第二話 翌朝
巡り合いは必然か、偶然か。何の特徴もない彼と、何かを秘めている彼女の物語は交差した時、第二話が始まる……。
翌朝。
「い、いってらっしゃい」
ぎこちない父の声を背に、私は無言で玄関のドアを閉める。何度となく繰り返されてきたそれは、私にとっては何の苦痛もない一日の始まりであった。父の気持ちなど考える余地もなく、私は今日も学校に行くために駅に向かった。
いつものように電車に乗って、いつものように本を読み見始める。誰にも挨拶もせず、そそくさと本のページを捲る今が、私にとって唯一の安らぎの時間であった。椅子はどれも満席状態で、中央ではぎゅうぎゅう詰めになりながら必死に手すりにしがみつく会社員たちがごった返す。もし妊婦や老人、どこか怪我をしていたら譲ろうかと思ったが、この車両は殆どが若い人が占めており、気兼ねなく本を読むことができる。だからこそ私はこの車両を選定したのだ。
「……」
だが今までとは違うことがあった。一週間前のこの時間。私は痴漢予備軍の男性と出会い、痴漢をばらされたくなければ……という条件の元に互いの本を交換した(多分間違ってはいない)。今日がその本の返却日であり、互いに読んだ本の感想を言い合う日でもある。
そもそも何故そんなことを言ったのだろう。今思い起こしても不思議である。やっぱり恋か? 恋なのか?? ……うん、やっぱり違う。もしかしたらあのサラリーマンに何か同じ波長のようなものを感じ取ったのかもしれない。真偽は不明だが。それでも私が彼との繋がりを得ようとしたことには何かがあるはずだ。
でなければ、普通そのまま容疑者の手を取って周りに助けを求めるか、ここは見なかったことにして「二度と現れないで」と警告するかのどちらかである。
――のだが、
「……」
遅いな。私はあの人から借りた本のページを捲りながら時折周囲を見回すが、中々あの人はやってこない。私は表情を作るのが苦手らしく、相手に何を考えているか全くわからないとよく言われるのだが、周りをきょろきょろしている私は周りからどう思われているのだろう。悪いことがばれてないかと神経質になっているとかそんなところか。まあいい。そんなこと。私はあの人に会って、初めての意見交換をしたいだけだ。
今この時が、私にとって生まれて初めて興奮している時間なのだ。
「あの……」
不意に私の方から声がした。それは嗄れた今にも消え入りそうな声。嫌な予感がしたが、無視するわけにもいかず声の方を向くと、そこには老婆が申し訳なさそうに私の目の前に出現した。いつの間に……。いや、私があの人のことで頭がいっぱいになっていたせいで、老婆の足音に気づかなかっただけか。老婆は腰を九十度に曲げ、杖をついたまま私にこう言った。
「すみません。席を、譲っていただけませんか? 腰が痛くて痛くて……」
腰に手を当て、物凄く痛そうにしているのが見て取れる。私は真顔で拒否しようとした。が、もしその現場をあの人が目撃したら。そう思った矢先、私の口は仏となった。
「いいですよ……どうぞ」
「あ、ありがとう」
あれ? 声が勝手に、体が勝手に立ち上がって……あ、老婆待って。そこは私の……特等席だったのに……。老婆は緩やかに(私の)空いた席に座ると、深く感謝の礼をした。私は最早老婆をどかすわけにもいかず、仕方なく吊革を掴んで老婆の前に立つことにした。ここは満員電車中央部。何十層のサラリーマンに押しつぶされかけながら、私は折角の読書タイムをやめざるを得なくなったのであった。
だが、諦めたくない。利き手は既に吊革に捕まる役目を果たし、残った手で何とか本を読もうとする。だが片手で本を読んだことが一度もない私は悪戦苦闘を余儀なくされた。本を持つことはできても、ページを捲るのがとても難しい。ページを広げることすら困難を極めた。どうする? 刻一刻と幸せな時間が失われていく。もう着いていいのにあの人もまだだ。ああ、じれったい。何度読んだことか分からないけれど、何度も読みたい。それがあの人に借りた本なのに……。
「あの……」
「!」
不意に私のすぐ隣から声がする。今度は低いかすれ声のする人で、振り向くと予想通りのサラリーマンであった。少し太っていて、汗が顔や手から湧いて出てくるようだ。私が咄嗟のことで声が出ないでいると、サラリーマンはこう言った。
「本読みたいんですよね。私の手を貸しましょうか?」
私の挙動に感づいたのだろうか。サラリーマンは徐に手を私の(あの人の)本に手をかけようとした。私の嫌そうな顔に気が付いたのか、すぐにハンカチで汗を拭き取った上で、再び本に手を伸ばす。私もそれならと隣のサラリーマンの気遣いを受けることにした。
あ、でもこれはあの人の本だ。そう思った直後、
「あ……ここです! ここ!」
「あ……」
サラリーマンの波からあの人の声がした。かと思えば、鞄を私の方まで必死に伸ばしてギリギリ肩の上にポンと触れた。そのお陰で小さい声だけではなく、あの人の位置を認識することが可能になった。私は嬉しさのあまり頬が幽かに緩んだ。
ついに来たかと、私は隣のサラリーマンに「ごめんなさい。もういいんです」とお断りの一言を残すと、いそいそと手を振るあの人の元へ、サラリーマンの波に自ら突き進んでいった。
「ちっ」
本を持った女子高生が十分に離れたのを確認するや、小太りサラリーマン恩田信典は手を振る男に殺意の波動を放っていた。反対の手が後少しで尻に触れるところだったのに……。なんてことしやがる、くそ野郎。……まさかあの女に先約がいたとは……。一カ月間からつけていたのに、あの野郎、なんて手が速いんだ。
だが、まあいい。だったら俺の究極痴漢プランを『B』に移行すればいいだけだ。名付けて『寝取り作戦B』! くっへっへっへっへっへっへ……。
不気味で汚い口臭から吐き出される笑い声は、周りのサラリーマンだけでなくあの老婆までもが気分を害していったのだった。
「お待たせしました」
今日も同じく無表情でお辞儀をする学生。だが俺はどうだろうか。まさかの寝坊から必死にここまで走ってきたおかげで、ギリギリ間に合った。大きく深呼吸をすることで必死に荒い息を落ち着かせようとする。が、サラリーマンたちの汗の臭さが充満したこの車内でそんなことをすればどうなるか。
「ごほっごほっ!」
「大丈夫ですか?」
口内が悪臭を拒絶し、思わず噎せた。そんな俺に学生さんは心配そうに見上げてくれる(のだろうか、まだまだ表情が見えない)。一応背丈は頭半分くらいあるが、学生さんの上目遣いが俺の心臓をドクンっと強く高鳴らせたことは言うまでもない。それほどまでに少しの顔の変化が、俺をドキドキさせるのだ。やばい。この子めっちゃ綺麗だ。気を付けなくては……俺! しっかりしろ!
「ああ。だ、だいじょうぶ」
「そうですか。よかった……」
ホッと胸をなでおろす学生。瞬間。電車が大きく揺れた。
「あ!」
俺は大きく横に崩れそうになる学生さんの肩を支えると、今度は反対の方向に揺れた。
「あ!」
今度は学生が小さく叫ぶと、いつの間にか電車の出入り口のドアに移動していた。そして……俺は学生さんの顔の横に手をついて、完全に体が密着していることに気が付いた時にはもう遅い。俺の心臓は破裂しそうになった。
沈まれ! と必死に心臓の鼓動を抑えるが、一向に病む気配はない。学生はもちろん女性。年齢差は十歳近くあるが、女学生は……やばい思考がエロイことしか考えられなくなる。
駄目だ! 俺は今会社に行く途中なんだぞ! 子供相手に何してる! 変態! ロリコン! 目覚めろ理性! 落ち着け性欲―! と、必死に心の中で葛藤する中、学生がふと上目遣いでこう言った。
「本、持ってますか?」
「! ……本? ああ」
ナイス助け船! 俺はすぐさま鞄から本を取り出し学生に見せる。だが体が密着しているため、何度も謝った。そして俺はここで漸く大事なことを思い出した。
初対面が行わなければいけない大切な挨拶。
「お名前を聞いてもよろしいでしょうか」
あまりにも畏まった言葉遣いに学生さんは一瞬困惑したように首を傾げた。未だに超満席状態で、密着から解放されることはない現状。独身生活、且つ彼女が出来たためしも女子とまともに会話できたこともない俺にこれはきつい。ドラマや漫画で見たような「壁ドン」状態。イケメンなら、もし俺がイケメンだったら恋に落としていたはず! あ。でも年の差が結構あるから難しいか。…………でも――、
と、独身サラリーマンの葛藤が繰り広げる中、学生さんは手を自身の顔に近づけてから、招き猫のように動かして、こう言った。
「耳を……」
「あ。はい」
失礼のないように。俺はすぐに横を向いて学生さんに俺の耳を預けた。学生さんの名がここで漸く判明する。
「鶺ノ(の)鴒。二十歳」
「せきのれい……はたち!?」
「しー!」
そこで俺は衝撃の真実を目の当たりにする。学生服を着た彼女の名前、その後の年齢に……。
セキレイ全十九巻。面白かったです。アニメももっと続きやらないかなあ、と思うほど展開がどんどん面白くなっていきますね。やあ~あのおっぱいはあの極楽院櫻子先生のなせる業です。
そして第二話は、新たなサラリーマンが現れましたね。恩田信典、オンダ・ノブノリの今後に期待(いや鶺ノ鴒にとっては最悪ですが)。本のサラリーマンは次回に持ち越しになってしまい申し訳ありません。まさか別のキャラクターの名が二番目とは思いませんでした。というわけで次回、ついにサラリーマンの名が明らかになる……はず!