9 信じろ
昼食後、フローリアはトスカと街へ買い物へ行った。レーモは仕事があるという。ならば、とシャルロタは散歩に出ることにした。アニェーザが付いて行くと言ってきかなかったが、近くにしか行かないから、と説得し、何とか一人で家を出た。
クローチェ子爵家がある住宅街をしばらく歩いた。事前に地図を見て目印にしていた小川まで辿り着くと、小さな橋を渡ってすぐに左へ曲がる。川沿いに進むと整備された広い公園が見えてきた。
「うむ、あれだ」
公園の芝生はきちんと刈られており、裸足で歩いたら気持ち良さそうだった。遊具の有る広場の向こうは森のようにたくさんの木々が植えられていた。その根元には大人が寝転んでも余裕があるほどに大きなベンチが並んでおり、日陰で読書するにはうってつけだろう。それなのに、公園には誰もいない。
この公園はシャルロタが毎朝通う教会の廊下の窓からよく見えていて、一度行ってみたいと思っていたのだ。
ベンチに腰掛け、両腕を伸ばして伸びをした。足元でそよそよと芝生が風になびいている。
シャルロタは目を閉じて木々の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
「……うっ……うっ……ぐすっ」
「!?」
シャルロタはハッとしてすぐに振り返った。しかし、そこには誰もいない。
誰かが泣いているような声がしたが……。
耳を澄ませても、もう何も聞こえない。しかし、森の中から微かに何ものかの気配はしている。シャルロタは立ち上がり、注意しながら一歩ずつゆっくりと森へ入って行った。
少しずつ歩いて行くと、スン、スン、と、洟をすする音に近付いた。誰かがどこかで泣いている声だ。
「誰かいるのか?」
そう声をかけると、シクシクと泣く声が一度止んだ。そして、しばらくするとまたシクシク、スンスン、と聞こえてくる。シャルロタの踏んだ小枝がパキリと音を立てた。
「……ふ……うぅ……、うっ」
シャルロタは立ち止まり、サッと身構えた。どうやら泣き声は上から聞こえているようだ。周りに視線を這わせた後、すぐそばの木を見上げると、シャルロタの背よりもずっと高いところにある大きな枝に少女がいた。左手をだらりと垂らし、肘を折った右腕に顔を伏せ、ぐったりと横たわっている。シャルロタに気付いたのであろう、少女はゆっくりと顔上げた。
「うぬぅ!!」
少女の口元と垂れた左手の指先は真っ赤に染まっていた。どろりとよどんだ半開きの目でシャルロタを一瞥すると、悲しそうに口を歪めた。
シャルロタが左の腰にとっさに伸ばした右手が空を切った。そうだった、今は剣を下げてはいなかった。
「ぬぬぬ、何やつ!人でも食らったか!」
さっと一歩後ろへ下がり、身構えながらそう叫んだ。しかし、少女は洟をすすりながらきょとんとした。
「誰……?」
少女はそう言うと、両手で枝にしがみつきながら身を起こした。
目をこらしてよく見れば、少女の口の周りと指先が赤く染まっているのは血ではなく何かの赤い汁のようだった。瞳がよどんでいるのは、長い時間泣いていたからであろう。
「うぬ? おぬし、何をしている」
「くすん、下りられないの……。誰か呼んで来て……ぐす、ぐす」
少女はそう言って赤く染まった手で目元をこすった。頬に赤い汁がついた。
「一人で木に登り、下りられなくなったということか?」
「うん……もっと上の枝まで登ってたんだけど、木の実を食べるのに夢中になってたらこの枝まで落ちてしまって、足を痛めて下りられないの」
シャルロタは少女を見上げたままポカンと口を開けた。何てまぬけな少女だろう。
乱れてはいるが高級そうなワンピースを着ていて、見るからにどこかの貴族の令嬢であることは間違いない。シャルロタの認識では、この国の貴族令嬢は木登りなんてしないはずだった。
スンスン洟をすすりながら泣く様はとても可愛らしいが、やっていることは猿と変わらない。
シャルロタは両足を肩幅に開き腰を落とし、両手を高く伸ばした。
「ほれ、受け止めてやるからそのまま飛べ」
「えっ?」
「それがしがその枝に乗れば折れて二人とも落ちるだけだ。ならば、おぬしが下りて来るしかない。さあ、飛べ」
「そ、そんな、無理よ!」
少女はぶんぶんと首を横に振り、枝にしがみついた。シャルロタはムッとしたように眉をひそめると、さらに大きく腕を広げた。
「安心せい。けして落とさぬ」
「でも」
「それがしを信じろ」
「だって」
「ごちゃごちゃ言うな! それがしがおぬしを必ずや受けとめる! けして、けして、落としはしない。命を懸けて、おぬしを抱き留めてみせる!」
広げた腕は堂々として、まっすぐに向けられた瞳は自信にあふれていた。少女は枝をぎゅうっと抱きしめた。
「……イケメン……」
「いけめん……? とはなんぞ」
首を傾げるシャルロタにお構いなく、少女は身を起こし、枝から飛び降りた。シャルロタはあっさり少女を受け止めると、そのまま横抱きにした。
「やっぱりイケメン!」
抱きかかえられた腕の中で少女は再び叫んだ。シャルロタはそのまま広場に向かって歩き始めた。
「えっ、ちょっと、あの、下ろして……」
「足を痛めたのであろう。無理するでない」
「あの、私重いから」
「ぬはは。これくらい、なんの、なんの。羽のように軽いわ」
「何なの、その笑い声」
シャルロタは広場の端にあるい水飲み場に少女を下ろすと、すばやく水道の蛇口をひねった。
「手と口を洗うとよい」
「え? 口?」
「木の実の汁で真っ赤だが」
「まじで!」
少女はあわてて水道で手を洗い、口元をじゃぶじゃぶと水で洗った。さすがにハンカチは持っていたようで、口と手を拭うと、再びシャルロタに抱き上げてもらいベンチに座った。
「……本当にどうもありがとう。私はトロイージ辺境伯の娘、ルーナです」
少女だと思っていたが、泣き止んで身なりも整えたルーナは妙齢のきちんとした貴族令嬢に見えた。なぜ一人で木登りなどしていたのだろうか、とシャルロタはあごに手をあてて悩んだ。その様子を見たルーナは恥ずかしそうにうつむきがちに口を開いた。
「うちの領地は西の端の方で、めったに王都には来ることができないの。子供のころからあの木の実が好きで、領地にはいくらでも生えているのに、王都ではここにしかないのよ。……明日、領地に帰る前にあの木の実がどうしても食べたくなって……」
「何もおぬし自ら登らなくても良かろうに」
そう言うと、とたんにルーナはきゅうっと顔しかめた。
「見てよ、この前髪。侍女が切るの失敗したのよ」
ルーナは額の真ん中で切りそろえられた前髪を指さした。シャルロタは目を見開いてそれをまじまじと見つめた。
「それがいかがした」
「いやよ! こんなぱっつん前髪! この前髪にどんなドレスが似合うって言うの! 元に戻るまでお茶会も夜会も出ないんだから」
「出ないとダメなのか?」
「そりゃあそうよ。婚約者探さなきゃいけないでしょう、貴族なんだから」
「合点承知。そういうものなのだな」
「そうよ、あれもやっちゃだめ、これもだめ、息苦しくってしようがないわ。もういろいろ腹が立って、禁止されてる木登りして、木の実をばくばく食べてやったのよ」
ベンチの背もたれに大きく伸びあがりながら、ルーナはため息をついた。
少し考える仕草をしたシャルロタは、ルーナの額にそっと手を伸ばし、短い前髪を優しく横に流した。
「形の良い額をしているのだから、いっそのこと出してしまえばいいだろう」
「え? そ、そうかしら」
「ああ。とても美しい」
「う、うん。ありがとう……」
ルーナの隣に座ったシャルロタが、自分の前髪をよけて額を見せる。
「ほれ、それがしの額には傷がある。侍女に言わせれば、顔に傷をつくるのは淑女として失格なのだそうだ。だから、それがしは一生額を出してはいけない、と言われている」
確かにシャルロタの額には、よく見るとうっすらと斜めに傷跡が残っていた。
「言われてみないとわからない程度だけど、たしかにあるわね」
「うむ。敵から目を逸らさずに戦った名誉の傷だから、それがしは構わぬのだがな。ぬはは。ほれ、どうだ。これに比べればおぬしの前髪など可愛いものだ」
「何と比べられてるのか分からないけれど、元気が出たような気がするわ。侍女がいるってことは、あなた、貴族なのね。力持ちだしそのしゃべり方だし、てっきり平民だと思っていたわ。ごめんなさい」
「いや、案ずるな。それがしはクローチェ子爵家のシャルロタである。よろしくお頼み申し上げる」
「え、ええ……」
困惑した表情でルーナが頷くと、遠くから馬車の音が聞こえてきた。
「お嬢様! ルーナお嬢様!!」
「やだ、もう見つかっちゃった!」
停まった馬車から転がるように下りて来た侍女たちがルーナの元へ駆けて来る。
「お嬢様! 勝手に屋敷を抜け出すなど……!」
「怒るのは後にしてちょうだい。この方にいろいろとお世話になったの」
ルーナが手のひらで指したシャルロタに侍女たちはやっと気付いたらしく、訳も分からないままに丁寧にお辞儀をした。
「構わぬ。ご令嬢は足を怪我しておられる。それがしが馬車まで抱いてゆこうぞ」
「!?」
目を白黒させている侍女たちを尻目に、シャルロタは先ほどと同じようにルーナを横抱きにすると、スタスタと歩き出す。あわてて追ってきた侍女が開けた馬車の扉をくぐり、ルーナを座席に下ろした。
「シャルロタ様、どうもありがとう。お礼は子爵家に届けるわね」
「なあに、大事無い。気にするな」
「そんなわけにはいかないわ。今度また社交のシーズンが来たら王都に来るから、その時に会いましょ!」
「うむ。達者でな。しからば、これにてごめん」
すとん、と馬車から飛び降りたシャルロタは軽く手を上げると、振り返りもせずに颯爽と王都の街へと歩いて行った。