表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/12

表現の自由とは

※今回のエッセイでは、登場人物紹介及び前提は初回以降は省略します。

※本文終盤にまとめがあります。お忙しい方はそちらの確認だけでも大丈夫です。

「オッス、オラ先手こと聞き手!」


「後手こと解説だ。では、今回から本格的に始めようか。


 まず、『表現の自由とは何か?』から解説しよう。


 これは言葉通り『何を表現するのも自由』と言う意味になる。


 別の表現を取れば、


『人の内面の精神作用を外部に出す"外面的精神活動の自由"』

(『リラックス法学部、憲法21条 表現の自由・知る権利とは? わかりやすく解説』より抜粋)


 ……と言う事でもある。


 表現の手段は単に『言葉』だけとは限らない。『文章』『絵』『音楽』、あるいはそれらを複合させて何かを表現する事もあるだろう。


 人には表現の自由が認められている。だからどんな事を言おうが(もしくは書こうが、表そうが)、それは『当人に認められた正当な権利』と言う事になるんだ。当然、"何も言わない"事もまた自由だ」


「本当にどんな事を言ってもいいのか? 問題のある、道徳に反する発言――たとえば、『万引きってスリルがあって面白そう!』と言ったり、人に向かって『あんたバカそうな顔してるね』と言ったり、狐に向かって『猫やんけ』と言ったりしてもいいのか?」


「ああ、その通りだ。そしてもちろん、それら発言に対して『万引きは犯罪だから絶対にやってはいけない』『IQ150だけど何か?』『いや狐じゃい!』と反論する事も、『表現の自由によって認められた正当な権利』と言う訳なんだ」


「じゃあ、"間違った発言"はどうなんだ? 世の中には、他者の間違いに対し『知らなかったじゃ済まされない』『無知は無罪たり得ない』と主張する人もいるんだが」


「もちろん"間違った発言"も許されるし、それらも表現の自由によって保護されている。


 例えば『中世ヨーロッパの人々は皆、大地を平らだと信じていた』と発言したとする。しかし実際の中世ヨーロッパでは、一般人はともかくとして知識人達の間では『大地は丸い』と言う考え方は広く知られていた。


 例を上げれば、13世紀に発表されたダンテ・アリギエーリの『神曲』に描かれた挿絵の中には"球状の大地"が登場している。また、同じく13世紀の神学者及び哲学者であるトマス・アクィナスは、著書である『神学大全』の中で『大地が丸いと考えるのは合理的である』事に触れてもいる(例・船で陸地に近づいた際の山の見え方)。


 つまり、『中世ヨーロッパの人々は皆、大地を平らだと信じていた』は"間違った発言"だと言える。


 だからと言って、その発言を行った者が何らかの罪に問われる事などない。『そうだったんだ。勉強になったよ』だけで済ませられる話だ。仮に、知らずに行った発言のために相手が傷ついたとしても、『知らなかったんです、どうもすみませんでした』で終わりだ(発言内容や程度にもよる)。


 なぜ、間違った発言も許されるのか?


 第一に、間違った意見を述べたとしても、それは他者の意見に触れる事によって是正され得ると考えられているからだ。それによって個人、または社会全体が正しい(と思われる)結論にたどり着く事ができると言える。後述するが、これは"思想の自由市場"と呼ばれる考え方だ。


 第二に、人間にとって間違いや無知は切り離せない事柄だからだ。"全く間違わない人間"、"知らない事柄など全くない人間"なんて、そうそういる訳ではない。普通の人は間違えもするし、知らない事もたくさんある。もしも本気で『知らないでは済まされない』『無知は無罪ではない』を適用させた場合、ほぼ全ての人類に当てはまってしまう事になるだろう。


 それはあまりに現実離れしているし、もしも実際に適用された場合、大半の人間は恐ろしくてうかつな発言を行う事ができなくなってしまうだろう。"自分では正しいと思ってるが、もしも間違っていたとしたら……"と考え、発言を差し控える事は普通にあり得る。


 それは、結果として表現の自由を不当に制限する事につながる。後々詳しく述べるが、これは『萎縮(いしゅく)効果』と呼ばれるものだ。


 余談だが、米国で行われた"公人への批判による名誉毀損"に対する裁判である

『ニューヨーク・タイムズ対サリヴァン事件』の判決(1964年)において、法廷意見を書いたブレナン判事は以下のように述べている。


『自由な討論においては、間違った発言は避けがたいものであり、もし表現の自由が生き延びるために"余裕の空間(breathing space)"を持つことが必要なら、間違った発言も保護されなければならない』


(※参考・PDF『取材活動の特権と限界』8枚目・226P右段より)

(※リンク・https://www.nhk.or.jp/bunken/research/title/year/1998/pdf/004.pdf)


 この判決では『公人を批判する内容には、たとえ誤りがあっても、それだけでは名誉毀損にはならない』とされた。


 あくまで"公人(有名人)への批判"が対象であるため、全ての発言・表現に適用できると単純に考えてはならないが、まあ参考として挙げておこう。


 そもそも間違いや無知は"悪い事"なのか? そうではない。確かに褒めるような事でもないが、かと言って悪い事だと言い切れるものでは決してない。問題視するべきはむしろ『間違いや無知を一切正そうとしない』姿勢の方だろう。


 また、『知らなかったは済まされない』『無知は無罪たり得ない』と主張する人々は、上に述べた事を"考慮に入れた、知った"上で言っているのだろうか?


 もし"考慮に入れていない、知らずに言った"のなら、まず自分自身の発言に自説を適用させるべきだ。もし"考慮に入れた、知った"上で言っているのであれば、それを踏まえた上で反証、つまり『間違った事や知らない事を言ってはならない、それらは悪い』と考える理由を説明するべきだ。


『知らなかったは済まされない』『無知は無罪たり得ない』が適用され得るケースは――ある程度のケースバイケースが入る余地もあるだろうが――ざっと考える限り『十分に周知されている事柄』か『法律』などだろう。


 前者の場合、"責任者が周囲もしくは関係者へ当該情報を知らせる努力"を行って初めて正当化できる。十分に周知させなかった結果相手が『知らなかった』のであれば、それは『知らせなかった、伝達が不十分だった』責任者側の問題となる。


 後者の場合、そもそも法律の適用には該当者の知識を前提としない。もし『知りませんでした』で犯罪が許されてしまえば、社会秩序が正常に維持できなくなってしまうからだ。


 念のために言っておくが、『"知らなかったは済まされない"、"無知は無罪たり得ない"とは決して発言してはならない』……と言っている訳じゃない。当然、それら発言を行う事も表現の自由によって保護されている。単にその意見に対してこちらの思うところを述べた、と言うだけだ」


「なるほど。……じゃあ間違った事バンバン言ってOKなんだな!」


「一応釘を刺しておくが、"発言の結果"は発言者当人が責任を引き受けるものだからな。"発言"は自由だが、その発言及び発言者にどのような評価を下すのかは"その発言を聞いた者の自由"だ。考えなしに好き勝手言い散らかした結果、君が悪く言われる事になったとしても、それは君の責任だぞ」


「俺は悪くねぇ! だって先手(せんせい)が言ったんだ。先手せんせいがやれって!」|


「親善大使ムーブはいいから。

 ……話を続けるぞ。


 元々、表現の自由は18世紀の近代市民革命によって確立された概念だ。その当時は言論・出版の自由など、『人の内心における思想・意見などを外部に発表する自由』であると解釈されていた。


 つまり、"送り手"側の権利だったんだ。


 しかし、20世紀以降の情報化が進んだ現代社会では、情報の"送り手"と"受け手"とが分離するようになった。


 そこで、現代では思想を発表するだけでなく、思想や情報を求める・受ける・伝える……といったより広い範囲を含めた権利であると理解されている。


 いわゆる『知る権利』や『アクセス権』などだな。これらの言葉そのものは憲法の条文には記されていないが、通例・判例ともにこれら権利を肯定する立場を取っている。


 そもそも、表現の自由にはどのような価値が存在するのか?


 トマス・エマーソン(1907〜1991)は、表現の自由の価値を四つに整理し、説明をしている。



1・『自己実現』

 各個人が自由に情報を受領する事により自己の知見を高め、人格を形成・発展させる。


(意訳・自由に情報を得られる事は、自分を成長させるのに役立つ)


2・『自己統治』

 立憲民主主義をとる憲法の元、国家の主権者たる国民が情報の受領・発信を通じて政治的意志を自由に決定し表明していく事が、民主的な政治過程を維持・発展させていく上で不可欠の前提となる。


(意訳・民主主義にとって、みんなが自由に話し合える環境が一番大事)


3・『思想の自由市場(対抗言論の法理)』

 思想の善悪はその思想を受領した各人が判断する事であり、国家が介入すべき問題ではない。悪い思想は、各人の判断によって自然淘汰される。


(意訳・いい考え方はみんなに受け入れられて残り、悪い考え方はみんなから突っぱねられて残らない)


4・『社会的安定・体制への安全弁』

 権力に対する批判や反対が、暴力や革命にまで発展しないようにする。


(意訳・話し合いで解決する機会を与える事で、暴力を使った解決手段に訴え出る事を防ぐ)



 ……今日においては、特に1『自己実現』と2『自己統治』に重点を置いて説明するのが通説とされているな」


「なるほど」


「と言う訳で、今回のまとめだ。


一、『表現の自由』とは、『"内面の精神作用を外部に出す"自由』の事。問題のあ

  る発言や間違った発言をするのも自由であるし、逆にそれらに反論するのも自

  由である。


二、元々『表現の自由』は情報を発信する送り手側の権利だった。しかし現在では

  情報を発信する送り手側、情報を求める受け手側両方の権利と理解されてい

  る。


三、表現の自由の価値は、現在では主に『自己を高める役に立つ(自己実現)』と

 『民主主義の大前提(自己統治)』の二つに重点が置かれている。


 ……以上だ。

 では、また次回」

お付き合いいただきありがとうございます。

よろしければ、広告下部のブックマーク及びポイント評価(☆マーク)をお願いいたします。

作者の苦労が報われます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ