4 キュンとくる隣人
大きな二本の木を見上げた後、庭をぐるりと見渡す。この屋敷は周囲を洒落た塀で囲まれているのだが、隣の四階建ての豪邸との境界である一辺だけはその塀ではなく低い生け垣になっていた。高さで言えばフローリアの胸くらいまでの非常に低いものだ。これではお互いの敷地は丸見えである。
何の気なしにその生け垣に視線を這わせてみれば、一部分だけ生け垣は途切れ、簡素なスウィング扉が付いている。そして、その扉に張り付くようにして、こちらを凝視している美女がいた。
「あら、トスカ」
固まっているシャルロタに気付いたフローリアが、その視線の先にいる美女に声をかけた。トスカと呼ばれた女性はばしーんとスウィング扉を押し開くと、おもちゃを見つけた犬のように長いスカートを翻して走って来た。
「トスカ、紹介するわ。我が家の娘のシャルロタさんよ」
「うむ。ご紹介にあずかったシャルロタである。以後お見知りおきを」
トスカは長いまつ毛に縁どられた目をカッと見開き、シャルロタの顔を覗き込んだ。黒く波打つ豊かな髪、白磁のような肌。真っ赤な口紅の塗られた唇がぱかっと開かれた。
「驚いたわ。すっごく美人なのに、話し方が変」
「トスカ……」
フローリアが眉を寄せ額に手をあてる。そして、気を取り直すように一度パン、と手を叩くと、にっこりと笑った。
「こちらはお隣のお家のタッキーニ侯爵夫人トスカ様よ。私ととても仲良くしてくださっていて、お互いのお庭で頻繁にお茶会をしているのよ」
「シャルロタさん、よろしくね。フローリアとは親友なの」
「そのようにお見受けした。なるほど、行き来しやすいようにこちら側だけは生け垣となっておるのか」
トスカの視線から逃げるように、シャルロタがちらりと生け垣に目をやると、トスカは腰に手をあてて大きなため息をついた。
「もともとはうちの立派なレンガの塀が建っていたの。それが、うちのバカ息子たちとこちらのファウストがまだ子供の頃に、庭師の手押し車で遊んで激突してぶち壊したのよ。男の子って本当に乱暴で汚くって嫌よねえ。その修理の時に、お互いの家に遊びに行くのに玄関まわるの面倒ねっ、て話になって低い生け垣に替えちゃったのよ。あっ! そのうちバカ息子どもと会うことがあると思うけど、気遣いなんて全っ然いらないからね!」
「う、うむ」
トスカは見た目は高位貴族の夫人そのものなのに、意外にとても気さくで親しみやすい人のようだ。というか、しゃべり出したら止まらない。何ならまだ一人でしゃべっている。シャルロタは耳から入る情報の整理が追い付かず、少し気が遠くなってきた。フローリアがトスカを黙らせるために、再びパン、と手を叩いた。
「タッキーニ侯爵家には、三人の息子さんとその下に娘さんが一人いるの。一番下の息子さんはうちのファウストと同級生だったのよ。今、二十二才かしらね」
「そうよ。三人のバカ息子は全員騎士団に入っていて、本当にむさくるしいったらありゃしないわ。次男は結婚して家を出たから少しましになったけど、やっぱりでかい図体の男が二人もいたら邪魔でしようがないわ。ところで、シャルロタさんはおいくつ?」
「二十五である」
「あら、じゃあ、うちの次男と同じ年ね。さあさあ、お座りになって。立ったままじゃ積もる話も積もらないわ」
トスカは勝手知ったるようにテラスのテーブルを整えてシャルロタに椅子をすすめた。
「ちょっと、トスカ! シャルロタさんは長旅からついさっき到着したばかりなのよ。これからお部屋で休んでもらうんだから」
「あら、そうね! ゆっくり休んだらいいわ! お茶は今度にしましょう。でも、フローリアは時間あるんでしょ。私はここで待っているから、後でいらっしゃい」
「もう、トスカったら。ごめんなさいね、シャルロタさん。この人いつもこうなのよ。トスカ、お茶を持ってこさせるから、少し待っていてちょうだい」
「はあい。ねーーえ! 聞こえるぅーー!? お菓子持って来てちょうだい! 昨日もらったやつー!!」
トスカは姿勢よく椅子に腰かけると、自分の屋敷の方へ向かって叫んだ。すると、すぐに「かしこまりー!」というメイドの声が聞こえてきた。
ふふ、とシャルロタが思わず笑みをこぼすと、それを見たフローリアとトスカがポカンとした。
「えっ、ちょっと、笑顔すっごく可愛いじゃない」
「そ、そうね。私、今、胸がキュンとしちゃったわ」
「フローリア、今日のお茶会は盛り上がりそうね!」
「すぐに戻って来るわ! 待ってて!」
頬を染めたフローリアに案内され、シャルロタは二階の日当たりの良い広い部屋に通された。あまり華美ではなくシンプルな家具が用意してあったが、デザインが統一されていて一目で高価なものばかりだとわかった。シャルロタの持ち込んだ少ない荷物をあっという間に整理した侍女が、大きな姿見を部屋の真ん中に運んできた。
侍女など必要ない、と伝えたのだが、通常、令嬢の支度は一人では無理なのだそうだ。一人でできない支度とはいったい何なのかさっぱり想像もつかなかったが、まあそういうことならば、とシャルロタは素直に従った。恰幅の良いこの黒髪の侍女はアニェーザといい、もともとこのクローチェ家の領地のカントリーハウスで侍女として勤めていた。その後、王城の下級文官と結婚し王都で暮らしているのだが、二人の子供たちが学校に通う年齢になったので、シャルロタの侍女にと声をかけられたらしい。
「お嬢様、こちらのドレスなんですけど」
「待て。それがしはお嬢様などではない。シャルロタと呼んでくれ。何なら、お前でもおぬしでも構わぬ」
「あらあら。このお屋敷の娘さんなら何はどうあれ、お嬢様なんですよ」
「うむむ、そうなのか」
「そうなんですよ。で、お嬢様。お持ちいただいたこれらのドレスなんですけどね、どう見てもサイズが合ってませんわね」
「うむ。それがしもそうではないかと見受けておったわ。あにはからんや、まさか着れぬものを大事に運んでおったとはな。滑稽なことよ」
リミニ王国の女性は普段からドレス姿だと聞いていたので、新しいものができあがるまでの繋ぎとして、わずかながら持っていたドレスを持参した。しかし、三か月の間、全くトレーニングを行わず馬車で寝ころんで過ごしていたシャルロタの体は兵士だった頃に比べて、二回り、いや、それどころか三回り四回り小さくなっていて、とても当時のドレスなど合うはずが無かった。
「ほとんど新品のようなのに、もったいないですけど。とても直して着るレベルの大きさではないですわね。あら、このドレスなんてとっても素敵ですのに」
「ああ、それは兵団の班長の結婚式で一度着たっきりだな。髪を結い上げ慣れない化粧をして会場へ行ってみたら、同期たちに女装と揶揄われ大ゲンカし神父に怒られた。がはは、懐かしいな」
「仲の良い職場だったのですねえ。同僚の皆さんは今も帝国で?」
「いや、ほとんどのものは戦で死んだな」
「あっ……。そ、それは、気が利かないことを聞いてしまって、申し訳ありません」
そうだ。あの一年後、新郎は戦場で死んだ。生まれてくる子の顔を見ずに。シャルロタは真っ赤なドレスを手に取り、そのレースをするりと撫でて顔を上げた。
「いや、かまわぬ。……楽しい記憶で偲ぶことは本人も喜ぶ……のだろう?」
「そうです! そうですわ! きっと」
いそいそとドレスを畳んで片付け始めたアニェーザのふくよかな背中を見つめていたシャルロタが思い切ったように口を開いた。
「アニェーザは先ほど居間に控えていただろう」
「ええ。お茶をお淹れしたのは私ですよ」
「では、それがしの話す言葉がおかしい、という話は聞いていたな?」
「ええ。正直言って令嬢のお話しの仕方ではありませんわね」
「ふむ。やはりそうなのか。頼みがあるのだが、何か貴族令嬢の話し言葉の勉強になる本を用意してもらえぬであろうか」
「あらまあ。お直しになる気がおありなのですね」
「無論」
「小説をお読みになって勉強されていた、とおっしゃってましたね。では、貴族令嬢が主人公の小説をいくつか見繕ってまいりましょう。これからは私が終始一緒にいることとなりますので、一緒に練習いたしましょうか」
「なんと、かたじけない。ひらにお頼み申し上げる」
「ん……頑張りましょうね……」
アニェーザは、姿見の中で大きく足を開き胸を張って座っているシャルロタをのぞきんだ。そして、何度も首をひねり、あごに手を置いて宙を見上げ、腰に手を置き勢いよく鼻息を吐いた。
「お嬢様、申し訳ないのですが、まだ元気がおありのようなので、予定を早めてこれからドレスを買いに行って普段使いのドレスを大至急作ってもらいましょう」
「うむ。それがしは問題ない」
「じゃあ、そのままちょっとお待ちを」
アニェーザはそう言うと、スカートを持ち上げてパタパタと走って部屋を出て行った。シャルロタは言われた通りに、背筋をピンと伸ばして座り、眉間に深いしわを寄せ目をかっぴらいた、鏡の中の自分と見つめ合ったまま待っていた。
「お待たせしま……っ、ど、どうしました!? お嬢様!?」
「待てと言われたから動かずに待っておったのだが」
「素直なお方なのですね。これは私が悪かったですわね。さあさ、とりあえず脱いでください」
「うぬ?」
次回、シャルロタがひっぺがされます。