呼吸
まだ、完全には暖まりきっていない風がカタカタ。とカーテンの開いたままの夜の窓を揺らしている。そこに据え付けられた網戸も、楽しげに一緒にカタカタ。と笑ったような気がして、わたしも目が覚めた。
寝すぎちゃったかな。
無機質な白い塗装のパイプベッドのそばの机に置かれた透明な花瓶にチューリップが3輪添えられて、お父さんが来たんだろうなとわかる。悪いことしちゃったな。とか、そういえば昨日お父さんの誕生日だったなぁ。とか考えて時計をみると、もう4月2日金曜日の深夜1時47分。
読みかけの文庫本は開きっぱなしで、枕のそばに置かれたまま、寝相が悪いわたしのあたまが押しつけたせいか、変にくせがついて、つけてもいないドッグイヤーだらけになってしまっていた。特になにをするでもなく赤と白、黄色の綺麗の可愛いチューリップ達とそれを、ぼやぼやする目をこすりながら交互にみてまたぼーっとしてしまう。
春先の乾燥した空気に喉が乾いていることに気がついてベットから立ち上がると、フランネルのパジャマが静電気で身体にぴたっ。と張り付く。それを右手でつまんでぱたぱたしながら、長方形の部屋のベットの対角線に置かれた小さな冷蔵庫付きの棚に歩きだし。開けた。
ひんやりとした人工的な冷気が薄着の体には堪えるけど、中のものをみて少し笑ってしまう。お父さんが補充してくれたんだ。生理食塩水のジュース数本と紅茶のペットボトル、すぐ下の2階の売店で買ったモンブランが入っていた。一緒に食べて誕生日を祝って欲しかったのかなと考えると、あの無愛想な父とは思えず可愛いなとも思える。
ひとまず慣れ親しんだ青いラベルの500mlペットボトルを半分になるほど勢いよく飲んでむせたあとそれを冷蔵庫に戻してベットに戻った。
ふあ……ねむい。
でもいい時間に目が覚めた。2時をちょっと回るといまどき珍しいスカートタイプの可愛いナースさんが現れるのだ。佐藤佳奈っていうどこにでもいそうな名前で優しくてわたしと変わらない背の低い、若い看護師さん。
金曜だけ夜勤に入ってるらしく、巡視の時間には毎回様子を見に来て、ちょこっとお菓子をくれたり、話をしてくれるからお気に入りなのだ。わたしが男だったらたぶん好きになっちゃうくらい好き。あっきた!
薄暗い病室のスライド式ドアがぐーっ。と静かに開いて、白い服を着た女の人が入ってくる。もちろんお化けとかではなく佳奈さん。白色の手持ち照明を右手にもって、左手にはバインダーを持っている。いつもと変わらない姿なんだけど、ライトの照明がのんびり照らすシルエットに少し違和感を感じた。
「あ。また起きてるんだ?ちゃんと寝なきゃだめだよ」
そう言ってわたしのそばに近寄った彼女は、長かった黒髪を切っていて少し目の下にくまを作っていた。
「佳奈さん。こんばんは」
「こんばんは。あれ昨日お父さん来たの?」
花瓶に気が付いたのか、ちらっと珍しそうに言う。
「うん。そういえばお父さん、誕生日だったみたいなんだけどわすれてた」
「あるある。だね」
困ったように少し笑った佳奈さんは、チューリップの置かれた机の前に、ベットに立て掛けられていた折り畳みのパイプ椅子を出した。広げられる金属の軋む、いやな音が短くぎい。となったあと、緑色の合成皮の上に彼女が座る。やはりちょっと様子が変だなとわたしは思った。短く切った髪やくまのせいじゃない。
「佳奈さんだいじょぶ?」
「え……変だった?」
「いつも通り可愛いんだけど、髪切ってるしちょっと元気なさそうに見えただけ」
ライトを消して、バインダーと一緒に花瓶の前に置くと、彼女はふぅ。と溜息をついて清潔なポケットから、個包装のオレンジ味のグミを二つ取り出して、一つを私に、もう一つを破いて口に入れた。
「……オレンジで大丈夫?」
「好きだよオレンジ。というか大丈夫なの佳奈さん」
「うーん。ちょっと失敗しちゃった」
「めずらしいね。婦長さんに怒られてもいつも平気そうじゃん?もしかして年上の彼氏と喧嘩したとか?」
パイプ椅子が少し軋んで、図星なのか顔を俯けた。西に落ち始めた月が彼女の首筋をぼんやり照らして、今まで長い髪で隠されていた白い肌が透き通るように綺麗に見えた。
彼女とは知り合ってもう1年くらいになるだろう。正確にいえば、深夜研修が始まったのは昨年の6月だから10ヶ月間。たまに会う程度だったし、そこまで深い話はしてこなかったけど、女同士で歳も同じだから自然と打ち解けて、もう友達みたいだとわたしは思っていた。その彼女がはじめてみせた表情にこっちまで悲しくなってくる。
「話聞いてくれる?ちょっと暗い話なんだけど」
一瞬、ここに長居して大丈夫なのかな。とわたしは思ったけど、どうせわたし以外には人のいない病院なのだ。彼女が話したいならそうしてくれれば寂しくないし、気軽に相談できる相手だと思ってくれていることが逆に嬉しい。
佳奈さんは大きな目を少し細めて、窓の外を見つめながら話はじめた。その姿があんまり綺麗なので、わたしも長くなった髪を手ぐしで整えて文庫本をたたむと耳を傾ける。
「別れることになったの」
やっぱりそうなんだと思った。でもそういう経験もわたしは少なかったし、大学に入る前に付き合っていた彼氏とは自然消滅というかお互い恋愛感情も持てない友達みたいなふうだったし、キスくらいしかしたことはない。なによりこういう話を聞くのは高校以来で、うなづくとか相槌をうつとかはできなかった。してもいいのか、というところまで考えてやめた。
「佳奈がね、一目惚れしたって言ったでしょ?それでね色々尽くしてあげたいなーって思って、料理とか練習したり、服とかも大人っぽくしてみたけど結局、無理してるんじゃない?とか言われてそれはひどいでしょ?頑張ってるのに」
「ひどいかも。でも気を使ってくれたんじゃないの?俺のためにここまでしてくれるのは嬉しいけど無理してる君をみたくないんだ。的な」
わたしは出来るだけイケメンっぽくおどけて前向きにしてみようと下手な演技をしてみせるけど、佳奈は俯いたまま話を続ける。うわガールズトークだと思った。
「そう思ってたの最初は。でもそれが気遣いじゃなくてめんどくさがってるというかそんな風に見えちゃって喧嘩したのね。そしたらなんて言ったと思う?」
こういうのが慣れてなさすぎて「う……わからない。」と思ったけど別に正解を求めてるわけじゃないんだからと気を持ち直して言った。
「あれでしょ、ロリコンだったとか……」
これはまずかったかもしれない。言ってすぐ気付いたけどそもそも歳が結構離れているらしいしだいぶ不用意な事を言ってしまったかもしれないことにすぐ気が付いた。だいぶ周りに言われただろうし、事実俯いた彼女の肩が震えはじめている。
「……っく。ぶはっ!そうじゃなくて!」
肩を揺らしてしばらく笑ったままだったけど呼吸を整えて彼女は続けた。
「子供がいるんだって」
それはありそうな話だなぁ。結婚していた男性って何故かかっこよくもないのに魅力的に見える時もあるし看護師さんもよく昼ドラみたいな恋愛をしているのは聞いてるし知ってる。
彼女が年上の彼氏と付き合ったと聞いた時も、子供いるんじゃないかなとか結婚してる人なんじゃとは思っていたけどその通りだったんだなと思った。だから思ったことを聞いてみる。
「不倫だったってこと?」
「ううん違うよ。奥さんはもう10年前に亡くなったって言ってたしそれは本当だと思う」
「えーと何歳だっけその人」
「42歳かな?あれ43だったかな……」
「そうだ!ウチのお父さんと一緒だったね」
あれ?と彼女が不思議そうな表情に変わった。その大きな目は月の光を受けて潤みながら私をみてほころぶ。
え……?
「ねえ。梓ちゃん何歳だっけ?」
「21だけど……」
「お父さんって黒髪で短髪で背高い?」
「……う、うん184くらい?」
「幸一郎さんて無愛想な人だよね?」
「お父さんは無愛想だよ……えっ」
この人はいま幸一郎と言ったのか、いやまさか、そんなわけはないでしょ。父は無愛想だしそもそも佳奈さんみたいな可愛い女の子とどこで知り合うんだ。と思った。でも、目の前で落ち込んでいた彼女の表情はみるみる明るくなって面白いものでもみたようにニッコリしている。そして、さっきまでの寂しそうな声が嘘のように切り出した。
「私と同じ歳の娘さんがいて、それを聞いたら幸一郎さんの顔が娘を見てるみたいに感じちゃって、なんか嫌になって別れようと思った。でもすごく寂しそうな顔でさようならって言われたら、そうじゃないってわかったの。ちゃんと好きで気遣ってくれたんだなぁって」
「ちょっと待ってその幸一郎さんてお父さんじゃないよね?」
「新河幸一郎さんだよ。あなたのお父さん」
「えっ……」
あ、そういえばお父さんは今度紹介したい人がいるとか言ってた。お前もきっと仲良くなれる。とかそんな変な事を言っていて、また別のお医者さんを連れてきて、ただの重いだけの喘息を持っているわたしを診せて、病院に置いていくんだろうなと思っていた。
「梓ちゃん、そういえばもう明日退院できるって土田先生が言ってたよ」
「……」
いやいや、違う違う。それが聞きたいわけじゃないよ。逆にずっと病院にいたいよ。とわたしは思った。思ったけど話しだす言葉が見つからない。
「夜勤終わりはお休みなんだ私。家まで送ってあげようか?」
「う……うん……」
「幸一郎さん……じゃなくてお父さん。明日迎えにくるらしいね。土田先生が、新河梓さんはもうすっかり元気になって明日お父さんと一緒に家に帰るって喜んでたよ。退院したらお菓子を奢らなくてよくなるんだ。って笑ってた」
佳奈さんはそれだけ言うと、戻るね。といって椅子を元通りにして、病室から出て行った。わたしはどうしたらいいかわからないまま立ち上がって窓を開ける。
満月と病院の中庭の照明に照らされて、庭園の樹の白いぽつりとした花びらが春の風を運んでくる。ほのかな昼間の暖気に当てられ、冬眠から覚めた虫たちがささやかな鳴き声をあげて、退院を祝ってくれるような気もした。
朝、目が覚めると、ベットの横に珍しく笑顔の父と先生と私服姿の佳奈さんが立っていた。よだれをたらして寝ている女の顔を覗き込むなんて、なんてデリカシーのない人たちなんだと思うけど。やっぱり言い出せそうにない。
踏み慣れたリノリウムの弾性の床が久しぶりに履くブーツで沈んで、見慣れた売店を通りすぎる。コインランドリーやら自動販売機が少しの日常の風景になっていたわたしにはさびしく感じたけど、実際そんな日常は非日常だったんだなと思う。
エントランスを過ぎて自動ドアが開き、雲ひとつない晴天の桜の中庭。駐車場そばのコンクリートからは蟻たちが旬を過ぎた彼岸桜の花びらを運んで、白い小さな川を作っていた。日に当てられた樹々の香りが鼻腔をくすぐる。花粉症かもしれないけど。
大きく息を吸う。
弱りきった肺一杯にそのまだ冷たい空気を溜め込んで
わたしは我慢できずにむせた。