32 心を落ち着かせて
手を引かれるままに柵を跨ぎ、白と黒の兎を横目に引き戸に手をかけた。建付けが悪く、ギギギ、と音を立てる戸を開けた。おそるおそる中をのぞいたが、幸い近くに騎士はいないようだった。
開いた隙間を少年はするりと抜けたが、シャルロタが通るにはもう少し開けなければならない。なるべく音を立てないように悪戦苦闘しながら何とか体をねじ込んだ。
「お姉さん、でっかいもんね」
のんびりとシャルロタを待っていた少年が笑った。シャルロタは歪んでしまった帽子を直しながら、辺りを窺う。
「うむ……それがしは思っていたよりも小さいはずなのだが、不覚である」
「何言ってるかよくわかんないや」
スタスタと歩く少年の後ろをついてゆくと、聞こえてくる人の声が少しずつ増えてきた。廊下に立っている女神像の影に隠れて様子を窺うと、何やら騎士たちはあわてているようだった。
「まったく、あいつは。目を離すといつもこうだ」
ネレーオの声が聞こえ、シャルロタはさらに体を縮めて耳を澄ませた。
「団長、こちらにはいません!」
「勝手に外に出るようなことはしないはずだ。探せ」
はあ、と大きなため息をついたネレーオが、部下の騎士たちに命ずる。シャルロタに身を寄せてきた少年が女神像から大きく顔を出す。
「おい、見つかるではないか」
「ちい姫様、いなくなっちゃったの?」
「然り」
近衛騎士の目をかいくぐって姿をくらますなどできるだろうか。幼い故、背が低く見失ってしまう、ということもあるかもしれない。
「よもや、誘拐ではないだろうな!」
青ざめてあわてるシャルロタの横で、少年がのん気にあくびをする。
「こんなに騎士様がいるのに? きっと中庭だよ。ちい姫様はいつも中庭で猫と遊んでるもん」
「うぬ? ちい姫はこの教会に頻繁においでになるのか」
「たまに。行く?」
「うむ。お頼み申し上げる」
再び手を引かれ、こそこそと隠れながら中庭に向かった。
開けっ放しの扉を抜けると、手入れのされていない無造作な中庭に出た。膝まで伸びた雑草を踏み、中ほどまで進んだが誰もいなかった。
「猫などおらぬではないか」
「いないね。きっと人がいっぱいいるから出てこないんだ。いつも軒下に住んでいて、野菜の切れ端をもらいに出て来るんだ」
「ふむ……。確かにこれだけ騎士がうろついていて、誘拐は難しかろう。ということは、ちい姫自ら逃げたか。しからば、外か」
「あっ、お姉さん」
シャルロタは来た道を戻り、建付けの悪い戸を叩きつけるようにして開け、兎の庭に飛び出した。
「わあっ、びっくりした」
そこには地面に蹲る白い兎を撫でる若い騎士がしゃがんでいた。膝には黒い兎を載せている。声を上げた騎士をきりりと睨みつけ、シャルロタは口を開いた。
「貴殿、ちい姫が行方知れずになったと言うのにのん気に何をしている!」
黒い兎を抱いて立ち上がった騎士は、シャルロタよりも背が小さかった。切れ長の青い目には長いまつ毛が縁どり、白い頬にはうっすら頬紅がさしてある。小首を傾げると長い金髪がさらりと肩から落ちた。
「うぬ?」
「それはすまぬことをした。早くこの子たちと遊びたくて走ってきたのじゃ」
「うぬぬ?」
「わらわを探しておるのだろう?」
シャルロタは首を傾げた。騎士も同じように首を傾げた。そうして二人はしばらく見つめ合っていたが、シャルロタがハッとして身じろいだ。
「もしや、貴殿がちい姫なのか!?」
「いかにも、わらわがエズメラルダじゃ。いい加減ちい姫と呼ぶのはやめろ、と言うておる」
体にぴったりのサイズの騎士服を着た美しい少女が胸を張ってそうこたえた。その腕の中で兎がピスピスと鼻を鳴らしている。
「……大きい……」
顔をしかめ、そうこぼしたシャルロタに、エズメラルダが言っている意味が分からないとばかりに目を見開いた。
「ちい姫ではないではないか! 成人した女性をちい姫と呼ぶとは、なんたる不届き千万!」
「そうなのじゃ! わらわをもう、ちい姫と呼ぶなと再三言うておるのだが、いつまで経っても皆そう呼ぶのじゃ!」
「そのうえ、その騎士服はなんぞ! この国の女性はスカートしか履かぬと聞いている!」
「歩き回る視察に長いスカートなんぞ、不便極まりないのじゃ! 皆に反対されたが特注で作った、わらわの外出着なのじゃ!」
「不便という点、それがしも同意する!」
「そうであろ!」
「うむ!」
シャルロタが大きく頷くと、エズメラルダは満足気味に頬を火照らせ、足元にいた白い兎を抱き上げた。
「ほれ、そなたもこの子を抱くとよい。心が落ち着くのじゃ」
「う……うぬ?」
差し出された白い兎をつい受け取ってしまったシャルロタは、そのふわふわの感触に一瞬息が止まった。シャルロタが小さな動物を触るのは初めてだった。兵士だった時に子猫に怯えられてからは、馬以外の動物には触れないようにしていたのだ。
「もしや、そなたはクローチェ子爵家のシャルロタか?」
「いかにも。それがしがシャルロタである」
「やはりそうか。父上から聞いておったが、噂通りの女人のようじゃな。その言葉遣いですぐにわかったぞ。実はわらわも貴族令嬢の言葉遣いを学んでいる最中でな、同じように頑張っているものがおるのだと思うと心強い」
兎の肉球に夢中になっていたシャルロタは、緩んだ口元をあわてて締めて顔を上げた。
「なにゆえ、言葉遣いを?」
「降嫁するというのに、この姫言葉はおかしいじゃろ」
「ほう、どこぞの貴族へ嫁がれるのか。それはめでたいな」
「そなた聞いておらぬのか? タッキーニ侯爵家の騎士団長ネレーオの元へ嫁ぐのじゃ。そなたのお隣さんになるぞ、今後ともよしなにな」
「ななな、なぬう!」
―――そりゃあまあ、ご結婚されたら親族となりますからねぇ。
―――そりゃあまあ、(長兄のネレーオとエズメラルダが)ご結婚されたら(アマンダと王太子は)親族となりますからねぇ。
もしや、それがしは大変な勘違いをしているのでは。
シャルロタはその言葉をギリギリで何とか飲み込んだ。アニェーザは確かに、王太子は侯爵家の親族となる、と言っていたが、王太子が結婚するとは言っていない。
「うぬぬ……」
しかめっ面を隠すように兎の腹に顔をうずめたシャルロタがうめき声を上げた。それを見たエズメラルダも、我慢できず、といった具合に肩から下ろした兎の腹に顔をうずめる。
二人はしばらくの間、無言で兎の腹を吸った。兎もあせったのか、鼻のスピスピが早まった。
すーはー。
スピスピ、スピスピ。
「お前たち、何をしている」
兎から顔を外すと、入り口に呆れた表情のネレーオが立ってた。すぐにガタン! と大きく引き戸が開けられ、レオポルドが飛び出してきた。
「シャルロタさん! ここにいたんですか! うわあ! ウサチャン抱いてるっ! 可愛いっ、もちろんシャルロタさんが!!」
早口でそうまくし立てると、兎ごとシャルロタを抱きしめた。
「貴殿、どうしてここに」
「シャルロタさんがいなくなったって、アニェーザが駆け込んできました。……心配しました」
「うぬぅ……面目ない……」
そうだった。すぐ戻るつもりだったのに。兎を吸っている場合ではなかった。シャルロタは眉を下げた。アニェーザにも護衛にも、そしてレオポルドにも心配をかけてしまった。もはや頭を下げて済む話ではない。
「それがしを殴ってくれ! 思う存分!」
「何で!?」
シャルロタが抱いていた兎はいつの間にか逃げ出していた。足元に走り寄って来た兎を抱き上げ、エズメラルダは小首をかしげる。
「レオとシャルロタは良い仲であったか」
「ジェミからそんな話は聞いていたが、そのよう? だな」
二羽の兎を抱き直し、エズメラルダはネレーオを見上げてほほ笑んだ。
「ふふ。そうか、あの二人が隣人となるのじゃな。楽しみじゃ。……早く結婚したいのう。なあ、ネレーオ?」
ネレーオがぎょっとしたように幅広い肩をびくつかせ、さっと頬を紅くした。ふわふわの二羽の兎とエズメラルダ、6つの澄んだ瞳に見つめられ、ネレーオは大きく一つ咳ばらいをする。
「ああ、……そうだな」
その返事に満足したのか、エズメラルダは兎の背に顔をうずめた。彼女の顔は見えなくなってしまったが、真っ赤になった耳はしっかりと見えていたのだった。
次回、サクッと完結です。




