第百七十三話 父親との対話
とある会社、そこでは一人の会社員の男性が机の上で書類を纏めていた。彼の机の上には大量の書類が置かれていた。だがこれはこの男性が無能であるがゆえに大量の書類に囲まれている訳ではないのだ。むしろその逆、彼はとても優秀な会社員である。
ならば、なぜ彼の机上には紙の束が積み重なっているのか?
「……」
男性は黙々と書類をさばいていく。
その仕事の速さには彼の左右に居る同僚は内心で仕事のできる彼に関心、そして僅かばかりの嫉妬を抱いている。
「(たくっ…あんなに早く仕事が片付けられて羨ましいぜ……。しかし、なんだってアイツは他の人間の仕事まで引き受けてんだ?)」
同僚の一人が内心でそう考える。
そう、この男性は他の人間の担当する仕事までもを引き受けて処理しているのだ。自分自身のノルマの量の仕事ならば誰よりも早く片付いている事だろう。他の同僚たちはなぜこの男はここまで仕事に対して貪欲なのか理解できないでいた。はたから見れば彼はまるで社畜の様な存在に思えて仕方がなかった。
だが、この会社の上司たちは彼を縛り付けてなどいない。むしろ、働き過ぎている彼を気遣ってすらいるのだ。そんな上の人間の行為すらも押しのけて彼はこの会社、否、仕事に自らの自由を縛り付けているのだ。
「……」
黙々と次々に仕事を片付けて行く男性。
そこへ、手を止める事無く働き続けているそんな彼に同僚の女性社員が声を掛けて来た。彼女の手には電話が握られている。
「久藍さん…あなたに電話が来ているんですけど……」
「電話…誰からだ……」
「それが…久藍さんの息子さんらしいんですけど…」
女性社員の『息子』というワードに一瞬表情を動かすが、すぐに感情の薄い表情へと戻ると、手元の資料に視線を移し顔を向ける事無く淡々と告げた。
「仕事中だと伝えておいてくれ……」
そう言って話を終わらせようとするが、女性社員はその場に留まり続ける。
「それが…大切な要件という事で絶対に電話に出る様にと……」
オロオロとしながらなんとか電話に出てもらおうとする彼女。それに遂に折れたのか、久藍はため息を吐きながら席を立った……。
電話を受け取った後、彼は休憩室へと移動して電話越しに居る息子へと会話を始める。
「何の用だタクミ。勤務時間の間は極力電話してくるなと伝えておいたはずだろう」
『ああ…そうだな。普段は携帯にかけても中々出て対応してくれないもんな。だからこうしてわざわざ会社の電話を通じなきゃ伝達も出来やしない』
「……」
棘のある息子の言い分に何も答えず沈黙する父親。
それは言い訳を一切する気がないから……。
「…要件は何だ…?」
嫌味を無視し、手短に要件を聞き出そうとする。
その対応が癇に障ったのか、電話越しからは僅かに歯ぎしりの音が聴こえて来た。
『父さんに確認したいことがある…』
「何だ?」
『……』
しばしの沈黙の後、タクミは口を開いた。
「俺に……兄弟は居るのか………?」
タクミのその質問に、これまで淡々と受け答えをしていたタクミの父の様子は一変した。
もしも、この場にタクミが居たことならば目の前の父親の変化に驚いていた事だろう。いつもは感情の乏しい顔をしている父は、今は目に見えて驚愕に染まっていた。
「お前…どうしてそんな質問をする……?」
父親の反応が電話越しでも変化したことが分かったタクミは数瞬間を置いた後、答えた。
『俺は今日…自分の弟を名乗る男と出会った……』
息子からのその言葉に、父は手に持っていた電話の受話器を力なく地面へと落とした。
電話越しに聴こえる息を吞む声にタクミは内心胸の内がどよめいていた。自らの父のこのような反応は自分は今まで見たことがなかった。実際この目で見ている訳ではないが、脳裏には動揺している父の姿が浮かび上がる。
「(…この反応……まさか…俺の弟を名乗っていたあの男は本当に俺の……)」
思考がそこまで行くと、タクミの体もわずかに震える。自分の父親の動揺している様子が伝わって来ると、まるであの白髪の少年が本当に自分の弟なのではないかと思えて仕方がなかった。いったい、自分に無関心であるこの父親は何を隠しているのだろうか?
すると、タクミの隣に居るミサキはそんな彼の手に自分の手を重ねる。
「(ミサキ…)」
隣を向くと、微かに笑みを浮かべている彼女が小さく頷いてくれた。それだけで、タクミの心は落ち着きを取り戻す。
再び電話越しに居る父へと向けて話を再開する。
「父さん……今日一日の俺が経験した出来事…さすに父さんに色々と聞きたいんだ……」
電話越しからはしばし返答が帰ってこなかったが、数十秒後には返事が返って来た。
『分かった…』
ただ一言、短い返事が何処か重々しい声色と共に返って来た……。
電話を終え、自分の病室で横になり父親の到着を待つタクミ。
先程までいたレイヤーにカケル、シグレの三人は一度部屋を退出している。現在病室にはタクミの他、ミサキとレンの二人しか居ない。
これはタクミが出来る事なら当事者以外には一度席を外してほしいと頼んだからである。カケルとシグレは勿論、意外にもレイヤーもそれにはすんなり従ってくれた。
電話では父は会社で事情を話し、早退して今すぐ病院へと向かって来るとの事らしい。
「………」
ベッドの上で寝そべりながら天井をボ~っと眺めているタクミ。
正直、今日一日で色々な事があり過ぎて疲れが溜まっているのだ。肉体的にも精神的にも疲弊している為、気が抜けたような顔をしているタクミ。その様子にミサキは少し心配そうに声を掛ける。
「タ、タクミ君…大丈夫?」
「なんだか覇気のない顔してるけど…」
ミサキに続き、レンも心配そうに声を掛ける。
それに対して大丈夫だと答えるタクミではあるが、やはりセリフと表情はかみ合ってはいなかった。
「この後、タクミ君のお父さん来るんでしょ? 私とミサキも席を外した方が良いんじゃない?」
気を使って部屋から退出するべきかを問うレン。
だが、タクミは首を横に振る。
「いや、レンとミサキもあの二人組に襲われたんだ…話を聞く権利くらいはあるだろう……」
恐らく…いや、確実にあの二人組の狙いはタクミのことであったのだろうが、ミサキとレンも現場に居合わせ被害にあっているのだ。少なくとも自分を兄と呼んでいた少年に関する情報を自分の父が知っているのであれば、二人にもそれを聞く権利はある。
父はどうやら会社を早退し、すぐにこの病院へと来てくれるとの事らしい。それはタクミにとってはとても衝撃的な事だ。何しろ仕事の鬼とも言える人間が仕事を途中で中断し、自分の元へとやって来ると言ったのだ。これまで自分にはまるで興味を持ってはいなかったと思える人間の行動とはとても思えなかった。
「(怪我をした息子の見舞いに来る父親が珍しい…か……)」
タクミは心の中でそう呟きながら、思わず小さくため息を吐いた。
息子である自分が怪我をして病院送り、それを見舞う父親の行為が珍しいとは…普通の一般家庭では当たり前の行為であるはずなのに……。
しかも、厳密にいえば父がこの病院に向かっている一番の理由は自分の身の心配というよりも、今日自分の前に現れた弟を名乗る人物の存在が強い。つまり、自分のことを心配し気遣いの心で病院へと訪ねてくれるわけではない。
「(これが…親子と言えるのか……)」
そう考える少年は無意識の内に布団を握りしめていた………。