表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
浴槽の人魚  作者: 骨魚
1/9

きみはどこにきえた


 恋人と喧嘩をした。

 ひとつの噂は、取り返しのつかない最後を呼び寄せてしまった。


「だから、誤解ならなんでこんなに噂が広がっているんだよ!?」

「し、知らないよ! だって本当に八城(やしろ)さんとは何にもないんだもん!」


 僕と穏月(しずく)は、間もなく付き合い始めて2年になる所だった。

 付き合い始めた切っ掛けは、新人として入ってきた穏月の教育係として、僕が仕事を教えたことから。

 職場恋愛にそこまで厳しくない社風のお陰もあり、仕事で困ることは無かったし

 順調に仲は深まっていっていたと僕は思っていた。 


「知らないって言えば済むと思ってるんだろ!? 今僕達が会社でどんな立ち位置に居るのか分かってるのか!?」

「っ、それは分かってるよ! でも!」

「ほら、また『でも』だ! また話を振り出しに戻す!」


 彼女、深谷 穏月(みたに しずく)

 僕こと片桐 静海(かたぎり しずか)と、彼女の同期である八城 宏峰(やしろ ひろたか)と二股をかけている。らしい。


 所詮ただの噂だと、最初は聞き流していた。

 けれども今はどうだ。その噂は会社全体に広まっていて、彼女が歩けばひそひそと話し声が聞こえるという最悪な状態だった。


 ……ちなみに僕も彼女に二股をかけられている可哀そうな男扱いである。

 前までは先輩と後輩としてある程度は話す間柄であった八城も、噂が流れてからは僕を避けるようになったし

 幼馴染で同僚の高丘(たかおか)は顔を合わせる度に「もう別れた方が静海と深谷さんのためだよ」なんて言ってくる始末だった。


 でも、僕は本当に彼女を愛していて

 僕にだけ見せてくれる表情豊かな彼女が可愛くて

 不器用だけど何にでも一生懸命な穏月が大好きで


 絶対に別れたくなかったから、こんな噂が流れる原因を知りたかった。


 だからしっかり話し合おうと思って家に呼んだはずだったんだ。

 会社が休みの土曜日を狙って。穏月もそれを分かって来てくれたのに。


「だから聞いてよ! 八城さんはただ私の仕事を手伝」

「言い訳が聞きたいんじゃない!!!」


 こんなに怒鳴りつけるつもりじゃなかった。

 確かに苛ついていたけれど、それを彼女にぶつけようなんて思っていなかった。


「大体な……ぁ」


 はっと気が付いたときにはもう遅かった。

 僕の目の前の穏月は目を見開いて、鳴き声もあげずに涙を零していた。


「……そう、だよね。ごめん……ね」


 掠れたような声でそう言うと、彼女は荷物を掴み、僕の家から出て行った。

 バタン! と、扉が閉まる。


 一気に静かになった部屋で、僕は呆然と立ち竦む。


「…………何してるんだよ……本当に……」


 後ろに倒れ込むようにして、ソファーに座り込んだ。

 頭を抱える。泣かせてしまった。


 追いかけるべきだろうか。

 追いかけて、どうするんだ。


「……………。」


 少し考えて、スマホを取り出す。

 そこからまた少し考えて、メッセージアプリを開いた。

 アプリを開いてから、かなりの時間を考え抜いて、謝罪の言葉を送信した。


『さっきはごめん。熱くなりすぎた。酷く責めてしまった。

 穏月が悪いんじゃなくて、きっとなにか原因がある筈だから、ちゃんと話そう。

 今日はもう僕に会いたくないと思うから、また明日電話するね。』


 暫くの間、既読が付かないかと画面を見つめていたけれど、反応はなかった。

 諦めてスマホを机に置く。

 時刻は夕方になるかといったところ。

 まだ外は明るいけれども、気分を変えるためにシャワーを浴びることにした。


 そのメッセージに既読が付くことはなかった。

 そして結局通話も出来ないまま、時間は過ぎていった。

 

 ……僕が穏月に会えたのは、その日から3週間も経ってからだった。





 会社から帰宅する。


 今日は大雨だった。酷い大雨だった。

 そう言えば、あの日の夜も酷い雨が降った気がする。


 傘を玄関に放り投げる。電気を付ける。コートを脱ぐ。濡れている。


 その次の日も、そのまた次の日も雨だった気がする。

 あの時は水滴で前がぼやけて、何も見えないくらいだった。


 手を洗う。うがいをする。風呂を沸かす。


 カタン、と、何かが落ちた音がした。

 多分寝室だ。まぁ、後で確認すればいいか。


 スマホを確認。新規のメッセージは来ていない。


 ちょっと寒い。ストーブを付ける。

 とりあえず飯を食べないとなぁ。食べる気がまだあるうちに。


 コンビニで買った親子丼を電子レンジに放り込む。


 今日も、穏月は会社に来なかった。

 同僚たちは僕を気遣ってくれるけれども、お前たちも穏月を追い詰めた原因なんだからな。

 八城とはもう目も合わせていない。渦中にいる奴の癖にと思う気も失せた。

 高丘に噂について聞いてみると、少なくとも自分が話す女性達はその話をしないようにしようねと約束しあったと教えてくれた。まぁ、そいつらを許すつもりはないんだけれど。


 そんなことを言う権利はないんだろうけど。

 一番酷いことをしてしまったのは、僕なんだろうけど。


 レンジの温めが終わった音で、僕は思考の海から釣りあげられる。

 息を吐き、ほくほくと湯気の上がる親子丼を掻き込む。ちょっとむせた。


 おいしくないや。


 半分ほど胃に押し込んだ所で『お風呂が沸きました』と自動音声が鳴り響く。

 親子丼を残して風呂の準備を始めた。


 そう言えば、こうやって物事を中途半端にして次のことを始めること、穏月はあまり好きじゃなかったな。

 彼女は僕を怒るのだろうか。


 何故、突然そんな事を思ったのか。

 簡単だ。風呂に入る為の着替えを取りに行った寝室に


「……穏月」


 彼女が居たから。





 ぱしゃん。


 彼女は悲しいくらいにびしょびしょに濡れていて。


 ぱしゃん。


 それなのに物凄く穏やかな顔をしていた。


 ぱしゃん。


 彼女が()を揺らすたびに水の跳ねる音が響く。


「穏月!!」


 僕は叫び、彼女に縋りついた。


「穏月! 3週間も何処に行ってたんだ!? 心配したんだぞ!? 会社にも来ないで!!」


 穏月が僕の頬を撫でてくれたような気がした。


「あぁ、そうだよな。今日、酷い雨だったもんな」


 彼女の体は悲しいくらいに冷え切っていた。


「……本当にごめんな。酷いことを言って、それに」


 言いたいことは沢山あるのに、何も出てこない口が憎たらしい。

 いや、その前にだ、穏月をこのままには出来ないだろう。


「ごめん、寒いよな。風呂沸いてるから、入っても良いよ。着替えは俺のパジャマでも良いか?」


 ぱしゃん。と穏月が尾を揺らす。

 両手を付いて体を持ち上げ、そのまましょんぼりと項垂れた。


「……穏月。もしかして、歩けないのか」


 穏月は人魚になっていた。

 一応、最初からその尾は視界に入っていたのだが、穏月に会えたという事実の方が重要で意識から抜けていたのだ。

 丁度へそから下が魚の尾ヒレに変わっていて、ぱしゃぱしゃと音をさせながら優雅にひらめいている。


 穏月が歩けない事を悟った僕は、彼女に了承を取って抱きかかえることにした。軽かった。

 脱衣所についたところで、ふとある疑問が浮かぶ。


「……今思ったんだけど、もしかしたら逆に、水風呂の方が良かったりする? お湯抜いて入れなおそうか?」


 そう言いながら穏月を床に降ろすと、彼女は頬を膨らまし、尻尾をバタつかせた。


「分かった分かった。魚扱いしてごめんって」


 穏月は「分かれば宜しい」とでも言うかのような表情で笑った。

 そして抱っこをせがむ子供のように手を伸ばす。服は脱がないらしい。

 僕は彼女を抱きかかえて風呂場に入った。浴槽に彼女を入れる。


「きもちいい?」


 僕がそう聞くと、彼女はふやけた顔で笑った。

 幸せそうな彼女を顔を見ていると、何故だか涙が出てきた。


「     ?」


 穏月は不思議そうな、心配そうな表情をする。

 口をぱくぱくと動かし、どうしたのと問いかける。


「なんでもないよ、ありがとう」


 僕は涙を拭いて、彼女に笑顔を向けた。


「……声も、出ないとか?」


 ふと、先程から彼女が一言も声を発さないことに疑問を覚え、問いかけてみた。

 

「    」


 人魚姫は陸に上がる為に、声と引き換えに足を貰いました。なんて童話の一節が頭を過る。

 まさか逆のパターンがあるだなんて思わなかった。


「こっちこそごめん、謝らないで。僕は穏月が帰ってきてくれたってことだけで嬉しいから」


 僕は悲しそうな表情をする穏月の頭をそっと撫で、出来るだけ明るく答えた。

 確かに少し寂しいけれども、もう彼女を申し訳ない気持ちにはさせたくなかった。

 穏月の為にも、僕の為にも。


「じゃあ、ゆっくりしててくれていいから」


 僕は立ち上がり、風呂場を後にしようとした。

 すると穏月は慌てたように浴槽から身を乗り出す。

 勢いあまって飛び出しそうになるんじゃないかと思ったが、なんとか踏みとどまったようだ。


「ど、どうしたのさ」


 と、聞けば、穏月はしどろもどろになって口をぱくぱくと動かす。

 可愛いなぁとつい言葉を漏らすと、口を尖らせて拗ねてしまった。


「ごめんって。……えーっと」


 彼女の反応から考えると、これは。

 自惚れてもいいのだろうか。


「もしかして、寂しいとか?」


 なんてね、なんて濁しながら問いかける。


「…………。」


 俯いた彼女は、浴槽に体を沈めながら小さく頷いた。


「…………。」


 僕も無言になってしまう。


「じゃあ、ここにいるね」


 自分の家のお風呂場なのに、まるで彼女の家に遊びに来た時のような気分になってしまう。

 気恥ずかしいような、嬉しいような。


「……あ、ここでご飯食べても良いかな」


 晩御飯、残したままなんだ。と言うと、彼女はちょっと呆れたような顔をして

 そこから笑いながら頷いてくれた。


 親子丼は冷めていたけれど、びっくりするくらい美味しく感じた。


「穏月は? お腹すいてない? そっか」


 彼女が居るだけで、灰色だった世界に色が付いたようだ。

 詩や歌でありがちなフレーズのその意味が今なら良く分かる。


「え? なにニヤついているんだっだって? はは、内緒」


 あぁ、好きだなぁ

 きょとんとした表情の彼女を見つめながら、僕は幸せを噛み締めた。


片桐かたぎり 静海しずか

26歳/男性/会社員

一人称「僕」

穏やかな性格の男性。頭も要領もよく、所謂天才と呼ばれるタイプ。

仕事は好きだし、頼られていることも知っている。

あちらこちらに興味が移りやすく、意外と私生活はずぼら。

好きな人に関しては一途だが多少盲目なところもある。


ある日を境にその盲目さは暴走を始める。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ