30 ちい姫に会いたい
侯爵家を後にし、庭から子爵家へ戻ると、テラスからは楽しそうな笑い声が聞こえた。
「あらあら、まあまあ」
アニェーザが声を上げると、フローリア、レーモ、そしてレオポルドがこちらに振り向いた。三人はテラスのテーブルについてお茶とレモンパイを楽しんでいる。
「シャルロタさん、おかえりなさい」
まるで自分の家のようにくつろいでいるレオポルドに、アニェーザが呆れた顔を見せた。
「貴殿、見たところ仕事帰りのようであるが、家に帰っておられぬのか」
「はい。シャルロタさんのレッスンの時は来るなってアマンダに言われてるんですよ。まあ、あいつうるさいから俺も帰りたくないし。いいんです」
「いいのよお、レオ君。いつでもうちに来てちょうだい」
「フローリアさん、ありがとうございます」
レオポルドとフローリアがにっこりとほほ笑み合う。一人、静かにレーモが紅茶を飲んでいる。
「レッスン終わりで疲れただろう。おかけなさい。温かい紅茶でいいかね」
レーモが紅茶のポットに手を伸ばした。あわててアニェーザが駆け寄ったが、レーモが止めた。
「いいんだよ。私がやろう。アニェーザも一緒にどうだい」
「いいえ、とんでもない。じゃあ、私はバザーの準備に取りかからせていただきますね」
「ああ、そうだね。頼んだよ」
レオポルドの隣に腰掛けたシャルロタは、レオポルドからひときわ大きなレモンパイを受け取った。
「ばざーとは何ぞ」
「近々、貧民街近くの教会でバザーがあるんですよ。あ、パイ大きすぎました? じゃあ、俺が食べさせてあげますよ。はい、あーん」
「大きさとそれは関係な……モグッ……」
有無を言わせずパイを口につっこまれたシャルロタは、急いで口を動かして紅茶で流し込んだ。笑顔のレオポルドが二口目を狙っている。
「バザーの収益金はそのまま教会に寄付になって、貧民街での炊き出しとかに使われます。貴族は家で使ってないものとか、あとは手作りのものとか出してるようですね」
「じ、自分で食べるゆえ、その手を下ろせ。……して、それがしは何の用意もしておらぬが、我が家は何を出すのか」
フローリアがうふふ、と笑い、レーモが肩をすくめた。
「私、家からほとんど出ないでしょう。暇だからレース編みとか刺繍ばかりしているのよ。だから、毎年クッションやハンカチを出しているの」
「フローリアがレースで編んだコースターはよく売れるんだよ」
そう言って、二人は見つめ合って笑った。本当に仲睦まじい夫婦である。
「今年はちい姫も視察にいらっしゃるから、貴族たちはいつもよりも気合入れて用意してるようですよ」
シャルロタの口に運べなかったパイを代わりに頬張ったレオポルドが、さらりと言った。その言葉に、シャルロタが目を見開いて固まった。
「ち、ちい姫……だと?」
レオポルドがぱちりと瞬いた。その様子に、フローリアとレーモも黙る。
「ええ。セスト殿下の妹で、エズメラルダ姫っていうんですけど。知りませんでした? けっこう元気な姫で、皆にちい姫って呼ばれて可愛がられてるんです」
「ちい姫がいたとはな……」
ちい姫。まさかこの国に来てこの呼び名を聞くとは。
シャルロタはぎゅっと口を引き結んでうつむいた。ちい姫。帝国のちい姫は、わずか十歳でその命を落とした。ただ、皇家に生まれた、というだけで処刑されてしまった。年の割には少し幼い、かと言って我がままを言うわけでもなく、屈託のない明るい皇女だった。父も兄も皇族を守れなかった。シャルロタたち兵士は国を守れなかった。誰も、ちい姫を守ることができなかった。
兵士であったシャルロタは、戦争が起こればある程度の犠牲は仕方がないことを理解している。しかし、それでも、何の罪もない子供が殺されるのだけは、どうしても納得がいかない。
「ちい姫……」
「シャルロタさん?」
「レオポルド殿、それがしもそのばざーとやらに参加できるのであろうか」
「え。いや、バザーは教会の関係者が開くんですけど……俺はその日はその教会の警備でいないので、その」
「あら、お客さんとしてなら誰でも行けるわよ」
「フローリア」
レーモに名前を呼ばれ、フローリアがあわてて両手で口を閉じる。
「貧民街にはあまり近付かないでほしいって言うか……。あの、シャルロタさんは特に目立つから行かないでほしいです」
口ごもっていたレオポルドだったが、最後にはきっぱりと言った。その強い口調に、シャルロタがあからさまに肩を落とす。
「ちい姫……」
「ちい姫に会いたいんですか?」
「それがしは、ちい姫をお守りしたいのだ」
うつむくシャルロタの顔を、レオポルドが不躾に覗き込む。きゅうっと口を引き結んだシャルロタはまるで子供のようだった。
「それがしは、帝国のちい姫を守ることができなかった。何の罪も犯していないちい姫は、あっという間に処刑されてしまった。それがしはっ、守るべき対象をっ、成す術もなくっ」
「わわわ、落ち着いて、シャルロタさん」
「そうよぉ、シャルロタさんのせいじゃないわよ」
シャルロタは膝の上に置いた両手をぎゅうっと握りしめた。
「貧民街が危険なところだと言うのであれば、なおさらっ、わしはっ、わしはっ、今度こそちい姫をお守りしたい!」
「うわあ。ここに来ての、わし、は可愛勇ましくって断れないよー」
レオポルドが両手で顔を覆ってテーブルに突っ伏した。笑顔のまま固まっていたレーモが、眉を下げてレオポルドを見下ろす。
「可愛勇ましいって……何?」
ゆっくりと顔を上げたレオポルドは、うって変わって落ち着いた表情をしていた。ちらりとレーモの顔を窺った後、ふう、と一つ息を吐く。
「わかりました。護衛か、せめてアニェーザを連れてなら、いいですよ」
「まことか! レオポルド殿」
「はい。本当はすごく心配ですけど。先日だって、なぜか鉄の棒持って立ってたし、足元に賊が倒れてたし」
「ん? と、いうか、なぜレオポルド殿の許可が必要なのだ」
「レーモさん、護衛付けてもらえます? いなかったらうちから出しますので」
「うん。大丈夫、護衛もアニェーザもつけるよ」
勝手に話を進めるレオポルドとレーモ。そして、ニコニコしながら二個目のレモンパイに手を伸ばすフローリア。ん? ん? と言いながら、シャルロタは首を傾げた。
「レオ君、今日はこのまま晩ご飯食べて行くでしょう?」
「いいんですかー!?」
フローリアののんびりした声に、レオポルドが飛び上がって喜ぶ。
「もちろんよ」
「うちって今、母とアマンダしかいないから、美容に良い食材とかカロリーがーとか言ってて、ぶっちゃけ食べ応えないんですよ。クローチェ家の飯うまいんで、嬉しいです!」
「まあまあ、料理長が喜ぶわねえ。そのまま泊まっていくー?」
「いやあ、そんな、それは悪いですよ、えへへ」
「遠慮はいらないのよー」
勝手に盛り上がっている二人に、シャルロタは口を閉じた。静かに紅茶を飲んでいるレーモと目が合う。優しくほほ笑まれたので、これはきっと二人を止めることは誰にもできないのであろう。
とりあえず、ばざーに行けるようなので、黙ってパイでも食べて時間が過ぎるのを待とうか。




