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8/12

イデオロギー的漂流

※本文終盤にまとめがあります。お忙しい方はそちらの確認だけでも大丈夫です。


「どうも、後手だ。


 前回は『リスクを恐れるあまり心理的に萎縮(いしゅく)してしまい、実質的な規制範囲を拡大させてしまう』"萎縮効果"について説明をしたな。


 では、ここで考えてみよう。


『そもそも、一体誰が"表現の自由"を侵害したいと思うのか?』


 ……一体、誰だと思う?」


「そりゃ、"国家を始めとした権力者"に決まってんじゃね―か! 国家こそが『宇宙人達が地球侵略の前線基地として築き上げた月面都市』の存在を秘匿するため、表現の自由を制限しようとしている主犯なんだよ!」


「君も大概、オカルト好きだな……。いや、いいんだけど。


 ……確かに、それも間違いではない。


『表現の自由とは』で述べた通り、(民主主義の)国家としても"一種の安全弁"として表現の自由の価値を認めている。議論・対話による解決手段を用意する事で、暴力的手段による反政府運動を阻止する役割があるためだ。


 しかし同時に、"表現の自由"こそが国家体制を揺るがし、権力の下地となる既存の秩序・道徳を破壊し得るものであるとも認識している。


 "国家に対する自由な意見、言論"を放置してしまえば、批判を通じて現国家の矛盾点や問題点を広く国民に知られる事となり、国家の求心力や支持率の低下、政策の阻害、最悪の場合国家権力そのものの否定・打倒へと繋がりかねない。


 そのため国家などの権力者は、"自分達にとって都合の悪い言論や表現を可能な限り規制をしたい"という本音を持っているものなんだ。


 もちろん表立って表現規制を行えば、国家自らにとって正当性の証である"民主主義"の否定に繋がりかねない。そのため国家は『一見、もっともらしい理由』を用いて表現規制を行おうとする。


 これまで繰り返し出てきた"公共の福祉"も、ある意味では『国家にとって都合のいい表現規制手段』となり得る。


 俺は第三話『優越的地位』の中で、"公共の福祉とは『社会全体の利益、みんなのためになる事』である"……と説明した。


 この説明で一応はざっくりとした方向性を示してはいるものの、依然として『社会全体の利益とは何か?』などの疑問を差し挟む余地が残っている。これはある意味『解釈次第で都合のいいように判断できる余地が残っている』とも言える。


 他にも"善良な風俗の維持"や"街の美観の保護"など、『方向性はおおむね理解できるが、都合のいい判断ができる曖昧さが残っている』理由を用いて規制を行う場合もある。


 表現の自由とは、国家にとって利益にも害悪にもなり得る、"諸刃の剣"な権利でもあるんだ。


 他にも、保守・右翼的な『国家の伝統、秩序を重視する』思想を持った人物は表現の自由に"懐疑・否定的(規制を支持する)"立場で、リベラル・左翼的な『自由や進歩、改革を重視する』思想を持った人物は表現の自由に"好意・肯定的(規制を批判する)"立場である……とされている」


「うむ! 全くその通り! 我々は権力者による規制を打破し、宇宙人が建造した月面基地の存在を広く明らかにする使命が――」


「――以上が、表現の自由に対する"固定観念(ステレオタイプ)的なものの見方"だ」


「アイエッ!? ステレオタイプ!? ステレオタイプナンデ!?」


「この場にニンジャはいないから落ち着こうな?


 ……確かに、国家や保守派思想の人物が表現の自由に否定的な立場を取る事もある。上で述べた通り、国家秩序を揺るがしかねない権利だからだ。


 しかし、『表現の自由を侵害する存在は、国家などの権力者や保守派の人々である』などとは到底断定できない。


 米国の例を見てみよう。


 裁判官ウィリアム・レーンキスト(1924〜2005)は1986年・アメリカ合衆国最高裁判所(連邦最高裁)の長官に就任した。この時期は通称『レーンキスト・コート』と呼ばれている(この場合の"コート"は『裁判所、裁判官』と言う意味)。


 レーンキスト当人はプライバシー権の拡大に反対するなど、当時の最高裁でもっとも保守的な人物として知られている。


 しかし一方でこのレーンキスト・コート以降、保守派判事主導による"違憲判決"や、司法外の保守派による表現の自由の主張がみられるようになっている。場合によっては、リベラル派よりも保守派の判事達が表現者の保護に主導的な役割を果たしているケースもある。


 つまり、保守派判事によって"表現の自由の保護"が進められる事例が認められているんだ。


 対するリベラル派は、多数派による社会的圧力に挑戦する少数派の表現を積極的に保護する事により、社会における平等の推進に大きく貢献している。


 しかしその一方、"性的描写やヘイトスピーチ、上限のない選挙資金支出、暴力的なテレビ放送、反中絶団体によるデモ"……などについて、リベラル派の社会的集団は政府による規制の立場を擁護してもいる。


 リベラル派は、自身の社会的目的に合致する市民権の進展・拡大に対しては積極的に取り組んできた一方、"自身の理念に対立する暴力的・差別的表現"や、"支配的勢力に属する個人・団体が行う表現"に対しては、表現の自由の保護に消極的な姿勢を取る事が指摘されている。


 そして近年では、連邦最高裁における『保守派 対 リベラル派』によるイデオロギー(政治的、社会的思想)の対立が問題視されている。


『保守、もしくはリベラル思想と関係の強い表現者』が行う"表現の自由"につい

て、保守派とリベラル派の判事の間で投票が真っ二つに分かれる……と言う事が少なくないんだ。


 米国の憲法学者、ジャック・M・バルキンは、


『表現の自由の法的理念と政治的な価値とイデオロギーとは変動的な関係にあり、表現の自由の意味内容も、それを取り囲む文脈によって影響を受ける』


 ……と指摘している。

(『アメリカ合衆国連邦最高裁判所における表現の自由をめぐる保守とリベラルの対立(PDF)』・7ページ目(下部表記では6ページ目)より抜粋。

 リンク・http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81010135.pdf)


 つまり、こう言う事だ。


 "表現の自由"と言う権利そのものは、特定思想と関係を持っていない。しかし保守・リベラルを問わず、特定思想を持った人物は表現の自由に対して"日和見主義的"な立場を取る。そして、当該表現が自身のイデオロギーに合致する場合は表現の自由を支持し、合致しない場合は表現の自由を支持しない……と言う姿勢を取る。


 つまり、両者ともに『自分に都合のいい表現は守るが、都合の悪い表現は守らない』……と言う傾向が見られるんだ。


 バルキンはこれを『イデオロギー的漂流(ideological drift)』と呼んでい

る。


 また、表現規制を望む者は権力者だけとは限らない。


 例えば"反差別や弱者救済、平等"……などを訴える人々の中には、しばしば弱者の権利保護などを名目に表現規制を訴える人物の姿が見受けられる。


 俺が以前、実際に見た例を挙げよう。


 とあるサイトで、TVやフィクション作品などの表現規制に賛成の立場を取っていると思しきライターが、『弱者の声にもっと耳を傾けるべき』と言った旨の発言を行っていた。つまり、この人物は『弱者の意見を聞いた上で、彼らが望まない表現を規制するべき』……と言った事を主張している訳だ。


 それ自体にはまだ問題はない。


 しかしその人物は、直後に"表現の自由を訴える、規制に反対する立場の人物・意見"を指してこのように述べていた。


『表現の自由じゃねえんだよ! (表現の自由の侵害を訴える人物は)被害者面するな!』


 ……まとめると、そのライターの主張内容はこう言う意味となる。


『弱者の権利"だけ"を保証しろ。その結果、弱者以外の立場の権利・人権など蔑ろにしても構わないし、弱者以外からの訴えなど無視しても構わない』


 ……確かに現在の憲法学上、"相対的平等"と言う考え方が通説となっている。これは各個人の年齢や性別、職業や財産などの違いを踏まえ『等しいものは等しく、異なるものは異なる』事を認め、"差異を考慮した合理的な区別"を是とする考え方だ。例えば積極的な格差是正アファーマティブ・アクションも、賛否こそあるがこの考え方によって是とされている。


 しかし、それはあくまでも(言い方が適切かどうかはこの際置いておくとして)『ハンデを背負っている人々に対し、そのハンデ分をある程度補う』事を是としているだけだ。決して『弱者だから有利にする、弱者だけを一方的に贔屓(ひいき)する』考え方であってはならない。ましてや、『弱者以外の意見など無視してもいい』『弱者以外に不利益を押し付けてもいい』などと言う考え方は言語道断だ。


 そもそも"弱者"って一体誰だ? 『"何の権利"を持つ"誰の基準"を元にした判断で、"どんな条件"を満たした者を"弱者"として扱う』んだ? 俺は現状、『俺個人が抱く、何となくのイメージ』でしか"弱者"を語れていないんだが。


 他にも、他所で『障害者に失礼だから、フィクション作品の"人体欠損表現"は全て規制しろ!』と言った意見を見た事もある。つい最近では、『"特定の人々"だけの意見を聞き、"彼らから見て差別的に思えるファンタジー種族"が登場する映像作品を配信停止にしろ!』と言う意見が通り、現実にいくつかの該当作品が配信停止に追いやられた事例が存在している。


 このように『世間一般から弱者と認識されている立場、もしくは彼らへの擁護(ようご)意見』を悪用し、表現規制を始めとした一方的な権利の押し付けが行われている事例が残念ながら存在している。


 しかし片側の意見だけを聞いて彼らの人権・権利のみを保護し、対立するもう片側の人権・権利を蔑ろにする行為は、それこそれっきとした差別に該当する。


 そして何度も言っている通り、表現の自由は『他の人権と比べて優越的地位を与えられた、もっとも手厚く保護されるべき人権』とされている。その点を無視して安易な表現規制を行う姿勢には到底賛同できない。


 ましてや『表現の自由じゃねえんだよ!』などと、"特定人物の利益・思想のためだけに他者に与えられた人権・権利そのものを全否定する"姿勢など論外だ。


 参考までに、対立相手の権利に対する妥当と考えられる態度を紹介しておこう。


 GIGAZINE・2019年8月30日付の記事

『米議員はどんなユーザーをTwitter上でブロックしても違憲になるのか、議論が過熱中』

https://gigazine.net/news/20190830-alexandria-ocasio-cortez-twitter-block/


 ……詳しい内容はリンク先を参照してもらいたいが、要するにこれは『オカシオ=コルテス米国下院議員が行っているTwitterブロックは言論の自由に違反しているから、ブロック解除をするべき』……と言った旨の民事裁判だ。


 しかし、当の議員がブロックを行っているのは、彼女がプエルト・リコをルーツに持つ女性国会議員であり、それが原因で多数の人種・性差別発言に晒されているためだ。


 その点を踏まえ、原告側は以下の提言を行っている。


『アメリカ合衆国憲法修正第1条に従って、Twitter上のブロックは解除しましょう。その代わり、我々はオカシオ=コルテス議員が脅迫・差別・ハラスメントなどに対処するのを助けます』


 つまり、"相手方の抱えている問題を認めた上で、互いが納得する手段で互いの問題を解決しよう"……と提案している訳だ。


 断じて、


『言論の自由を訴える意見にもっと耳を傾けましょう。え? 彼女は差別を受けているからブロックをしている? 男女平等じゃねえんだよ! オカシオ=コルテスは被害者面するな!』


 ……などと、自分の都合を押し付けるために相手方の事情や主張に対する罵倒など行っていない。


 加えて、最初に上げたサイトのライターは『表現の自由じゃねえんだよ!』発言とともに、


『海外では、日本より表現規制が厳しい国がある! それでも彼らは面白い作品を作れている! "規制されると面白い作品を作れない"とか言うのはただの甘え!』


 ……と言った旨の意見も述べていた。


 このような『表現規制に文句を言う日本のクリエイターは甘えてる! 海外の規制の方が遥かに厳しい! それでも彼らは面白い作品を作っているんだ!』……的な論理は、しばしば規制派達の間で主張されているものだ。


 問題点を指摘しよう。


 第一に、この論理がそもそも誤謬(ごびゅう)である事は以前に俺が述べた通りだ。この論理を正当なものと認めるのであれば、それと全く同じ論理構造によって成立する、


『日本での殺人事件発生に文句を言う日本人は甘えている! 海外の殺人事件発生件数の方が遥かに多い! それでも彼らは日々を力強く生き抜いているんだ!』


 と言う意見も、同様に認めなければならない。

(参考・拙著、対話形式で考察する『誤謬・詭弁とその対処方法』

二分法(二者択一の強制)・https://ncode.syosetu.com/n4186fo/11/

価値観の押し付け・https://ncode.syosetu.com/n4186fo/16/)


 第二に、日本で作られる漫画やアニメなどの作品が海外で高い人気を誇っている理由は、単純な質の高さだけではない。『日本は創作物への表現規制が少なく、海外では考えられないほどに多種多様な表現が許されている』のも大きな理由だ。


 例えば、米国のいわゆるアメコミ(漫画)作品は、本場米国においては基本的に『子供かマニア』にしか読まれない。規制の厳しい米国では、『子供が見ても大丈夫』な漫画しか作れないため、どうしても対象となる層が限られてしまうためだ。


 そこに、表現規制の少ない環境で描かれた『日本の漫画』が入って来た。米国人達は、その"自由な表現が許され、大人から子供まで幅広い層が楽しめる日本の漫画作品"の面白さに強い衝撃を覚えた。結果、日本の漫画は米国で高い人気を得る事となった。


 この"表現の自由の広さ"に支えられた日本の漫画、アニメ文化は今なお世界中で高い人気を誇り、『クール・ジャパン』の一つとして現在広く認知されている(余談だが、(くだん)のライターは別の記事にて、『日本のドラマは他国のに比べて面白くないから、クール・ジャパンは終わった!』と謎の宣言をしていた。"クール・ジャパン"の語が指し示す広域な範囲の、他の分野を丸無視している時点でそもそもの論理が破綻している)。


 つまり『日本における表現の自由の広さ』は、日本の創作界隈にとって"極めて大きな武器、財産"であり、作品の面白さそのものに大きく関わっている事なんだ。


 一体なぜ、その"武器、財産"をわざわざ手放さなければならないんだ? 上記の論では、その妥当な理由が示されていない。


 結論として、上記の『海外はもっと規制が厳しいから、日本での規制に文句言うな』論には妥当性がない。


 さらに言わせてもらえば、『海外はこうだから、日本もこうしろ』論はつまり、『日本の利益を考えていない』姿勢だと受け取られても仕方がない(思想背景に日本人の『外来物を尊ぶ』一種のマレビト信仰的な価値観があるにしても)。


 なぜなら、この論のどこにも『日本の利益になるから』と言う視点が入っていないためだ。


 例えば、『欧米ではクジラは"頭がいい生き物"だから食べるのはかわいそうだと言われている! だから日本人もクジラを食べるな、捕鯨もするな!』……と言われたらどうか。恐らく大半の日本人にとっては、"全く意味不明な主張"に映る事だろう。


 なぜ『頭がいいと食べてはいけない』に繋がるのか?


 これは欧米で広く信仰されるキリスト教の価値観で、


『頭がいい(知性がある)のは"魂を持った"特別な存在である根拠となり、"心を持った存在"である証明となる。クジラは頭がいいから"魂を持ち、心を持っている"。


 つまりクジラと人間は"魂・心を持った特別な存在同士、いわば同胞"である。だから、心を持ったクジラを食べるのは"かわいそうな事"である』


 ……と言うものの見方をしているためだ。


『イギリス人はウサギを食べているけど、それはいいの?』と疑問に思う人もいるが、その答えは『ウサギは頭がよくない(知性がない)から、魂・心がない。だから、別にかわいそうと思わない』からだ。


 その価値観を、"非キリスト教圏である日本"に適用させても意味がない。日本的価値観で見た"魂"とは、


『知性とは関係なく"万物に宿る"もの。特別でも何でもない、ありふれた存在。食べてはいけない理由にはなり得ない』


 ものだからだ。


 それどころか日本にとってのクジラとは、"食べるだけ"のものではない。例えば"浄瑠璃の人形"の材料には、クジラの骨やヒゲが使われている。『海外と同じように捕鯨を止めろ!』と言う意見をそのまま鵜呑みにしまえば、最悪『日本の伝統文化の破壊』へと繋がりかねない。


 ちなみに、『日本の捕鯨のせいでクジラの個体数が減少している! 絶滅危惧種であるクジラを食べるなんて日本は酷い国だ!』……と言う指摘は、


『日本の捕鯨は、絶滅危惧種を避けた上で個体数が十分な種のみを対象にする"適切に管理"されたものであり、クジラの個体数に大きな影響を与える可能性は低い』


 ……と言う事実を前に、全く妥当性を欠く。


(しつこいようで何だが、やはり(くだん)のライターも別記事にてこの『絶滅危惧種のクジラを捕獲する日本酷い』論を取り上げ、日本側の対策を無視した上で罵倒混じりの解説を行っていた。


 他方で"明治政府による、アイヌ達のさけ漁禁止"に対しては『アイヌ達は鮭の個体数を守りながら漁を行っている』のを根拠の一つとした上で擁護していた。つま

り、全く同じ種類の努力を"アイヌは評価するが、現代日本は無視した上で批判"している。


 当該ライターの、この『日本を批判できりゃ何でもいい&反論は罵倒で黙らせ

ろ』精神によほど思うところがあったものと解釈し、適当に流していただければ幸いである)


(参考・『日本神話・神社まとめ』より

 日本人がクジラを食べる理由

 https://nihonsinwa.com/page/740.html

 外国人が捕鯨に反対する理由

 https://nihonsinwa.com/page/796.html


 カラパイア・2019年8月18日付の記事より

『日本の捕鯨はクジラ保全最大の脅威ではない。アメリカとカナダは自分たちの有害な行為に目を向けるべきだとするアメリカの研究者』

 http://karapaia.com/archives/52278298.html)


 このように、『海外はこうだから、日本もこうしろ』論を単純に受け入れてしまえば、むしろ日本の利益を損なう可能性が考えられる。


『日本の利益のために、日本の価値観を尊重した上で、日本での基準を元に判断を行う』べきであり、その目的のために有効な場合において"海外の基準・意見・制度"などを参考にするべきだ。


 ……上記をまとめると、


『一体誰が"表現の自由"を侵害したいと思うのか?』


 に対する答えは、


『立場や思想を問わず、あらゆる人物が該当し得る』


 ……と回答できるんだ」


「……つまり、俺や後手も?」


「その通りだ。


 そもそも突き詰めて考えてしまえば、"表現の自由に規制をかける"根本的な理由が、


『気に入らない表現を見たくないからである』


 ……と言ってしまっても決して過言ではないだろう。


 確かに、誰にでも好き嫌いは存在する。"気に入らないものを見たくない"と思う事それ自体は仕方のない事だし、そう言った感情そのものは安易に否定されるべきものでもない。


 しかし"表現の自由を保護する"と言う観点から見て、この点を客観的に認識しないのは危険であると言える。もちろん、"完璧な公平さを発揮しろ"はいくら何でも言い過ぎだが、自分のできる範囲で客観視する事は決して無駄な事ではないはず

だ。


 と言う訳で今回のまとめだ。


一、表現の自由の侵害を行いたい存在とは、『あらゆる人物』が該当し得る。"国

  家のみが表現の自由の侵害を行う"と言う考え方はステレオタイプ的なものの

  見方である。


  残念ながら反差別、弱者救済、平等などを訴える人々の一部に、弱者の権利保

  護の名目で一方的な表現規制を行おうとする人物も存在している。


二、人は、当該表現が自身のイデオロギーに合致する場合は表現の自由を支持し、

  合致しない場合は表現の自由を支持しない傾向が見られる。これを『イデオロ

  ギー的漂流』と言う。


 ……以上だ。

 では、また次回」



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