちゃったものだから、この騎士の鎧を、服がわりに使わせてもらったのよ。でも、この騎士のロウ人形は兜を被っていなかった。そこで、兜だけは、鉄仮面のものを拝借させてもらったの」
フミヨが、無邪気に笑った。彼女の変装した騎士がチグハグだったのは、そんな理由からだったのである。
「私はね、どうしても、全身を隠しておく必要があったの。だって、人間ヒョウは私を狙っていたでしょう?もし、私の本当の居場所を知ったら、人間ヒョウは、替え玉の赤ずきんなど持って行かず、まっすぐに、私へと襲いかかって来たでしょうからね」
「そうかも知れませんね」
「だから、せっかく、コバヤシくん達が救助に来てくれても、すぐに、私の正体を明かす事はできなかったの。それで、代わりに、あなた達を、人間ヒョウのいる『中世ファンタジーの世界』まで案内する事にしたのよ」
「なるほど。そういう事だったのですか。でも、本当に、フミヨさんに何事も無くて、良かったですよ」
嬉しそうなコバヤシは、あらためて、騎士の姿のフミヨを、強く抱きしめたのだった。
そして、彼らの近くにとやって来ていたツネカワ警部は、コバヤシとフミヨのたいへん仲良さげな様子を、とても微笑ましく眺めていたのであった。