18 やり手の少年
ひっそりと人気のない早朝の教会の空気は少しだけしっとりと湿った感じがする。かすかに緑の匂いがするので、きっと芝生の朝露のせいだろう。
姿の見えない鳥の鳴き声に耳を澄まし、シャルロタは教会を出た。
領地でも教会に通っていたが、久しぶりにこちらの教会に来てみれば、それはそれでいっそう身が引き締まる思いがした。
今までは葬った敵の為に祈っていたが、今日は自分の力を過信していたことについての猛省もした。
剣だこのほとんど消えた細い指をじっと見つめた後、日傘を広げた。
「うぬ?」
日傘のレースの向こうに、茶色の塊が動いたのが見えた。
「あれは……」
シャルロタの視界の先には、大きな手押し車を引いた少年の姿があった。あれは確か、パン屋の息子ではなかったか。少年は荷台が半分くらい埋った手押し車を軽々と動かして走り去ろうとしていた。
「あいや、待たれい」
静かな早朝の街並みに響いたシャルロタの声に、少年が驚いて振り返った。
「あっ、シャルロタ様」
少年が帽子を取って頭を下げる。小走りで走り寄ったシャルロタは、手押し車の荷を覗き込んだ。
「そなたはパン屋のせがれであったか。こんな早朝にいかがした」
「パンの配達ですけど」
荷台から袋をひとつ持ち上げた少年が、中身を見せてくれた。ふわりと湯気がたち、焼きたてのパンの香りがした。
「なんと。配達までしておったとは」
「父さんが焼いたばかりのやつを、お得意さんちに届けています。シャルロタさんちもどうですか?」
ハキハキとしゃべる快活な少年は、まだ八歳と言っていなかったか。朗らかに営業するその姿に、シャルロタは思わず笑ってしまった。
「ふむ。一度届けてもらおうか。それで料理長と相談してみよう」
「毎度あり! 明日行くよ!」
帽子をキュッとかぶり直した少年は、シャルロタに手を振って手押し車を押して走り去っていった。
かくしてクローチェ子爵家には毎朝焼きたてのパンが届くこととなったのだった。
「おいしいわねえ。フローリア、そっちのパンも一口ちょうだい」
「いいわよ、真ん中をあげるわ」
「うふふ、チョコのとこちょうだい」
昼前の庭でのお茶会に、朝食の残りのパンを出したら、トスカに大ウケだった。フローリアとシャルロタは顔を見合わせてほほ笑んだ。
「このスープもおいしいわ。いっそのこと朝食からクローチェ家にお邪魔しようかしら」
「トスカはお寝坊さんだから無理よう。うふふ」
さほど早起きでもないフローリアが笑う。
毎朝配達に訪れるパン屋の少年の紹介で、今度は週に二回、野菜農家がやってくるようになった。朝採れの新鮮な野菜を届けてくれるのだ。野菜は小ぶりではあるが、朝採れというだけあってとてもおいしい野菜ばかりだった。主と使用人の食材を分けないクローチェ子爵家では、食事の質も上がり使用人たちも非常に喜んでいる。
農家はパン屋の親戚だという。少年はなかなかやり手だな、とシャルロタは心底感心した。
「あーおいしくていくらでも食べちゃうわあ」
「もうすぐお昼ご飯なのに、もうおやめなさい。トスカ」
フローリアが呆れ顔で頬に手をあてる。いっこうに食べるのを止めないトスカが新しいパンに手を伸ばした。
「うちの次男だったら、平民が作ったパンなんてバカにして食べないわね」
「ああ、そんな感じね。ジェミ君」
「あの子ったら、貴族ぶっちゃってさ。でも、出したら出したで、結局食べるんだけどね」
「ああ、確かに……」
「そうよ。じゃなきゃ、うちの子たちはあんなでっかい図体にならないわよ。あーやだやだ。私も王子様育てたいわ」
パンをスープで飲み込んだトスカは満足したのか、腕を上げて背伸びをした。
「可愛らしいアマンダちゃんがいるじゃない。私だって女の子育てたかったわ」
呆れ顔でそうつぶやいたフローリアに、あっ、と声を上げたトスカが手を打つ。
「そうそう、うちのアマンダももうすぐ社交界デビューなの。フローリア、一緒にドレス見てくれる? 私だけだと迷って決められないのよ」
「まあ、まあ。楽しそう。喜んで行くわ」
タッキーニ侯爵家の末娘はアマンダと言うのか。アマンダとやらは母親に似ているのだろうか、とシャルロタはトスカの顔をまじまじと見ていた。
「そういえば、シャルロタさんはまだアマンダに会ってないわね。ごめんなさいね。挨拶もさせずに。あの子あんまり家から出ないのよね」
「アマンダ殿は、おいくつか」
「十五になったのよ。もうすぐ王家主催のパーティがあるから、まずはそこにお試しで出して、その後にある若者向けの舞踏会でデビューなの。今、絶賛淑女教育中よ」
頬に手をあてて眉間にしわを寄せるトスカは、すっかり母親の顔になっている。その後はフローリアと二人でアマンダのドレス選びの話を真剣にし始めた。
「シャルロタ様、レオポルド様がお見えです」
「なぬうっ、もうそんな時間か」
「いえ。待ちきれなくって来ちゃったそうです。ゆっくり用意してください、と言ってましたが、そういうわけにはいきませんよね! 女性の支度を何だと思っているのかしら」
ぶつくさと文句を言うアニェーザはすぐにクローゼットを開け、手早く外出用のドレスを選んだ。
王都に戻るとすぐにレオポルドがやってきて、王都中心街への散策に誘われた。シャルロタがいつも独り歩きしているのは住宅街近くの治安の良いあたりばかりだ。王城近辺の、店も人も多く集まるいわゆる繁華街へはまだ行ったことがなかった。さすがに繁華街を一人で歩く令嬢はおらず、たいてい必ず侍女や護衛を連れているのだそうだ。目的もなく義父母や使用人を連れ歩くのは気が引けていたので、レオポルドの申し出にシャルロタは二つ返事で引き受けた。
「レオポルド様のおそばをけして離れないでくださいよ、お嬢様」
「わはは。あちらのメイド長にもそんなことを言われたな。それがしはそんなにフラフラしているか?」
「フラフラというか、お嬢様はやたらと目立ちますからねえ」
きゅっとボンネットのリボンを結びながら、アニェーザはシャルロタを上から下までまじまじと見た。
いつもはまとめている髪を今日はハーフアップにした。背の高いシャルロタはただでさえ目立つ。それならば珍しい亜麻色の髪を肩から垂らしてさらに目立たさせ、もしもの時に見失わないようにした。元兵士の彼女がやすやすと攫われるとは思わないが、それでも用心するにこしたことはない。
応接室に入ると、レーモと向かい合ってソファに座っていたレオポルドが立ち上がった。
「シャルロタさん、ご機嫌よう。今日も可愛いですね!」
「レオポルド殿。今日はよろしくお頼み申し上げる」
「はい! さっそく行きましょう!」
「うむ。義父上との話はいいのか」
「ええ。シャルロタさんより優先することなんて、この世には一つもありません!」
「……うん、いいんだよ、私は。二人とも気を付けて行ってらっしゃい」
さみしそうに肩を落とすレーモを執事に任せ、二人は玄関に向かった。
馬車に乗る前にアニェーザが駆け寄り、シャルロタの髪を直す。
「いいですか、お嬢様。レオポルド様と一緒に行動するのですよ。でも、暗がりに連れ込まれたら、逃げてください」
「あっちでもこっちでも俺の信用がなさすぎる……」
王都の道路は整備されているので、馬車はほとんど揺れない。窓の外のざわめきさえ聞こえそうなくらい静かだった。
「特に行く店は決めてないのですが、行きたいところありますか?」
向かいの席に座ったレオポルドが話しかけた。どんどん都会に近付いてゆく窓の景色を見るのに夢中になっていたシャルロタはハッとして振り返った。
「行きたいところ……うむ、できることならば、便せんと封筒を所望する。帝国の友より文が届いたゆえ、消息を交わしたいのだ」
「え、ああああの、友達っていうのは、その」
「うむ。帝国兵団第五部隊に共に所属していた女兵士だ。一人は結婚し夫の家業を手伝い、一人は親戚の果樹園を手伝っている」
「女性かあ~」
レオポルドは胸を押さえ、心底ほっとしたように息を吐いた。
クローチェ家は多分、ヤクルトと高い牛乳も勧められるままに買ってる。