幕間・兄と親友
兄フェルディナンドの話です。
腹をさする脳味噌も配慮も足りない親友に、侍従が冷した濡れタオルを差し出す。
気が利きすぎるのも考えものだ。僕はそんなものを用意しろなんて、一言も頼んでいないのに。
「いいから、自分でやらせろ」
と僕は侍従を部屋から追い出して、拳に巻いていたスカーフを外す。そして僕の分の濡れタオルで右手を冷やす。やっぱりスカーフ程度じゃガードにならなかった。
この程度ならば自分で癒すこともできるけれど、それはしない。
この痛みをなかったことにするつもりはないのだ。お互いに。
「お前、」とアンディ。「ちゃんと薬を塗れよ。エレノアに見つかったら俺が怒られる」
「怒られろ。石みたいな腹をしやがって、この筋肉馬鹿が」
むき出しになったやつの腹は、筋肉で割れている。さすが現役の騎士だ。ひと月ほど前に僕が殴った跡はもう消えたらしい。
「悪かったよ」
タオルで腹を冷しながら、珍しく素直に謝る。
「ヴィーがあんなに怒るとは思わなかった。子供だとばかり思っていたけど、そうでもないんだな」
その言葉は本心からなのだろう。
「…馬鹿じゃないのか。お前、あれほどヴィーを可愛がっていながら、何を見ているんだ」
僕が嫉妬したくなるほどヴィーはこいつを慕っている。
それなのに、あのとんでもない宣告を隠されたヴィーが、怒りも心配もしないとどうしたら思えるのか。馬鹿なのか。
そういえば昔キンバリーがこいつのことを、人の感情がわかるくせに鈍い、と評していた。
その時は何を言っているんだと思ったけれど。
今の今まですっかり忘れていたが、その通りなのかもしれない。
感情が否が応でもわかってしまう。その分、それ以上深く掘り下げて考えないのではないだろうか。きっとこいつなりの、自衛なんだ。
…という考え方は、親友の贔屓目か。
ただただ単純に、考えなしの馬鹿者なだけだ。
長い付き合いで何でも知っていると思っていたが、そうでもないということに、最近気がついた。僕はこいつが考えていることが、まったく分からない。
今日、こいつはうちに来る予定ではなかった。エレノアとレオノールは結婚以来初めて、実家に泊まる。ブルトン家勢揃いで公爵の誕生日を祝うために。
それなのにこの阿呆は父親と喧嘩をして、うちに逃げて来たのだ。
とるに足りないくだらない喧嘩だ。見合いをしろ、嫌だ、という応酬。二人とも引かず、結果がこの状態だ。
なんでこいつがこれほどまでに結婚を嫌がるのか、分からない。婚約者に逃げられたトラウマでもない。
あの時のこいつは、ラッキーと思っていたぐらいだ。彼女はあまり社交的ではなく、僕やエレノアとも無理して付き合っているようだったから。
それから何度か見合いが組まれたけれど、それらはおとなしく参加していた。
あの頃のこいつなら、結婚か絶縁かと迫られたら、結婚を選んだはずだ。
おかしくなったのは、ペソアに行ってからだ。
帰国してからのこいつは、恋人も作らなければ見合いもしない。挙げ句に絶縁されて構わないなんて言う。
何を訊いても、納得できる答えは帰って来ない。
これではペソアで痛い目に合ったとか、あちらに本命がいるなんて噂をされても仕方ない。
アルベール殿下やこいつの副官、侍従に探りを入れはしたけど、みな一様に心当たりはないと言う。
一体どうなっているんだ。
それに。おかしいのはそれだけじゃない。
上手く説明できないが、どことなく前のこいつとは違う。
打撲用の薬を塗り、着替えを終えた親友は、再び僕の向かいに座った。
「本当に悪かった。そんなに怒るな」
どうやら僕が黙りこんでいるのは、双子に隠していたことをまだ許してないせいだと思っているようだ。
「もう怒ってはいない。呆れてはいるがな」
「悪かった」
「次にヴィーを悲しませたら、出禁にするからな」
「…それは困るな。逃げ場所がなくなるじゃないか」
苦笑する親友。
本当にそう思っているのか?
それに。またヴィーを悲しませる可能性があるのか?
なぜ、そんなことはもうしないと断言しない。
「なあ」
「なんだよ」
「お前、僕に何か隠してないか」
こいつの表情は変わらない。
「何かってなんだ。もうないぞ」
「そうかな」
気持ちの悪い違和感があるのだ。
こいつはもっともっと重大で僕が困惑するようなことを隠しているのではないだろうか。
だから絶縁なんてどうでもいいことと思っているのではないだろうか。
そう考えれば辻褄があう。
腹をさするこいつの手の小指には、指輪がはまっている。
勤務中につけている唯一の装身具だ。
ブルトン家では息子が予科練に入ったときに父親が指輪を贈る仕来たりがあり、それには親子の名前と家紋が彫られている。
役目のひとつは厄除けだ。きちんと教会で祈りを捧げてもらってある。もう一つの役目は身分証だ。万が一、仕事中に首を無くしたとき、誰の胴体か分かるようにするため。
それをもらったときのこいつは、顔を輝かせて誇らしげだった。
それなのに、絶縁されても騎士団を辞めさせられても構わないと変わってしまったのは、なぜなんだろう。
「…お前はいつもギリギリまでひとりで抱え込む」
「いつの話をしているんだ」アンディは快活に笑う。「それは子供のときの話だろ。何もないって。お前こそどうかしたのか?」
それとも、気のせい、なのだろうか?
僕自身が幸せすぎて、結婚という通常の幸せを選択しないこいつに、勝手に違和感を覚えているのだろうか?
「何も隠していないのなら、いいんだ」
僕がそう言うと、それなら下へ降りようと親友は立ち上がった。
「しかし」とアンディ。「まさかヴィーのジュリエットを見る日が来るとはな」
僕はその顔を観察する。嬉しそうだ。
ヴィーにヒロインの役なんて、と反対すると思っていたのだが。杞憂だったらしい。
「そうだな。僕も聞いたときは驚いたよ」
廊下に出ると、二人の侍従が立っていた。僕たちの様子を見て、安堵の表情を浮かべる。
双子には秘密だけれど、学生までは、時に殴り合いの喧嘩をして彼らを困らせたものだった。
先月こいつの腹に久しぶりの一撃を叩きこんでいるが、それは騎士団本部でのことだった。だから、彼らは知らない。
先ほどの僕の発言に、数年ぶりの殴り合いが始まるのかと肝を冷やしただろう。
侍従たちに親友は、悪いなと。僕は、大丈夫と。それぞれ声をかける。
ヴィーがジュリエットか、と親友は繰り返した。
余程驚いているのだろう。僕だってミリアムから届いた手紙を見たときは、悪い冗談かと思った。
「お前、」とアンディはニヤリと意地悪な笑みを浮かべた。「感動して泣くなよ」
「泣くことのどこが悪い。ヴィーは世界一かわいいジュリエットになるぞ」
これだから馬鹿兄は、と20年来の親友は首を振って、
「いや、変態兄か」と言い直した。「ほどほどにしないと嫌われるぞ」
「うるさい、お前だって休みの度にヴィーを連れまわして、十分変態だ」
「俺はヴィーに誘われているからだ。お前とは違う」
ドヤ顔をする筋肉馬鹿。
「兄は僕なのに!」
もう一発、喰らわせてやろうか。
「変態は嫌だからだろ」
当然だろ?という顔に腹が立つ。
なんだよ、双子が可愛くて何が悪い。
お前なんか、実の兄妹でもないくせに溺愛じゃないか。
そう考えて。
どっちもどっちのような気がしてきたので、これ以上不毛な口論をすることはやめにした。
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